ボーダーライン2

2026年2月9日

マルコ伝の連続講解説教は、一つひとつの場面を切り取りながら進んでゆく。聖書の記事も、切り離して然るべき書き方がなされていることも、確かにある。だが、ティルスの地方に来たというこのイエスの動きには、これまでの流れの中で把握した方がよいように思われる。説教者も、その過程を辿り直した。
 
ティルスは、海岸のフェニキアの地域にある。イエスの本拠地のガリラヤ湖からは北西の方向にある。その北にシドンがあり、これも福音書に幾度か現れる。いまのレバノンにあり、そこへ行くまでには、福岡市から北九州市へ行くほどの距離がある。歩くと1日では届かないだろう。
 
イエスは十二人を派遣し、福音を知らせようとしたが、洗礼者ヨハネが殺された。このことは、その後イエスの心に穴を空けるような結果をもたらしたのではないだろうか。イエスは弟子たちを休ませ、自分も独りになる。群衆五千人にパンと魚を配り、湖の上を歩く。着いた土地で病人を癒やしたが、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、敵情視察というか、調査団のようにしてイエスの前に現れる。手を洗わない云々の言いがかりをつけられるが、それは衛生の問題ではなく、汚れという律法基準のぶつかり合いであった。
 
内から出るものが人を汚すのだ。そのことは、先週たっぷりと説教で受け取った。神と人との間に引かれている明確なラインを意識するも、人が人に対してそういう線引きをするということについて気づき、警戒することが必要だと改めて考えた。私たちは人を容易に裁く。その裁きは、自分はおまえとは違うという線引きによるものだった。境界線、ボーダーラインを設けることで、おまえの外から自分は攻撃すらできるのだ、とマウントを取ろうとするのが常なのだった。
 
ここまでは、ガリラヤ湖周辺での出来事である。だがここからイエスは、ガリラヤ湖に背を向けて、北西方向へ針路を変える。そして、ティルス地方に入ったのだ。そこは、ユダヤ人の区域ではない。いわば異邦人の土地である。イスラエルの民に福音を伝えるべきとの使命を帯びていたイエスが、どうしてユダヤを離れたのか。
 
分からない。だが、人間としての心を完全に有っていたのならば、洗礼者ヨハネの次に命を狙われることを予感した可能性もある。そのように危険回避の思いがあったのかもしれないと同時に、悲しくてやりきれない思いから、環境を変えたのかもしれない、とも思う。
 
ある家に入り、誰にも知られたくないと思っておられたが、人々に気付かれてしまった。(7:24)
 
「気づかれた」と上手に訳されているが、ここのギリシア語の使われ方は、「隠れることができなかった」という言葉で表現されている。イエスは、確かに「隠れていた」のである。イエスのことは、この地方でも知られていたことが分かる。イスラエルで不思議な力を見せている、あのイエスがいるぞ、という話は、町の中に次々と伝わっていったからだ。それを聞きつけて、一人の女がやってくる。
 
その娘は、汚れた霊に取りつかれていた。このような言い方を、軽んじてはならない。なにしろ現在でも、カトリック教会では、「エクソシスト」なる仕事がある。悪魔祓いである。有名な映画のために、どうしてもオカルト話のように見られがちだが、悪魔による災いに対して神の御名を以て解決を図ることは、決して超常現象を指すものではない。聖書の「汚れた霊」を、古代の非科学的な迷信だ、というふうに軽んじてはならない。現に、この礼拝説教が語られたその日、日本中に悪霊が覆っていた、と見た人は、少なからずいるはずである。
 
この母親がイエスの前にひれ伏して訴えたところから、二人の「対話」が始まる。この母親は、シリア・フェニキアの生まれのギリシア人だと説明されている。イエスはその頼みに対して、「まず、子どもたちに十分に食べさせるべきである。子どもたちのパンを取って、小犬に投げてやるのはよくない」と、殆ど暴言のような言葉を差し向ける。
 
説教者は、この「小犬」を、山浦玄嗣氏の『ガリラヤのイェシュー』から引用した。女は長崎弁で「うちんむすめから、どげんか憑きもんば落としてくださらんやろうか!」とイェシュー(イエス)に問うと、「まず、子供らに腹がいっぱいになるまで食わせろとよ。子供らの飯を取って、犬畜生に投げてやるのはよくないからだとさ」と答えた。女は、「旦那さま、ばってん飯台んしたん犬ころでん子供らのこぼした飯粒ば食うもんですたい」と返す。これに対してイェシューは、「いいことを言うなあ。よし、帰りなされ。憑き物は娘さんからもう落ちてしまっているぞ」と言ったという。
 
「犬畜生」とまで言うのは強すぎる、というような説教者の感想だったが、言おうとしていたこととしては大いにインパクトがある訳し方であろう。また、説教者はしきりに、イエスの「いいことを言うなあ」の感嘆に、聞き入っているようだった。聖書協会共同訳では、それは「その言葉で十分である」と訳されていた。文字通りではあるが、「いいことを言うなあ」は確かに実感溢れる意訳であると言えよう。
 
