それは誰のため

2026年1月26日

信仰のため、教会のため。そういえば、すべてすることが正当化される――。
 
説教者の指摘は厳さしかった。最初から、今日は厳しい言葉が出てくることが予告されていた。痛みなしには聴けないイエスの言葉を聴く。だから、その痛みから逃げないように受け止めたい。初っ端からそう釘を刺して、マルコ伝7章の最初のところから語り始めた。マルコ伝の連続講解説教は先週に続くが、今日はファリサイ派の人々と律法学者たちがイエスに噛みついた場面である。そこへイエスは激しく反撃をしたのだった。
 
彼らはエルサレムから、イエスのところに来た。場所は確定できないが、先の場面に続くならば、ガリラヤ湖周辺であることは間違いない。説教者が指摘したように、「わざわざ」来たのである。それは、イエスを偵察しに来たと見るほかない。
 
ここに先立つ、すでに3章に於いて、安息日を破るイエスを知って、ファリサイ派の人々はイエスを殺すことを相談し始めている。本当に殺すにあたるのか。謀議の後に証拠を掴みに来るのには、程よい時間が経過していたのかと思う。
 
「イエスの弟子たちの中に、汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいる」ことを彼らは指摘した。清潔のためというよりも、汚れに関する律法の問題であると思われる。即ちこれも、安息日規定と同じく、律法違反なのである。彼らはそれが許せない。鹿もこのとき、イエスに「なぜ、あなたは」というような攻め方をしていない。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と、弟子たちを標的にしている。これは何故だろうか。
 
イエスだけが手を洗っていた、というのは考えにくい。ひとつの想像は、あくまでもラビとして尊敬を集めているイエスを直接攻撃することを憚ったということである。それは、民衆を刺激し、民衆を敵に回すかもしれない。弟子たちが洗っていない、と一見弟子の非を明らかにすることで、その師たるイエスを批判していることになるはずである。だとすると、じんわりと締め付ける、巧妙な方法であると言えよう。
 
これに対して、イエスは比較的長い反撃をする。ファリサイ派の人々や律法学者たちがしていることは偽りであり、彼らが「偽善者」であるという強烈な裁きを向けるのである。但し、説教者が指摘したのは、このイエスの返答が、同じことを幾度か言い換えながら展開されていることであった。
 
あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。(7:8)
 
あなたがたは、自分の言い伝えを重んじて、よくも神の戒めをないがしろにしたものだ。(7:9)
 
こうして、あなたがたは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。(7:13)
 
端的に言えば、彼らが神の戒めの言葉を「捨てて」「ないがしろにし」「無にしている」ということである。この畳みかけは痛い。どうして神の言葉を無視することとなったのか。彼らとて、神の律法をも守っていると自覚しているからこそ、イエスとその弟子たちを批判したのではなかったのか。律法を無視するどころか、忠実に守ろうとしているからこそ、それを平気で破っているイエスたちがけしからん、と断じたのだった。
 
だがイエスの眼差しは、違うところから発されていた。こうしてイエスがファリサイ派の人々をやっつける様を、私たちがやいのやいのと喜び賛同することを――説教者は厳しくまた戒めようとしていた。
 
イザヤは、あなたがた偽善者のことを見事に預言したものだ。(7:6)
 
先ず、この「見事に」の原語が、普通は「美しく」と訳して然るべき語であることを指摘する。確かにそれは、文脈によりいろいろな副詞の感覚で訳してよい語である。うまく・適切に・称えられるべく・正確に……。凡そ人間が「美」をどのように説明するか、という美学的な議論を巻き起こしかねないほどに、ここでのイエスによるイザヤの評価は、正に絶賛である。
 
それは、なかなかその本質が見破られないような、人間の偽善を、イザヤが「見事に」見抜いたからであった。説教者は、イザヤ書の29章からも援用して、イザヤ自身の非難の言葉を伝えた。イエスもまた、それを背景に考えながら、ここでの反撃の言葉をぶつけていたに違いないのである。
 
説教者は、「見映え」という言葉を使った。「見映え」よくしたいから、偽善をなすのだ。私が換言するならば、これは「人目を意識する」とでも言おうか。「世間の建前」や「外面」という言葉を用いてもよいだろうと思う。
 
