特別な教会を神は
2026年2月16日

カトリック教会であれば、教会創立というのは、いつだと意識されるのだろうか。ペンテコステだろうか。だが、そういう意識は基本的にない模様だ。プロテスタント教会の場合は、各教会が定めればよいのであって、なにもルターの出来事が教会創立と見なされるわけではない。それは「宗教改革記念日」である。それぞれの教会がいつ始められたか、がせいぜいのところであろう。
時には、己が教会の歴史を、特にその始まりを考えてみるとよい。この教会の信仰の原点を知る、というのは大切なことだ。
かと言って、その教会の習慣を絶対視すること、あるいはそれを強要することについては、意見の是非があるかと思われる。信徒は、自分が信仰を培ったその道を標準とするために、新たな時代にこのように変えたら、などという空気になると、大きな抵抗をしがちである。教会音楽はオルガンに限る、ピアノなど許せない、と言った時代もあった。ましてギターなど、不良の楽器を神聖な教会に入れるな、というのが常識であったのだ。
礼拝形式もそうだ。よく言われる話だが、欧米の宣教師が日本の教会に来たとき、150年前のアンティークな礼拝に驚いた、などと言われることがある。正にニーバーの祈りにあるごとく、「変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください」と祈りたいところだ。
教会の歴史を振り返るとき、息の長い教会の場合、太平洋戦争をまたぐことがある。そのときプロテスタント教会は、政府の指導と法律に基づいて、日本基督教団に合同された。これに抵抗したホーリネス系の教会が弾圧されたことは、よく知られている。戦後、合同である必要がなくなったが、そのまま日本基督教団として残る教会も多い。もちろん、戦時中のその団体とは一線を画した形で見られねばならないが、戦争協力とその責任については、声明が出されるまでにはだいぶ時間がかかった。
さて、こうした社会的な視点から教会を振り返るのも、時には大切なことである。ヴァイツゼッカー大統領の「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」という言葉を、私たちは決して忘れてはならない。それは、いまの日本の政治状況の中で、声を大にして言いたいことでもある。
だがまた、私たちはいまここからどう歩んでゆくか、という点へ、目を注ぐ必要がある。「私の魂よ、主をたたえよ。/そのすべての計らいを忘れるな」(詩編103:2)と我が魂に呼びかけて、教会の歩みを振り返ること、そしてこれからの教会のビジョンを描くこと、そうしていまここにいる自分が、何を知り、何をすべきで、何を望むものかを考えること、そうしたスタンスを確認したいものである。その意味で、これらの問いを立てたカントの哲学体型は、決して古びてはいないと思う。
説教者が語った「振り返り」を、一つひとつここに再現するわけにはゆかない。出来事が混じってくると、何かと不都合なことがある可能性があるからだ。そこで、いっそう福音の本質にまつわる視点から、レスポンスさせて戴こうかと思う。
それは、開かれた聖書箇所に基づくメッセージである。
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝えるためです。(ペトロ一2:9)
新約聖書の中でも、時代が遅い手紙であると見られている。迫害が実際に起こっていたようだが、ただでさえユダヤ教サイドからも煙たがられていたことだろう。ローマ帝国側からは、多神教でない故に無神論者呼ばわりされた挙句、皇帝によっては激しい殺戮にも遭ってきた。パウロならずとも、キリストが再び来て、世の終わりが来るという信仰が強くなっていたのではないかと思われる。
また、「教会」というものも一定の組織を形づくってきていたものと思われる。その中で、信徒を励ます意図があった故の手紙の言葉だと思われるのだが、君たちはこうだ、と断言する。「選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民」であるのだ、と。
「選民思想」は、ともすればいやらしい意味に理解され、ユダヤ教のよくないところだと見られることがある。外部からすれば、鼻持ちならない態度に見えることは、十分想像できる。そう、「選民」とは、他人に対して威張るために用いる切り札ではない。自分はエリートだと誇るために繰り出す言葉ではない。この迫害の中で、強い風に吹かれゆらめき、消えそうな炎が燃え続けるために、神が与えた信仰ということではないだろうか。歯を食いしばって忍耐するために必要な、焚き付けの燃料となるのなら、神から選ばれている、という強い思いは、本当に生きる力となるだろうと思うのだ。何故なら、それは「特別」ということだからだ。ただの友だちから、「トクベツ」の関係になることを、好きな方は望むものであろう。神の「トクベツ」になりたい――否、もう「トクベツ」にされていたのである。
そして、この「選ばれた」ということと、共に並んでいた「聖なる」ということとは、実質同じであることに気づいておくべきであろう。「聖なる」は、日本語の感覚だと「清い」「尊い」というようなものをそこに見るかもしれないが、元々の基本的な意味合いは、「区別された」「分けられた」という感じに近いものである。キリスト者は、世と同調することをよしとはされない。この世に染まり、属しているというものではなく、国籍が天にある、神の民なのである。