この場面を受け取る為に、説教者は、一つのイメージを予め提供していた。はっきりとそれは口に出さなかったが、私はこれではないか、と受け止めた。それは「分断」である。私たちは、すでに外から入るものと内から出るものとを峻別することを先週学んでいたが、そのときに、ボーダーラインが引かれることを確かに印象づけられた。いまもまた、異民族に対して、イスラエルの側の論理としては、ボーダーラインを引くことが当たり前になされていたのである。ある意味で、イエスもそのラインの存在を前提とすることで、異邦人の女の頼みを拒もうとしていたのである。
 
このような線引きは、「不安」が高まると行われるようになる。説教者はそう指摘する。民族の間に、文化の間に、線を引く。説教の終わりの方で、故小山晃佑牧師の説教を思い出して説教者は語った。それはこういう対比だった。アメリカは、線を引いてあっちとこっちとの間に線を引いて、敵を指摘する文化だ。他方日本は、引いた線の内にいる仲間同士で、大丈夫だと安心する文化だ。小山牧師は、東京生まれだが、アメリカで神学を学び、いくつかの国を歴任した後、最後はアメリカの牧師として命を全うしたという。その方が、ボーダーラインについての、一つの着眼点をもっていたというのである。
 
では日本では、イエスを人々をどう見ているのだろうか。人々は私を何というか、というイエスの問いかけについて思いを寄せてみるのだが、これについては、最近発行された『キリスト教入門の系譜』(岡本亮輔・中公新書)に有益な示唆がある。最近のキリスト教入門の類いの本から窺えるのは、信仰を証しして信仰へ誘うことではない。また、信仰のない人々に知らせたい、という動きも起こったが、知的関心をもつ人に紹介することも増えてきた。さらに、信仰するつもりはない人々に対して、キリスト教の内実を明かすようなところにまで来ており、ついにはウェブサイトに於いてオンデマンドなスタンスで、礼拝すらコンテンツとして扱うようにもなっている。キリスト者ではない研究者だけに、冷静に事態を捉え、淡々と日本のキリスト教のこれまでと、これからへの展望の欠片を考えさせてくれる力作であった。そのように、イエスを、人々はそうした背景の中で見ているのであるに違いないと私は感じた。
 
人々はイエスとは誰か、ということに関心をもっているわけではない。だが、有名なイエスを何らかの形で利用しようとている。イエスは、自分の精神的欲求や好奇心のための、単なる「記号」のように扱われているのではないか。説教者は断片的にそのような言葉を混ぜることによって何かを言おうとしていたと思うが、私はこのように推察した。
 
また、私の好きな本のひとつだが、バーバラ・ブラウン・テイラーの『天国の種』という本をも取り上げた。それは「マタイによる福音書を歩いて」というサブタイトルがあるため、引用はマタイ伝からで会ったが、この女とイエスのやりとりについても、深い霊的な洞察を示しているという。
 
もしこの本をお持ちの方や、お手に取る機会があった方は、ぜひ彼女の説教をお読み戴きたい。訳書の112頁からである。説教者が引用したところももちろんだが、本日の説教でぱらぱらと振り撒いていた種が、どこに埋まりどんな芽を出すものなのかを、きっとよく知ることができるであろう。この本の説教が、本日の礼拝説教の、隠れた本筋だったからである。
 
その本の説教は、幾度も「線」または「境界線」という語が現れ、伝えようとしていることのキーポイントとなっていた。私たちは日常的に、自分の関わることについて線を引いている。その線を、よそ者が超えることを許さない心理がある。イエスが正にこのとき、そうだったのだ。ところが「彼女の信仰を通して、主イエスは、神がご自分に与えている目的はそれまで思い描いていたよりもずっと大きいこと、そして、ご自分の手は十分に行き届くということを学ぶのです。」そのため、「古い線を消し、もっと大きく描き直し、……今日出会ったこの外国の女性を、境界線の内側に置けるようにしなければなりません。」
 
そして、説教者が引用した文へとつながってゆく。「信仰が、主イエスの上でレバースイッチのように動きました。すると、主のみ腕は大きく大きく開かれていき、ついに腕の中に全世界がすっぽりと入ってしまうまでに広げられていきます。ついに十字架上でその腕を広げたまま釘打たれるままにまるまでに。」これを聞いて、私の目に涙が流れたことは言うまでもない。
 
「神の呼びかけは、わたしたちにつきまとい、わたしたちを名前で呼び、そして、わたしたちが自分のために引いた線をついに踏み越え、その向こう側にまったく新しい世界を発見するようになるまで続くのです。」そのラインを、私が消すことができる、と豪語しなくてよいだろう。私は線を引こうとするが、うまくゆかない。だかそこに神の呼びかけが関わってくる。あくまでも私たちが線を引くことを正当化しようとしたとしても、そのとき「神は動き出し、わたしたちが周囲に引いた線をかき消し、境界線のない神の愛の国へとわたしたちを招かれます。」神は、私たちが「自分たちのために引いた一線を越えるように呼びかけて折られます。」[線の向こう側で待っておられるのが、ほかでもなく神ご自身であることを私たちが知っているから」、わたしたちはそのボーダーラインを踏み越えてゆくことが可能になるのである。



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