そうして、説教者のパースペクティブは、一気に教会の私たち自身に向けられる。「サンデー・クリスチャン」などという言葉が昔使われたが、日曜日と平日との自分が違っていないか、自制を促すのである。礼拝の場、教会に集ったときに、人目を意識してやっていることはないか。建前で見せている自分の姿がないか。外面を演じていないか。問いかけるのである。
 
もはや自分では演じているなどという意識すらないかもしれない。説教者の言葉で言うと、そこには「かき乱されることのない美しい自分」を保持したい心理が働いている。そのとき、イエス・キリストの言葉を口では語りながらも、それは自分を守るために、自分の都合のよい形で、自分に益するための意味で、利用することがある。それは、もはや神の言葉ではなく、ひとの、自分の言葉になっている。
 
この辺りの事情を、説教者は「自分のルール」という言い方で幾度か指摘した。神の言葉と自分の言葉とが何か対立する場合があっても、その対立を回避するような、自分の為の「ルール」を発明する。ここでの「コルバン」が正にそうである。尤もらしい言い訳のことである。
 
説教者は、隅谷三喜男さんの名前を出した。直接知る方なのであるが、私は確か『時の流れを見すえて』を最初に読んだと思う。その他小さな本や寄稿文などに触れたことがあり、尊敬していた。経済学者とお呼びしてよいだろうが、教会関係での功績も大きい。その隅谷先生が、「人生の座標軸」という言葉を呈していたことを紹介する。
 
時折、十字架の横棒は、神と人との超えられない境界を表し、十字架の縦棒が、その境界を貫き通す救いの出来事を表すのだ、というような喩えがなされる。隅谷先生の場合は、横軸が私と他者あるいは人間との関係、縦軸が私と神との関係を示す、というような図式で説明できるのだという。そして、縦軸が弱くなると、横軸にいいように流されてしまうことに気をつけなければならない、というのである。
 
私たちは、神との関係が強靱なものとなっているだろうか。それは本来強靱なはずである。神の愛は、強く私に迫っており、包んでさえいる。イエスの十字架はその関係を結ぶための切り札であった。だが、私の方から、それを緩めるようなことになる可能性がある。そしてその関係が緩くなるとき、横軸の人間の声に引っ張られて、いつの間にか引き込まれてしまうのである。しかも具合の悪いことに、それでも自分は神に愛されていて、自分は神のために努めている、と思いなしている場合があり、そうなるともはや修復する糸口さえ見つからないことになってしまうのである。
 
どうして気づかないのか。それは、「かき乱されることのない自分のルール」を自分でつくつてしまっているからである。神の律法ではない、自分の律法。それも、自分には甘い。自分のしていることが、実は神の望んでいることなのだ、と自分に言い聞かせることを最優先して、築き上げる自分の神学。説教者が言うには「自分のルール」。
 
説教者が取り上げた例を、私なりにアレンジすると、こうなるだろう。教会のために、日曜日に朝から夕方までせっせと奉仕する。独身の頃はそれが救いの喜びの証しだった。だが、信仰をもたない家族からすれば、家族で何かしようとするときにも、ひとり別行動となり、家族皆でどこかに行くというようなこともなくなった。あるいは、やがて自分が家族をつくったとする。教会でも大きな役割を担うことになった。配偶者が同じ信仰者ならばまだよかったかもしれないが、子どもが生まれ、育ってゆく。子どもは子どもで成長すると、部活動に励み、教会学校へも出なくなる。それだけならそれぞれの生活をしているだけでよいのだが、試合が日曜日にあることになっていたが、一度として子の活躍を見ることはなかった。――それは、私のことである。
 
中には、運動会を日曜日に行うのは信教の自由を侵すものだ、と抵抗した人も実際にいる。それは子どももそう考えていたそうで、その牧師一家にとっては信仰を貫く正義であったことだろう。だが、その見本は、信徒一般に結構な圧力をかけるかもしれない。その勇気は、自分に不信仰を押印することのように感じるかもしれない。
 
