独り暮らしを始めた(2)

2026年2月3日

京都へは、宅配便で送れる荷物は送った。段ボール箱幾つかであった。使ってよい食器を幾らか、手許に置きたい本や辞書、分けてもらった鍋など、比較的小さなものと、衣類とだ。ただ、布団と炬燵だけは、大きいけれど特別に送ってもらったかもしれない。記憶が定かではない。その他家具と呼べるものは、後から生協で購入した。憧れだったライティングデスクと一番安くて収納量の多いスチール本棚、小さな食器棚などである。食卓は、またの機会とし、しばらくは段ボール箱を逆さにして食事をしていた。
 
心配で見かねたのか、母が春休みのうちに一度来てくれた。何日か片づけをしてくれたけれど、近くを案内した程度で、間もなく福岡に戻った。あとは独りでなんとかしてゆくよりほかない。
 
何の料理もしたことがない。しかし、費用のためには自炊の他には選択肢がなかった。生きるために、勉強した。そのために、料理の基礎といった1冊の本を、母が選んで買ってくれた。生きるためという目的があれば、吸収は早いし、よく身につく。学習というものは、何事もそうあればすぐにものになるだろう、という気がした。
 
食費の目標を、一日400円に置いた。但しクラスでコンパがあるときには、特別出費扱いにした。好きだった日本酒も、2級酒を月に一本買ったが、それは食費に含めた。当時の物価はもちろんいまより安かったはずなのだが、牛乳1Lが200円で打っている店が安いといつも買っていたし、卵もだいたいそれに近かった。食パンも、6枚切りがなかなか百円では買えなかったと思う。今と比べて、極端に安いということはなかったように思う。調味料も何もかも含めて、一日400円でまかなうにはどうすればよいか、いつも計算していた。昼は大学で最低に近いメニューで200円少々使うとすれば、相当倹約していたことになる。
 
前後するが、光熱費関係の契約も、自分でしなければならない。アパートの各部屋は独立なので、大家さんや業者がまとめて面倒をみてくれるわけではない。電気やガス、水道なども一つひとつ届け出る。銀行への出入りも度々である。新聞もお願いしたが、これは毎月集金にくる。すっかり顔なじみになり、6年ほどのつきあいとなったが、最後の集金のきには、印象的な学生さんでした、との言葉を戴いた。愛想良く話をしたせいだったのか、何なのか、私としてはよく分からない。
 
こうした公的費用は通帳に記載されるために、それも全部チェックして、1か月の収支を必ずまとめて、親に手紙で報告していた。やはり月により、予定額を多少上回るときもあったが、親はとやかくは言わなかった。学費は払ってもらうという状態だったが、私立のイメージが与えるのと比べると、まだ幾らかましな方だったのではないかと思う。それでも、負担をかけていることは申し訳なかった。その他、月額幾ら幾らという程度の援助を受けていた。前回お伝えしたように、家賃分は収入を得ていたので、わずかだが努力は重ねていた。
 
恵まれていた点はある。大家さんは、地元の元地主のような人で、駅前に喫茶店をもち経営していた。そこへ、いつ来ても、コーヒーだけは顔パスで飲んでいってよいことになっていた。図々しく毎日行くようなことはしなかったが、週に一度くらいはそこへ寄った。というのは、働いていたのは一人の女性で、ひとり上洛した少し年上だが若い方だった。その人に気に入ってもらえて、話し相手にもなっていたのである。一度だけだが、吉田神社の節分祭りに二人で行ったことがある。何年かして、結婚されたという話を聞いて安心したのを覚えている。
 
夏休みと正月は、基本的に福岡に帰省することに決めていた。新幹線代は親が出してくれたが、確かその多くは、夜行バスを利用していたはずだ。大阪までは私鉄で安い。そこから夜行バスで、寝ている間に福岡に着く。これが新幹線よりもだいぶ安いのだ。必要な本だけは段ボール箱ひとつ送ったから、学びの上では問題は基本的になかった。しかし当時はインターネットなどないし、図書館が使えないのは、我慢するしかなかった。
 
家にいると、光熱費がかかるため、大学の図書館で夕刻まで過ごすことが多かった。無駄な出費を、とにかく抑えるにはどうすればよいか、ばかり考えていた。古いアパートである。家賃は安いが、トイレもあったし、とりあえず使える浴室もあった。それらは、部屋のサッシの外にあった。
 
夏はまだいい。京都の夏は暑いから、吉田兼好も嘆いている通り、確かにたまらないのだが、扇風機があれば生きていけた。冬は厳しかった。その風呂から出ると、外気なのだ。よくぞあれに慣れていたものと、いまさらながら思う。その風呂も、実家では隔日で沸かしていたから、たぶん私も京都で毎日沸かすようなことはなかったと思う。こうした浴室もトイレも、自分で掃除しなければならないのは当たり前である。実家でそうしたことをやったことは殆どなかったから、とにかく自分でするしかない、という環境に置かれたら、人間は何でもするものだと思う。
 
炬燵も、電気代を食う。家庭教師を続けてゆくうちに、ストーブを買った。計算の上、冬はそれがまだましだと考えたのだ。石油ストーブであり、湯も沸かすことができる。坂を下ったところに灯油販売店があったから、配達賃を節約するためにも、ポリタンクに入れて持ち上がっていた。もちろん、火力はできるだけ小さくして、我慢できるときには我慢して使わないでいた。京の底冷えはしんしんと冷える。木造の一階だったから、殆ど土の上に寝ているようだった。(つづく)



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