【メッセージ】ゆるされるなら
2026年2月1日

(ヤコブ4:13-15, イザヤ55:8)
むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生きて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。(ヤコブ4:15)
◆占いとまで言うと気の毒だが
昔、ある人の紹介で、人生設計プランナーの説明を一度受けてみてほしい、と言われたことがあります。淡々とにこやかに、その人はプランを考えようとしてくれました。今後何歳くらいで子どもが生まれるとして、その進学でこの頃に幾ら必要になる、などという話が始まりました。自分の収入がこのように変わり、退職するとこうなるから、と数字を上げていき、そのためにはいまのうちにこのように投資をして云々、という、私には難しい話でした。
いえ、待ってください。私はその人の話を制しました。その計画とやら、本当にそうなりますか。私の将来が全部筋書き通りになるのですか。いえ、むしろどうなるのか分からない人生ではありませんか。しかし、それくらいの対応には当然どう説明するか、あちらもプロですから、十分予想しています。けれども、私の口から出た次の言葉には、その人は明らかに詰まった。
まるで占いのようですね。私は占いをしないのです。人生を占ったり、予言に従ったりはしないのです。
こうした反応は、想定外だったようで、言葉を無くしたことが見て取れました。こんなふうに噛みつかれるとは、考えていなかったに違いありません。狼狽した様子を見せまいと話を続けましたが、二度と噛合うことはありませんでした。
私が「占い」を持ち出したのは、もちろん聖書に基づいてのことです。
預言者や夢占いをする者は、死ななければならない。そのような者は、あなたがたをエジプトの地から導き出したあなたがたの神、主に背くように語り、あなたを奴隷の家から贖い出したあなたの神、主が歩むように命じられた道から外れるようにあなたを仕向けるからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除きなさい。(申命記13:6)
けれども、私は何も「聖書に書いてあるから」ということを相手の前で話すつもりはありませんでした。もしそんなことを言ったら、「宗教に狂っているから聞く耳をもたないんだ」と、その人は思いながら帰ったかもしれません。自分は適切に薦めたが、狂信者にはさすがに通じないわ、などと呆れて終わりとなったことでしょう。
でも私は、いわば爪痕を遺したかったのです。自分が正しいと薦める人生設計プランが、決して当然のことではないのではないか、と心に引っかかるようなことになればいい、と願っていたのです。
実は私は、正社員として働いていたわけではありませんでした。言われた通りにボーナスが出て昇級する、といった社会構造からすでに外れていたのですから、示された人生設計は、そもそも当てはまらないことが決まっていたのです。それで、本当のところは「占い」がどうのこうのというのではなく、確かに、見せられた「標準的な」人生には到底当てはまらなかったことになるのでした。
◆人生計画を立てよ
但し、まるで私が、人生計画も何もなしに自由気ままに生きてきた、そんなふうに聞こえるのも少し癪かもしれません。ふらふらしている子どもを見た親なら、やはり口に出したくなることでしょう。「計画のない人生はよくない」などと説教しそうになります。さすがに私は、我が子たちにそのように諭すようなことはしませんでした。「できなかった」と言った方がよいのかどうか、その判断は皆さまにお任せします。
お陰で上の二人の息子は、ひとつの会社を全うするような生き方はしていません。上は、いまはいわばフリーランスで、自分の好きな世界で活躍しています。なかなか頼もしい、クリエイティブな活動です。2番目が仕事を替わったのは、離れた地から福岡に戻ってきたためでした。こちらは人間関係を築くのに長けており、比較的堅実な勤続が今後できるような気がします。
そして三人目は、私の若いときと似て、大学院に行くと言っています。ただ、今後独り暮らしをすることになりそうですが、いまひとつその覚悟が見られないようで、母親はハラハラしています。私は親の負担をできるだけ少なくするよう努めていましたが、その点でもどうなるのだろう、と少し心配しないわけではありません。
それぞれの道を行く子どもたちですが、私は偉そうに「人生計画を立てよ」などとは言ったことがありません。ただ、生きてゆければそれでよい、とは思っています。映画「おおかみこどもの雨と雪」で、母親の花が、若くして生き方を選んで離れてゆく息子の雨に対して、「生きて!」と叫ぶ場面が忘れられません。
