ボーダーライン
2026年2月2日

小中学生の受験生を指導している。中学受験は福岡では終わったが、高校受験に挑む中学生は、ちょうど第一弾直前となっている。出願したら、もうやるしかないのだが、どの高校を受験するか。そのとき気になるのが、ボーダーラインというものだろう。さしあたり分かりやすい目安が偏差値というものだが、それがすべてではない。あくまでも、一つの目安に過ぎない。
この場合のボーダーラインとは、数値化されたものにほかならない。そして仮想したラインの上か下かで、合格と不合格が決められる、と考える。その境界線の内と外とが、決定的に分かれてしまうのである。それは、いわば人生の大きな岐路である。
聖書にいう裁きというのは、私たちはこのようなボーダーラインとしてイメージすることができる。だが、私たちの想像するそれと、どこまで同様であるのか、それは分からないとすべきだろうと思う。
さて、今日もマルコ伝の連続講解説教である。先週は、汚れた手で食事をしている弟子たちが俎に上がった。それを受けて、本日のイエスの言及がある。もちろん、手を洗わずに食事をすると衛生的によくない、という意味で前回問題が起こったのではない。あくまでも律法をどう理解するか、どう適用するか、という辺りに眼差しが注がれていた。
イエスは、論敵がこだわる「汚れ」というものの本質を、今回見事な対比によって、映しだした。
外から人に入って、人を汚すことのできるものは何もなく、人から出て来るものが人を汚すのである。(マルコ7:15)
説教者も繰り返したことからも分かる如く、今日はこの一句に尽きる。汚すものは、手を洗うことによって水に流すような、外からくるものではない、というのだ。本当の汚れというものは、人の内から出てくる。結局それが、その人を汚している、と断ずるのである。
説教者は、コロナ禍に於ける私たちの経験を思い起こし、互いに目くじらを立てる精神を指摘した。実際、細菌感染というものについては、知識が必要である。予防手段についての公的な指摘が誤っているわけではない。だが、その陰には、得体の知れないものに対する恐怖が存在していたのであり、そのために誤解や偏見が塗り重ねられ、ありもしないところに抱く恐怖によって、排除や迫害があったのは事実である。
医療従事者に対する差別があちこちで発生した。否、「発生した」というのはあまりに無責任であろう。人々が、加害行為をなしていたのである。我が家はそこまで露骨な差別を受けることはなかったが、コロナ禍の初期には、医療機関にも満足な物品が配給されず、手作りで防御服をつくったり、マスクの品薄に悲鳴を上げたりしていた。
説教者は、リチャード・ヘイズ教授が、ゼノフォビアについての講演をしたことを教えてくれた。これはたぶん2020年6月に、オンラインで行われた講演ではないかと思われるが、ゼノフォビア、つまりよそ者(クセノス)+恐怖(フォボス)という概念を検討するものだった。英語読みだと、ギリシア語の「クス」を表記する「X」がそのように読みづらいために、濁って読まれるのだと考えられる。
「よそ者」を、イエス自身のことだ、と指摘することができるだろうし、聖書には「寄留者」の扱い方についての指摘が幾度もなされる。キリスト者が、よそ者を排除せずに受け容れることが大切であろうことも示すべきであろうが、そもそもキリスト者が、この世からすればよそ者である、という認識も必要であるのではないか、と思われる。
説教者がイエスの言ったことの中に見出したことの一つに、こういうことがある。自分の内にうる汚れを、外からの人のせいにするな、と。自分の中にある負い目のようなものが潜在的に隠れている場合、他人がそうであったときに激しく非難攻撃をする、という心理学的な説明もある。世間で異質な者を排除したり、その非を激しく咎めるということの中には、自らの中にあるコンプレックスや良心の呵責のようなものが、気づかないままに潜んでいる、ということがあるのかもしれない。
しかしまた、それに気づかず、あるいは気づこうともしないで、一方的に他者を攻撃することを続けるタイプの人間もいる。これは実に恐ろしい。それは、恰も自分を神としているかのようである。
ここでイエスは、具体的に、人の中から出てきて人を汚す者を例示している。「淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意、欺き、放縦、妬み、冒涜、高慢、愚かさ」と並べられているのがそれである。訳語の問題もあるだろうが、たとえこれらをギリシア語で理解したとしても、元のイエスの意図は十分には分からない。イエスはギリシア語で話したわけではないからである。
しかし、それにしてもこれらの悪の羅列には、見ているだけで胸が痛む。ちくちくと刺されるときもあれば、ズキズキと古傷が痛む場合もある。いまもなお自分はやっているのだ、と気づかされて落ちこむようにもなる。ただ、そうやって痛みを覚えることこそが、キリスト者の証しではないか、と自らを慰めもしようか、とも思うことがある。
