(エレミヤ27:1-11, ローマ1:18-25)
私は、大いなる力を振るい、腕を伸ばして、
地と、地の面にいる人と動物を造った。
そして、
私の目に適う正しい者にそれを与える。(エレミヤ27:5)
◆ゴーギャンの問い
「私たちはどこから来たのか。これからどこへ行くのか。」
そんなことを突然呟く人がいたら、この社会は変やヤツだという目で見るかもしれません。それとも、「確かに……」と肯きつつ、共に考えようとしてくれる人が、身近にいるでしょうか。
人類が、ふと疑問に思う、根本的な問いとして、あの問いは普遍的なものを有っていると考えられます。哲学的な問いとして、そうしたものが、古くから記録されています。ただ、先の問い「私たちはどこから来たのか。これからどこへ行くのか」というのは、ほぼ同じものがフランス語で問われていて、世界的に有名です。ある画の題だからです。
そう。ポール・ゴーギャンの「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という絵です。1897年から翌年に欠けて、移り住んだタヒチで描いた、晩年の名作です。
この頃ゴーギャンは、娘を亡くし家を追われ、健康も害していたと言われ、散々な状態でした。もはや生きてゆく気にもなれない状態ではなかったかと思われます。その中で描いた作品。いわゆる文明社会を背にして、楽園を求めていたゴーギャンの心の底にあった問いだったのでしょう。
ゴーギャンは、カトリックの神学校を経験しています。後にそれに反発するものの、神から投げかけられていたであろうこの根本的な問いに、人生最後の時期に揺さぶられて、カンヴァスにぶつけたのではないか、と私は勝手に想像しています。
つまり、ゴーギャンの中に、聖書が、あるいは聖書の神がひっそりと居座っていたのではないか、との想像です。その神は、創世の時代に、初めて創造した「人」に対して問いかけています。
「どこにいるのか。」(創世記3:9)
ゴーギャンが画の題にした問いかけの中には、中央に、「我々は何者か」という、ほかの二つの問いとは少し違うアングルをもつ問いがありました。「我々はどこから来たのか」という問いが過去のこと、あるいは永遠の過去からの問いであるとすると、「我々はどこへ行くのか」は、未来のこと、あるいは永遠の未来への問いである、と受け取ることができます。そのため、「我々は何者か」という中央の問いは、「我々はいまどこにいるのか」というように置き換えてみると、すうっと収まるような気がするのです。
私たちの場所、あるいは居場所というものが、過去と現在と未来にわたり、どこにあるのか、という問いとして伝わってきます。
◆建前
こうした問いとして、より有名なのは、18世紀の巨人、イマヌエル・カントの問いです。ゴーギャンより百年ばかり以前の時代に遡ります。
1) 私が知りうることは、何か? 1) Was kann ich wissen?
2) 私がなすべきことは、何か? 2) Was soll ich tun?
3) 私が望んでよいのは、何か? 3) Was darf ich hoffen?
4) 人間とは、何か? 4) Was ist der Mensch?