先ほども申しましたように、私自身が世間的な「コース」から外れて生きていますし、金銭にも無頓着で、しかも自分の好きなことは自由にしたいというわけで、ちゃらんぽらんな奴なのです。人生設計などという言葉が似合わない人間なのです。とても、子どもに対してそれを命ずるようなことが、できるわけがありません。したいとも思いませんが。
世の中には、そうしたエリートコースを歩むことや、計画した目標のために今があるとがむしゃらに努力することに対して、反対の考えもあります。そのとき、しばしば、「いまを大切に生きる」というような合言葉が飛び交います。「いまここ」を犠牲にしての未来があるのか、「いまこのとき」こそが大切ではないか。そんなふうな歌詞の歌もたくさんあると思います。
もしかすると、ドロップアウトの言い訳にも聞こえかねない構え方ですが、たとえいまを大切にする立派な考えが成立していたとしても、私のスタンスは、そういうこととも違います。遠くを無視することをお薦めはしないし、いわゆる刹那主義こそ尊い、などと言うつもりもありません。眼差しを遠くにもつことも必要だと考えます。ただ、目的をがんじがらめに決めつけて、そこから逆算した路線を定め、一本道を進むのが美徳だ、というふうには考えたくないのです。
◆ヤコブ書再び
新約聖書には、救いのエッセンスの他にも、神の教えと呼ぶべきものや、倫理的な指示、教会運営のための知恵や心構えなど、多様な内容が盛り込まれています。人生論にもつながるようなものも、ないわけではありません。人生を実際にどのように生きるのか。それは、「行い」の範疇の問題だと考えられます。
「行い」となると、ヤコブ書がよく浮かび上がってきます。ところがこのヤコブ書、新約聖書の中でもずいぶんと評判の悪い手紙です。なにしろ宗教改革者ルターが、相当酷い批判をしているのです。「藁の書簡」などという悪口めいたものが広まっていますが、それにも理由があります。ルターは、カトリック教会の改革をしたかった。それで、「行い」によって救われるような教えは、実は聖書の言っていることとは違うのではないか、と抗議した。何をしたから救われる、というのではない。信じること、「信仰」によってこそ、ひとは救われるのだ。この見事な対比を強調したものですから、勢い、ヤコブ書に対して対抗的になるのも肯けます。
信仰もまた、行いが伴わなければ、それだけでは死んだものです。(ヤコブ2:3)
人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。(ヤコブ2:8)
ルターの主張と、真っ向から対立するようなことが書かれてあるとして、「聖書のみ」というような立場をも強調するルターからすれば、ヤコブ書のこうした記述は、邪魔だったかもしれません。言うなれば、こういう文があるから、カトリック教会がそれを根拠に、行いを表に出して正しさを示そうとすることになることを懸念するわけです。ルターからすれば、いっそこうした言葉が新約聖書になかったら、どんなによいか、などと考えたかもしれません。
けれども、ルターはヤコブ書を新約聖書から外したいというふうには考えていませんでした。聖書は聖書、その節度は守っているように見えます。
こうした点については、2週間前のメッセージ「神が喜ぶ」の中で触れております。だから、いまここでヤコブ書や「行い」の問題のためにこれ以上再び時間を費やそうとは思いません。ただ、ここまでで、私たちは、人生計画を立てるということについて、あなたはどう思うか、問うてみたかったのです。そして、私たちの実際の人生に目を向けてみることを提言してきたのです。
どうしてこんなことを私が問題にするのか。それは、ヤコブ書の中からその問題を、私が問われたからです。
◆一年後のことを考えて
13:さて、「今日か明日、これこれの町へ行って一年滞在し、商売をして一儲けしよう」と言う人たち、
ヤコブ書4章をお開きしました。挑戦的な問いかけです。というより、これは本当に問題なのでしょうか。これは余りにも、私たちの日常考えること、当たり前の風景ではないのでしょうか。でも、ヤコブ書は、この考え方を糾弾するのです。ヤコブ書は、信仰を強調するルターの敵ではないのだと思います。ヤコブ書はここで、たいへん信仰的なことを述べています。
14:あなたがたは明日のことも、自分の命がどうなるかも知らないのです。あなたがたは、つかの間現れ、やがては消えてゆく霧にすぎません。
そうです。その通りなのです。明日どころか、一寸先ですら、自分が生きているのかどうかも分からないのです。私などは、朝目覚めたときに、「ああ、生きている」という実感を毎朝抱いているのですが、そんなことを言うと笑われてしまうでしょうか。
生きていることが許されて、ありがとうございます。そんな祈りがまず心に浮かびます。いえ、そもそも私のような者がなおも生かされているということ自体が、ありがたいことであることに間違いありません。
14:あなたがたは明日のことも、自分の命がどうなるかも知らないのです。