礼拝説教では、マルコ伝7章のほかにも、旧約聖書が同時に開かれていた。詩編32編全体である。標題を除いて最初の言葉が「幸い」である。これは詩編1編もそうであった。150編を数える詩編の幕開けが、「幸い」だったのだ。また、私はこれにつなげていつも思うのだが、マタイ伝に於けるイエスの、いわゆる山上の説教の冒頭も、ギリシア語ながら「幸い」なのだった。聖書は「幸い」に溢れている、と伝えたいときに、触れることだ。
この32編は、神に背いていましたと告白したとき、神の赦しを受けた、という感動をうたっている。沈黙していたときには、苦しさに押しつぶされそうだったのだが、いまや主は逃れ場であり、救いの約束がすべての災いや敵から守ってくれる。その結果、この詩は次のように結ばれる。
正しき人よ、主によって喜べ、喜び躍れ。
心のまっすぐな人は皆、喜び歌え。(詩編32:11)
説教者は注意書きを読むように、この「赦す」という神の営みについてコメントをした。それは、罪を「なかったものにする」ものではない。むしろ、罪の力から「解き放つ」ものなのである。神は、ある条件を通して、人を罪の力の囚人として見ることをやめてくださる。その条件とは、イエス・キリストの前に自らの罪を知り、十字架を見上げて主と告白する、とでも言っておこうか。もっとうまい言葉や説明があるはずなのだが、それは私たち一人ひとり、救われた者が受けた神の言葉と真実によってのみ、明らかになるものなのかもしれない。
イエスの「人から出て来るものが人を汚す」というテーゼは、ひとつの真実である。普遍的な真理である。だが、私たち人間は、それを他人事のようにして見ているわけにはゆかない。その姿勢は、明らかに間違っている。だから、説教者は言い換えたのだ。「自分の内にある汚れを、外からの人のせいにするな」と。
何故かというと、それは、汚れや罪があるという事実を認めずに、さらにごまかして、自分には責任がないとするからであり、要するにそれは「欺瞞」なのである。単に罪があるというレベルをひとつ超えたところにある、より悪質な罪となる。すり替えて、自身を善とするからである。自分を神とするからである。
月の初めの主日に、聖餐式を行うプロテスタント教会が多い。カトリック教会のように、毎度そのようなことをするのが当然、とするところから見れば問題点を感じるかもしれないが、パンと杯は、イエスを身に受ける私たちにとって、やはり重要なものに違いない。
説教者はこの聖餐式の姿について、印象的なコメントを発した。私たちの汚れを知る方が、ラインを超えてここへ来てくださるのだ、と。神と人との間には、明白なラインがある。言うなればボーダーラインである。人間は、それを超えることができない。人が「カミ」に簡単になる日本の風土からすれば、考えにくいかもしれないが、神と人との間には、確かにボーダーラインがある。
だが、神の側からは、それを超えることができた。キリストが、人となってこの世に来た。キリストは、人の世でよそ者として生きた。そしてよそ者として殺された。しかしキリストは「よそ」ではなく、そちらこそ「うち」だと知った者たちがいた。私たちもそれに続いた。
私たちは、直にイエスから聞いたとは言いづらいのではあるが、イエスの言葉が、ボーダーラインを超えてもたらされたことを知っており、それを聞いている。その言葉を信じ、その言葉とイエスその方に従おうとするとき、神は端的に「幸い」というべきものを与えてくださる。そのためにも、ボーダーラインを超えてくるその神の言葉を、口から入れて、内に留まらせていようではないか。
イエス・キリストを通して神を見上げる者は、もはや罪の力に束縛された者だと神は見ることがないのである。罪なきイエスを着る者は、もはや汚れたものを吐き出さない。――そうまで期待されているというのは、なんと感謝なことではないだろうか。なんともったいないことではないだろうか。
私たちは、配偶者とは、別れることがあるかもしれない。だが、我が子とは、本質的に別れることができない。血のつながりの故である。今風に言えば遺伝子の故である。しかし、人は神の遺伝子をもつというような捉え方はしづらい。だから、神を愛するということは、配偶者を愛することと並行的な何かがある。ボーダーラインを引くことさえできる誘惑や罠が夫婦間にはあるかもしれないが、修復できる関係であるのならば、神の愛の故に、癒やされるようにと願わざるを得ない。
ラインを今日は意識してきたのだが、最後に、イエスの引いてくれたラインのことを思い浮かべている。それは、スタートラインとゴールラインである。私たちはそのトラックを走る選手である。スタートライン、それはイエスが世に来た点である。新約聖書の出来事である。ゴールライン、それは世の終わり、神の国の成就である。そのときにも、イエスが再び来ることが聖書から知らされている。私たちは、いまその日本のラインの間にいる。「待ちつつ急ぎつつ」とはよく言ったものだが、ゴールインするときを待ちながら、だができることは怠らずに行こうと急いでいる。キリスト者の生き方というものが、この二つの時のイエスの間で、それぞれのスピードで駈けている。スタートラインでは、イエスが背中を押してくれた。そしてゴールラインで、イエスが両手を広げて待っている。その掌には、くっきりと釘の痕が見えている。