これはカントの築く哲学大系に沿ったものです。さらに言えば、そもそも自分が考察して応えたいことに沿って、問いが整理された、と捉えた方がより正しいだろうと思います。
そこへいくと、ひとつの問いかけがその人の人生全般を支配した、と言えるような、重い問いかけが、昨年のNHKの朝ドラ「あんぱん」で響いていました。やなせたかしさん夫婦を描いたドラマでしたが、もちろんご存じ「アンパンマン」の作者です。
「なんのために生まれて なにをして生きるのか」
小さな子どもが口にする「アンパンマンのマーチ」の1節の歌詞ですが、ドラマでは、これが幾度も口にされ、登場人物たちの生きる姿勢に結びついてゆきました。視聴者の心に、それはどのように響いたでしょうか。うーん、と感心したかもしれませんが、それを日常自身に問いかけながら生活しているわけではないと思われます。表面上は、そんなことを考えるなどとはおくびにも出さないようにして、スマイルを表に掲げながら生活しているのが私たちであるのかもしれません。
「あんぱん」の次の朝ドラは「ばけばけ」ですが、こちらもクリエイターとしての小泉八雲夫婦をモデルにした作品となっています。そこには、異国人として日本に来たラフカディオ・ハーンが、日本と日本文化を愛しながらも、その中で生きてゆくために乗り越えなければならなかったところがよく描かれています。そのひとつに「建前」というのがありました。「本当の気持ちを隠すことで相手といい関係を築こうとする日本の文化」のことだと、吉沢亮扮する錦織さんが教えるシーンがありました。
その後、ストーリーの中でこの「建前」が、「嘘はキライ」とズバリと言うことで、解消されてゆく過程もありました。演じているトミー・バストウさんもまた、個人的に「建前」が苦手だ、と「あさイチ」のゲストに出演したときに、口にしていました。ドラマではその直後に、そのハーン(ヘブン)自身が建前を装うような場面もありましたけれども。
それにしても、「どこから来たのか」といったあの重い問いかけは、そもそも私たちが心の中で「問う」ことが、果たしてあるのでしょうか。キリスト者は、苟も信仰していると口にする以上、問わざるを得ないわけですが、さて、それもポーズに過ぎない、ということがないでしょうか。クリスチャンだと自称しながらも、「建前」しかもっていないのであれば、なんとも情けないような気がしてなりません。
◆エレミヤの預言
古代イスラエルには、「預言者」という存在がありました。神の言葉を受けて、イスラエルの人々に語る役割を果たします。預言者には、建前も何もありません。神に示されたことを、相手が王だろうが大祭司だろうが、ストレートに突きつけずにはおれません。
エレミヤという預言者は、特にそうでした。普通預言者の言葉は、世の中の片隅で、政治を批判するような言葉をこっそりと記録したような形で遺っているように見えるのですが、エレミヤは違いました。「エレミヤ書」というのは、エレミヤが語ったことを蕩々と綴ったものではなくて、まるでエレミヤの伝記を記録したようなものとなっています。尤も、時間系列は相当に乱れていて、事件は、書かれてある順に起こったわけではないので、読むときには解説書を横に置いて読み進むことをお薦めしますけれども。
エレミヤは、権力者に向かって堂々と批判をしたわけですが、一般大衆はそうした長いものに巻かれて自分の正しさを威張るようなものですから、エレミヤはしばしば攻撃されました。非難くらいならまだしも、いつでも殺されかねない状態でした。これは、言論の自由という「建前」が渦巻く現代でも、相当にあることです。
特にこの日本には、そうした風土があります。戦時中、キリスト者の家に石が投げられるということがあったと聞きますが、それは何も憲兵に命令されてしたことではなかったのでした。一人ひとりが、「みんな」と同じことをすることで、自分の責任というものを回避するというのが、この国のノーマルなあり方なのです。
ゼデキヤ王の時代、エレミヤに舞い降りた神の言葉が、エレミヤ書27章にどう記されたか、いまから垣間見ようと思います。これは直後に、ゼデキヤ王に、また祭司たちに、そして国民全体にぶつけています。それは、社会のすべての人を敵に回したようなものと言えました。