確かにそうなのです。これを言われたら、何も逆らうことができません。人間の命は、自分の意志でで生きようと考えたところで、あまり足しにはならないのです。
でも、でもです。一年後の商売の見通しをつけただけで、ヤコブさんに、激しく非難されるというのも、なんだかなあ、という気がしませんか。もしかすると、「一年間」というスパンが、人間の思惑としては、傲慢なのだ、と言いたいのでしょうか。
確かに、古代の寿命は、現代のそれとは大いに違うであろうし、感覚も異なることでしょう。旧約聖書の創世記では、900歳などという途方もない生涯が記録されていますし、肉食が始まってからその寿命がどんどん短くなっていった、というような説明を施す人もいますが、神話的な議論ではなく、現実の人間はどうか、分からないものでしょうか。
平均寿命は50歳もなかったのではないか、という推測があります。しかし、そもそも「平均寿命」という私たちの観点は、新生児や幼児の死亡を含むものですから、成人の寿命としては、医療の発展の恩恵を被る現代ほどではないにしても、そこそこ長生きしていたのではないかとも推測されます。
そうなると、「一年後」というのが、さほど遠いものではない、ということになりますが、だからこそなおさら、ヤコブの「一年間」は些か厳しすぎるような気がしてならないのです。
◆聖書の言葉を聞く気があるのか
15:むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生きて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。
つまりヤコブが言いたいことは、ここにあるわけです。商売の計画を立ててはいけない、というわけでもないし、人生設計をすべて否定する、ということはないと思うのです。問題は信仰の世界のことであり、「主の御心であれば」との前提を、キリスト者は外してはならない、ということではないかと思うのです。
しかしこの「主の御心であれば」という信仰は、確かにご尤もです。これを仕向けられたら、ぐうの音も出ません。クリスチャンたる者、口ではこんなことを言っているし、結構な信仰ではあります。でも、本当にそうでしょうか。私たちは日々、自分の決意や自分の労苦について、すべて「主の御心であれば」と唱えつつ行っているでしょうか。
現に私たちは、一年後の計画を立てて、大切にそれを目標にしているのではありませんか。教会では一年間の目標を掲げ、予算を考えています。ヤコブの言葉に、堂々と反するような営みを、当たり前のように繰り返しているのです。
それはしかし、当然のことです。この社会で教会を建てて過ごしてゆくためには、宗教法人という形態をとるのが普通でしょう。そうすると、宗教法人法に従うことになります。年に一度は総会なるものを開き、予算と決算を報告しなければなりません。それは実務的に必要なこととなっています。そういうのを無視して、明日さえ分からぬ命を生きるのだ、とまるでアナーキーであれ、と言いたいわけではないのです。
すぐにそういう極論にもってゆく好戦的な論者も世の中にいます。それで論破するのが楽しい輩がいます。でもそれは、最初から他人の声を聞こうとしないような独善の者ですから、考慮する価値はありません。
ただ教会は、本当に聖書の言葉を聴く気はあるのか、それが気になるのです。
実際、個人の信仰もそうです。聖書のここは看板に掲げよう、聖書のここは見なかったふりをしよう、現実に教会では無理だから聖書のこの命令は無視しよう、そこへいくと聖書のこれは教会ならできそうだからやろう。そんな言い訳を始終構えていないでしょうか。そして自分は聖書に従って頑張っている良い子です、私は正しい、そう主張する根拠としているようなことはないでしょうか。
「悔い改めよ」と言われています。では、教会が戦争協力をしたことを悔い改めるのに、戦後何年かかったでしょうか。性的な問題でさんざん迫害し殺してきたような人々に対して悔い改める言葉は、海外では、かなりそうしたことが行われている、という話は聞くのですが、日本では私は聞いたことがありません。いえ、カトリックからはごく最近聞こえてきているのですが、プロテスタントからは知らない、ということです。逆に、教会は少数派のあなたがたの味方です、とニコニコして語りかける場面は、幾らでも見るのです。
教会は、本当に聖書の言葉を聴く気があるのでしょうか。
◆ハロー・グッバイ
旧約聖書のイザヤ書は、新約聖書への引用については、詩編と並んで非常に多い書だと言われています。イエスがメシアであることについて、多くを知らせているようなのです。そうでなくても、多くの示唆を受ける預言書です。
私の思いは、あなたがたの思いとは異なり/私の道は、あなたがたの道とは異なる/――主の仰せ。(イザヤ55:8)