それは、闇の世から選ばれて分けられたキリストの僕であることを意味する。「選ばれた民」と「聖なる国民」とは、特別に異なる意味をもつとは思えない言葉なのである。
説教では、旧約聖書からも開かれたところがあった。出エジプト記の19章である。20章が十戒をモーセが聴くところだから、エジプトを脱出したイスラエルの民を今後どうするか、モーセがあれやこれやと動いている中である。
『私がエジプト人にしたことと、あなたがたを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来たことをあなたがたは見た。それゆえ、今もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたがたはあらゆる民にまさって私の宝となる。全地は私のものだからである。そしてあなたがたは、私にとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(出エジプト19:4-6)
「祭司の王国」という言い方があるが、先ほどのペトロ書の「王の祭司」と言うほうが、「あなたがたは」の述語としては相応しい日本語となるだろう。この辺り、ヘブライ語の特質や理解の仕方が関わっているのかもしれない。それで構わずに進むが、同時に君たちは「聖なる国民」となる、と言われている。ペトロ書にも、この「聖なる国民」と訳された言葉があった。「あなたがたはこの世では寄留者であり、滞在者なのです」(2ペトロ一:11)とも言われていたから、確かにそれはこの世とは違う原理に従って生きている者であり、それでいて、いまはこの世を旅するように生きている者を表していた。
エジプトを出たイスラエルの民が、どうして「聖なる国民」なのか。「あなたがたを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来たこと」(出エジプト19:4)という美しい表現で、神はこの民を確かに選んだ。選んで、救い出した。「今もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたがたはあらゆる民にまさって私の宝となる」(19:5)と聞くと、律法をも守るならば、という行いによる救いへとこじつける解釈をする人も現れるかもしれないが、申命記には3箇所、「宝の民」という言葉が見られる。そのうち2箇所には、同じ節の中に「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である」という宣言が先ずなされている。もうこれは、主の選びであり、断言なのである。
説教者は、「教会」の一人として、聴く者に力を注ぐ役目を果たした。この「教会」とは、建物のことではない。いわば「共同体」である。率直に言えば、「人」である。信仰を一つとする仲間に、説教者を通して与えられた神の言葉を伝える。神の言葉はそのまま空中に消えてゆくようなものではない。それは語られることにより、そしてそれを聴く者により、出来事となるであろう。それが説教である。
では私は何を受け止めたか。私にあっては、何が出来事となるのか。聴き取ったのは、「主体」である。日本語の「主語」も、西欧語では同じ語が使われることと重ねて捉えると、こういうことである。
教会はここまで、キリストの御名の下に守られてきた。たとえ何らかの危機があったとしても、それさえも次への成長のための力となった。だが、その主語は「教会」だったのだろうか。説教者は、主語は「神」なのだ、と指摘した。
教会が神をどのように信じたか、ではない。神がこの教会をどのように見ていたのか。見てきたのか。導いてきたのか。すべて、「神」が主語であるべきなのである。
実のところ、説教者は、「神はこの教会を諦めなかった」とまで言った。なんという、力強い真実の言葉なのだろう。これが、新しい訳で「イエス・キリストの真実」としたことの、ひとつのリアルな姿であるような気がしてならない。
そうであれば、教会のこれからについても、案ずる必要はない。神が、そこにいる。神が、それをなす。神が、約束を果たしてくださる。私たちは、自分がどうするか、教会が何をするか、えてしてそういうことばかり気にする。だが、聖書の信仰の世界では、神が主体である。神が何をご存じであり、神が何をするように決めておられるか、そして神が何を望み実現しようとしているか、そういう世界観をのみ、私たちは保つとよいのである。
キリスト教界が危機的であることが、ようやく真剣味をもって取り沙汰されるようになった。以前から分かりきっていたであろうが、なんとなく問題を先延ばしにしてきた。どこかの国の政治や経済のようである。SDGsにしろ、まだ真剣味が足りないように見えて仕方がないのだが、本当はもっと深刻なはずだ。近年教会の先行きについても、暗い予想がなされることが多くなってきた。
だが、説教者は言う。その神が私たちを必要としているのであれば、この形あるままの教会が、たとえどのようになってゆくにしても、何も心配することはない。教会に、否、教会だけに与えられた使命を果たすよう主の前を歩もうとするのならば、それでよいのだ。神が私たちをそうさせる。神が、私たちの歩みをも、創造してくださるに違いないのである。