もちろん、旧約聖書の解説をしようとするわけではありません。解説めいたものを長々と述べる暇がありません。要点は、バビロニア帝国には抵抗せず、一旦降伏すれば、厳しい支配を受けたとしても、必ずまた復興が可能になる、という道筋を伝えるものでした。というのは、世論は、バビロニア軍に抵抗すること、そのためにエジプトと同盟を結べば、勝算がある、という根拠のない信念に染まっていたからです。
エレミヤは、いろいろな言い方をして、バビロニアに抵抗すればイスラエルは完全に滅びてしまう、ということを伝えようとします。果たして、エレミヤのこの預言は、捕囚から帰還したことを知る、後の時代の人の手が加わっているのかいないのか、私には分かりません。ただ、預言者は政治と無関係だったのでない、ということは、よく分かります。
◆奇妙な訳
このような政治的な発言をよそに、いま私は、次の言葉に目を留めたいと思います。
5:私は、大いなる力を振るい、腕を伸ばして、地と、地の面にいる人と動物を造った。そして、私の目に適う正しい者にそれを与える。
神の言葉です。エレミヤを通じてなので、その表現の中に、エレミヤから神への敬語のようなものが紛れ込んでいることは理解できるのですが、それにしても、「自分の目に適う」という言い方は尋常ではありません。子ども番組で強い者が「オレ様」というように自称することがありますが、もちろんそのような言い方は世の中で通用するものではありません。
神の側が、「私の目に適う正しい者」などと言うのは、まるで「オレ様」状態です。そもそも日本語では「目に適う」という言い方は本来ありません。相手の「お眼鏡に適う」と言います。どうにもこの邦訳は私には違和感を抱かせます。原文の表現はもちろん日本語に制約されませんが、「賛同できる」「適切に敬われる」あるいは「はっきりさせる」といった意味の語が使われているようです。
実は、聖書協会共同訳のひとつ前の新共同訳では、次のように訳されていました。この方がスッと心に入ります。
わたしは、大いなる力を振るい、腕を伸ばして、大地を造り、また地上に人と動物を造って、わたしの目に正しいと思われる者に与える。
神は、人の思い知らぬ大いなる力によって、創造の業を展開しました。多くの人間と動物を創造しました。それらを、神の意に適う者に任せるとするのです。でもそれは、誰のことなのでしょうか。
6:今や私は、これらすべての地を私の僕であるバビロンの王ネブカドネツァルの手に与え、野の獣までも彼に与えて仕えさせる。
エレミヤは、意外や意外、異国の王、敵の将たるネブカドネツァルこそが、主の意に適う正しい者である、と言っているように見えます。それだからこそ、彼に仕えよ、と言うのでしょう。後に、預言者ダニエルがやはり異国の王に仕えていたことを、私たちに想起させます。
また、ペルシア王キュロスへと私たちの連想は向かわないでしょうか。バビロン捕囚から解き放ち、イスラエルの有力者たちを、元の地に帰すことを許してくれたのです。キュロスは預言者イザヤにより、「油注がれた者」、いわばキリストという名を受けてさえいました。
いわゆる第二イザヤは、イザヤ書40章以降の著者とされ、最初の方のイザヤとは別人であろうというのが現在の通説ですが、キュロスをイザヤがキリスト呼ばわりしたのは、ここでネブカドネツァルを神の御心に適う者としていることに、刺激を受けているのかもしれません。
それほどに、イスラエル民族を護るために、神は強大な帝国の王すらも、神の道具として用いた、というように理解しておきましょう。
◆錯覚
イエスは、小さな者、小さくされた者に対して慈しみの眼差しを注ぐ一方、強大な権力に対しては批判と抵抗を示した。しばしば、聖書の考え方は、そのように言われます。しかしいまの例では、大帝国の王を神が最大限に評価しているような点が示されていたように見えました。
それは旧約の神なのだ、という説明もできようかと思いますが、では新約聖書に於いて、小さくされた者が厳しく攻撃されている、という点はどうでしょうか。私は、それがあるように感じるのです。
ローマ書の初めのところで、現代的には非常に問題を孕んだ箇所があります。そこには「同性愛」という用語はありませんが、明らかに同性愛を裁く根拠となるべきことを、パウロが言い放っていると見られるのです。ローマ書1章です。
26:それで、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられました。女は自然な関係を自然に反するものに替え、
