永遠平和のために

2026年2月15日

哲学者の言うことが正しい、というわけではない。ただ、哲学の徒は、物事を可能な限り多方面から視るように訓練されている。誰もがひとつの方向に流されようとする中で、別の道を指摘することができ、またそのときにそれを説明ができる、ということになる。また、そのようなことができる人は、哲学者などと名のらなくても、哲学する人物であると見なしてよいであろう。
 
カントの『永遠平和のために』という本は、社会科の教科書でも登場するかもしれない。「国連」の設立に影響があった、と評されている。カントは、哲学者として初めて、プロとなった人物である。つまり、哲学を営むことによって飯を食うという生活を送った、たぶん初めての人である。三批判書が特に有名で、人間の理性についての冷徹な洞察は、その後の哲学の源流となった、とまで言われる。
 
これは1795年、カントが71歳のときに発表された本である。カントは当時の教会の姿勢に、理性的観点から自分の聖書理解や宗教に対する思想を述べたため、当局から睨まれていた。平和を論ずるというのは、いまならひとつの思想として何も問題はなさそうだが、当時のヨーロッパ社会は、とにかくあちらこちらで戦争があり、それも王位継承などという問題のために、王族ではなくて一般庶民が命を落として殺し合っている、ということが多かった。しかし、それは国の威信にも関わることであり、戦争から逃げるようなことは、国王の沽券に関わるものと見なされた。平和なんぞという、甘っちょろいものを強く言えば、ふだんから睨まれているカントは、どういう目に遭うか分からない。
 
そこで、皮肉めいたことや露骨な批判はオブラートに包むようにして述べ、しかも饒舌なカントにしてはえらく短い論文の形で、平和について提言した。当局の目を盗むような気持ちだったかもしれないが、それでも、カントは一言居士とでも言うのか、晩年これを言わねば死ねない、というくらいの思いで、平和を論じた。
 
いま、薄い文庫本でも出版されている。もちろん全集の中にも、学術的に信頼の於ける訳がいろいろある。そんな中、私は偶然見つけたのだが、古書店に、コンパクトながらハードカバーで、写真がたくさん入れられた、おしゃれな『永遠平和のために』があった。110円まで値が下がっているので、即買いだった。
 
読み易いように、訳文もだが構成にも工夫をこらし、なんとしてもこの本のことを多くの人に読んでもらいたい、という願いがこめられているように感じた。
 
最初の方は、本の中の短い句、よく知られたものもあるが、実にパンチの効いた句もあり、写真と共に大きな文字で目に飛び込んでくるようになっていた。やがて第一章が始まる、有名な六か条が並ぶ。
 
その2「独立している国を(小国であれ大国であれかかわりなく)、べつの国が、引きついだり、高官したり、買収したり、贈与したりしてはならない」
 
その5「いかなる国も、よその国の体制や政治に、武力でもって干渉してはならない」
 
如何だろうか。これをいま世界が掲げたとすれば、何かが変わるかもしれない、とは思わないだろうか。
 
但し、こうした過去の戦争にまつわる議論を読むとき、また引用するときに、注意すべきことがある。それは、いま私たちの世界で「戦争」という言葉が指す対象と、かつての議論の中で描かれている「戦争」という語の示す対象とが、全く違う、ということである。
 
人間は膨れ上がってしまった。暴走するパワーを手に入れた。いわばそのスイッチひとつで、世界が滅ぶ現実の力を所有してしまった。その現代人が「戦争」と呼ぶものは、かつての「戦争」と同じものとして呼べるはずがないのだ。
 
それを前提で、やはり言う。「永遠平和」とカントが呼ぶものには、きっといま注目してよい意味がある、と。戦争が常識であったあの時代に、これだけの洞察をしていたのだ。きっと随所で、新鮮な視座に気づかされるのではないか、と。



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