以前、ベテランの女性だったが、夫が信仰をもっていない方がいた。教会へ妻が行くことは反対はしないし、牧師も親しく交わることを心がけ、どうかすると教会の中に入って話をするようなことはあった。クリスマスのような特別なときには席に加わってもいた。だがその女性があるとき、ある話の流れの中で、私たち夫婦に言葉を零した。配偶者を毎週家に置いて教会にひとりくる、ということは――認めてくれているのではあるが――どんなものか、当人しか分からないでしょう、と。
 
これは、イエスの話した「コルバン」のことなのだ。家族にすまない、という気持ちがあるからこそ、その女性はそのように言ったのだとは思う。しかし、中には、教会に行くのは当然で、信仰の自由があるわけで、そのために家族を粗末に扱うことは、家族を捨てろというような言い方までしたイエスの言葉にも合致するわけで、良いことなのだ、と構える人がいるかもしれない。私もまた、その部類だったと言わなければなるまい。信仰のため、教会のため。そういえば、すべてすることが正当化される――そういうルールを、自分がつくっていたのだ、と。
 
しかし説教者は、その逆のことについても釘を刺していた。家族を大切にしなければならないから、神のことも後回しにするべきだ――そういうルールが正しいのだろうか、と。それは隅谷先生の言う、縦軸がつながらなくなって横軸に流されることを正当化するルールである、とも言える。
 
では、どうすればいい。説教者は正直に、告げた。「分からない」と。「こうすればよい」と言ったとしたら、それもまた「ルール」なのである。そんなルールをこしらえることがよいのではない、とイエスは言っているのではなかったか。
 
福岡に、栄光病院というホスピスがある。以前教会で一緒にいた方、同じマンションにいた方を、そこで見送ったことがある。そして、私の母も、奇蹟のように、そこでお世話になり、賛美歌で送り出すという、私にとってはこの上ない恵みを受けた。その院長を長く務めてきた方も、著書の中で語っていた。ホスピスに入る人に、なんとか福音を伝えたいという願いが強い。若い頃は、それをしなければ、との意識が強かった。教会に導いて、礼拝に加わり、信仰をもつようになってほしい。――だが、患者はとにかく、生きるか死ぬかの情況にある。教会に連れて行くことを第一義に掲げて話をすることが、適切なのだろうか。そのことに気づかされてからは、教会に行くとか、洗礼を受けるとか、そうしたことは一切条件にせず、ただ神の話を、聞いてくれる人には話し、またその患者をイエス自身のように敬愛しながらとにかく接すること、仕えること、それに徹するのが自分の役割なのだ。そのように考えるようになったという。
 
福岡からは、中村哲さんという人も生まれている。説明は不要だろうと思う。キリスト者である。日本に帰る機会があれば、福岡の教会に顔を出した。遠いイスラムの地、キリスト教会などない地域で、人々の命を救い、人々の生活をつくりあげた。そこには、「教会のため」だとか「信仰のため」だとかいう意識は微塵もなかったはずだ。自分が決めたルールに相手を従わせようなどとは、考えていなかったに違いない。
 
こうした私の知る身近な例の中にルールがあったとすれば、「生きること」あるいは「生かすこと」とでも言えばいいだろうか。否、もっと何か違う言葉の方がいいだろうか。どうにもうまく言えないトキには、それを「愛」とでも呼ばせて戴こうか。
 
説教者は、ねじれた正義とも言える偽善の攻撃を受け、それらの罪をすべて背負って十字架へと向かったイエスの姿をそこに描いた。そして、自分の決めたルールになど従わなくていい、とまで言った。また、神が決めたルールとしての律法や掟に、「ちゃんとしなくていい」と強調した。私たちがちゃんとできないのは当たり前だ。だからこそ、イエスは十字架へ向かったのだ。自分で自分の人生を完結させることができるのであれば、イエスはそんな救いの道を開くはずがなかったのである。
 
このイエスの救いを、私たちは「愛」と呼ぶ。極めて曖昧な、そしてひとたび思い込むと、暴走さえしかねない概念としての「愛」である。だがいま、そうとしか呼べないものを目の前にして、私たちはもう一度上を向いて、「さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です」(コロサイ3:14)というような言葉の前に、小さな自分を脱ぎ棄ててしまうかのようにしていたいではないか。異なる原理による思い込みから自らこしらえたルールの罠に、気づかせて戴こうではないか。



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