27:同じく男も、女との自然な関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。
こうしたことが聖書にあるために、昔の同性愛者は、神の正義の下に罪人とされました。事実、犯罪者として裁かれていたのです。いえ、それはつい半世紀前までは、世界的にも常識と見なされていた、極めて現代的な問題であったということが、いま隠されているように思えて仕方がありません。正に教会が、彼らを迫害していたのですが、いま世の中を見渡せば、教会が彼らを守るなどと正義の味方になっている側面があるため、非常に残念に思います。
ただ、このパウロの言葉は、それに先立つところを見る必要があると思います。
18:不義によって真理を妨げる人間のあらゆる不敬虔と不義に対して、神は天から怒りを現されます。
パウロの口は滑っていたかもしれませんが、問題の核心は、特定の行為や現象だけではないようなのです。正しくないことを正しいと主張して、真理を拒む人間の、根本的な過ちが睨まれているように思えて仕方がありません。
本田哲郎という人がいます。カトリックの司祭です。私はその『釜ヶ崎と福音』という本で出会いました。ホームレスと呼ばれるような方々の街で、彼らのために奔走するのですが、この本には、そうした自分を飾るどころか、そうなるまでに自分が如何に駄目であったか、が余すところなく描かれています。
本のご紹介は割愛します。まだお読みでない方には、ぜひ一読をお薦めするのですが、いまここで、『釜ヶ崎と福音』に盛んに繰り返される言葉を取り上げたいと思いました。本田神父の考えや行動を紹介する人も、この言葉にはあまり注目していないと思われますし、恐らくご本人もあまり意識されていないのではないか、と推測します。でも、そこに本田神父の重要な着眼点があると私は感じるのです。
繰り返されるその言葉は、「錯覚」という言葉です。かの本の随所で、ちらりちらりと現れるのです。
ホームレスのような方々のことを「小さくされた者たち」と呼ぶ神父は、新約聖書で徹頭徹尾、その「小さくされた者たち」の視点から記されており、特にイエス自身が正にそうであった、ということを強調します。そして大抵のキリスト教徒、また教会組織が、実は「錯覚」している、と口にするのです。
一例だけを挙げます。教会の中で、「選び」について次のように考えられている、と言ってひとつの図式を示すのです。「新しく選ばれた民である教会→わたしたちは教会の一員→したがってわたしたちも選ばれた者→だからわたしたちをとおして神の救いの力がはたらく」(p102)と。しかし本田哲郎氏に言わせれば、「この推論の中に錯覚があります」というわけです。そして、第一コリント書を開いて、「世の無に等しいと見なされているものたちの集い」こそが教会なのである、と言います(p103)。そして畳みかけることには、「そこそこに満ち足りた者同士が、仲良しごっこをするために教会に集まってきても、それは新しい選びの民の教会とはいえないのです」(p103)と指摘します。
どうですか。痛くありませんか。私は痛いです。痛くてたまりません。
◆根深い罪
でも、もっと言うと、私はその「錯覚」という言葉は、まだ優しすぎるように思います。本当はこう神父は言いたかったのではないか、と思うに、それ自体、深く人間に根ざしている「罪」ではないか、と言うべきだと思うのです。
自分では善いことをしていると思い込んでいる。だが、実はそうではないために、すればするほど、悪い方向へ事が運ぶことになる。そればかりか、自分が酷いことをしているというのに気づかず、却って善いことをしているつもりになっているものだから、誰かが阻もうとすると、正義の敵め、と相手を愚弄するような姿勢にもなる。自分のしていることが分からず、自分で自分を正しい、と決めつけてしまっていることになる。
これが「罪」でなくて、何でありましょう。お気づきだと思いますが、異性愛でない人々を迫害していたのも、かつての正義だったのです。キリスト教組織が先導して世界各地の文明を滅ぼしたのも、かつての正義だったのです。歴史の中を見れば、自分は正しい、という主張がそこかしこに見られます。自然を支配することは正しいことであり、地球環境を破壊して、後世の人々のエネルギーを湯水のように使うことも、神の心に適うと嘯く者にとっては正しいことでした。