この言葉はまた、事ある毎に響いてくるものです。しかも、思い出したくないときに限って、また襲ってくる言葉です。自分の思いが神の御心だ、と考えたい心理が人間にはありますから、こう言われると、悲しくなるのです。ただ、悲しくなるだけ、まだ信仰は健全であるかもしれません。聖書を自分の都合の好いように操ることができないように、神が仕掛けてくると自覚しているのならば。保身のために聖句を利用することこそ、堕落と言わなければなりません。
15:むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生きて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。
ヤコブ書の言葉が、何度も響いてきます。そんな中、私の頭の中に、今回どうして浮かんでくる歌がありました。もうだいぶ年上の方でなければご存じない歌かもしれません。柏原芳恵の「ハロー・グッバイ」という曲です。発売は、1981年です。
紅茶のおいしい喫茶店
白いお皿にグッバイ…バイ…バイ
こんな歌い出しです。ご存じの方は、これだけで先の方まで再生されてくるかもしれません。そして歌は、カップには「ハロー」の文字、ソーサーには「グッバイ」の文字が書かれてある、という様子を描きます。「かぐや姫」の「神田川」などの作詞者・喜多條忠(まこと)さんの作詞ですが、その「かぐや姫」の南こうせつさんのお兄さんが経営していた大分の喫茶店が、この歌のモデルだと言われていることは有名です。
できることなら生まれ変れるなら
私こんなかわいいカップになりたい
あなたは銀のスプーンで
私の心をくるくるまわす
好きな男性に心を乱している乙女心というものでしょぅか。さあ、ハローという出会いが満たされるのか、グッバイで終わるのか、ドキドキの心です。ここで女の子は、「できることなら生まれ変れるなら」と歌っています。反実仮想とでもいうのか、そんなことはありえないと分かっているのに、自分の姿をそのカップに見立てているわけです。
◆生まれ変れるから
「できることなら生まれ変れるなら」。それは、「主の御心であれば、生きて、あのことやこのことをしよう」と言うべきだ、と迫るヤコブの言葉に添えるようなものとして、私の脳裏に思い出されたフレーズでした。しかし私は、ただの想い出の歌謡曲としてではなく、そこからもう一段階、思わされることがありました。
生まれ変わるのは、「できることなら」の反実仮想でしかないというのか。いえ、私は、生まれ変わったのではなかったのでしょうか。
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。(ローマ6:11)
この「考えなさい」は、「認めるべきだ」というような強い意味合いを含んだ言い回しです。その理由は、続く場所でパウロがこのように言っていることからも分かります。
しかし、神に感謝すべきことに、あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から聞き従って、罪から自由にされ、義の奴隷となったのです。(ローマ6:17-18)
キリストを信じる者は、生まれ変わることができるのです。それはひとえに、キリストの故です。ローマ書の、この直前から、からそのことを拾ってみます。
私たちは、洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。(ローマ6:4)
まだ、そんな生まれ変わるというような経験はない、という方もいることでしょう。この経験は、決して偽りではありません。確かな証人が、教会にはごっそりいます。けれどもその経験というものは、これをすればよいとか、これを聞けばよいとか、これこれを信じればよいとか、簡単に言うことはできません。
ただ、毎週の礼拝の中で、神の言葉が自分の外から自分に降り注ぎ、それに応えることを繰り返す中で、自分が変えられるという経験をすることがあり得るのです。するとまた、キリストが自分の内に宿るという経験もするものです。
私が、私の考えや私のすることをすべて決める、ということから自由になります。このあり方を、教会ではよく「委ねる」と言います。委ねきることが信仰だ、と言う人もいます。でも、そんなに単純にできるというふうに言うわけにはゆかないでしょう。霊的には分かっていても、従えない自分を感じ、つくづく嫌になることもあります。
けれども、聖書と向き合うとき、まずは聖書から問いかける経験をすることは、大いにあり得るものだと思います。そういう聖書との触れあい方を継続してゆくことが望ましいものだ、ということについては、自信を以てお薦めしたいと思っています。
生まれ変わることは「ゆるされる」ばかりでなく、あなたのすべての罪と至らなさが、十字架のイエス・キリストによって「赦されている」と気づく日が、あなたに訪れることを願って止みません。