いまもまた、核兵器は正しいものだ、と考えています。隣国への侵略や民間人への攻撃も、他国の領土を奪おうとする野心も、正義のためにしています。他国のやり方が気に入らないからと言って、その国を支配するのが民主主義であり自由であり、世界警察を自称する中で、正義の鉄槌を下しているのだ、と考えています。
ああ、でもそれは遠い世界のことではないし、権力者や特別な悪人のしていることではありません。キリスト者は、それが自分の姿である、と知っています。知らなければ、嘘です。偽キリスト者です。
人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。(ヨハネ16:2)
キリスト者が、これを被害者意識でしか読めないというのは、はっきり言って間違っていると思います。
ただ、その前提で、次の視点へ向かいましょう。だって、これでメッセージが終わったら、もしかすると絶望しか遺らないかもしれませんから。くどくど「罪」を挙げたところで、希望へと続く道が見当たらなければ、どうしてこのように語っている意味がありましょうか。人間の中に奥深い罪があり、人間がそれに毒されているとはいっても、そのことを弁えた上でなら、神の業へと目を上げるように呼びかけるのが、神の言葉を取り次ぐ者の務めであるはずです。
20:神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。したがって、彼らには弁解の余地がありません。
ローマ書はこの「彼ら」を、教会の外の人間であるようなシチュエーションで告げていたと思います。でもその上で、次のような締め括りへ至っていることに、注目してよいのではないでしょうか。
25:神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられる方です、アーメン。
◆神の業に身を任せ
最後に、エレミヤが告げた、神の言葉の政治的な応用について、もう一度立ち帰って見てみようと思います。
エルサレムには主という神がついている、だからバビロニア帝国の攻撃にも、神風が吹いて守られるはずだ。そういう「信仰深い」世論がありました。まるで、前世紀にどこかの国で信仰されていたようなことです。けれどもエレミヤは分かっていました。それは過信であったことを。いえ、「虚信」とでも言った方が適切であるということを。
自分には神がついている。結構な信仰です。しかし、自分は正しい、自分は勝利する、そのような思いが、肉の匂いのぷんぷんする中から湧き起こっていたのだとすれば、そんな人間臭い欲望が、神からのものであるなどとは到底言えなくなるものです。それは「錯覚」に過ぎません。
8:バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、バビロンの王の軛を首に負おうとしない国民や王国があれば、私は剣、飢饉、疫病によってその国民を罰し、ついには彼の手によって彼らを滅ぼす――主の仰せ。
10:だが彼らは偽りの預言をし、そのことにより、あなたがたは自分の国土から遠く離れることになる。私はあなたがたを追い払い、あなたがたは滅びる。
11:しかし、首を差し出してバビロンの王の軛を負い、彼に仕える国民を、私はその国土にとどまらせる。そして国民は耕作をし、そこに住まう――主の仰せ。』」
おとなしく敵に身を任せればよい。聖書の預言者は、バビロンの王ネブカドネツァルをすら、「正しい者」と呼んだのです。もしかすると不本意なままに、「正しい者」と呼んだのです。自分は信仰深いから神の味方だ、と「虚信」する者たちよりは、よほど神の計画の中で大きな役割を果たしている、「正しい」人物であったのです。
5:私は、大いなる力を振るい、腕を伸ばして、地と、地の面にいる人と動物を造った。そして、私の目に適う正しい者にそれを与える。
神の大いなる力は、人の考えの枠の中に収まるものではありません。神を見上げて、神の計画を信じて、神の業に身を任せることが、私たちにはどうしても必要です。その機会が「祈り」というものです。神の計画の実現のために働く者でありたいと願います。私の欲を正当化するためではなく、神の思いの実現のため、神の国へ人々を招くために、働く者でありたいと願います。
それが、神のお眼鏡に適う人であるのかもしれないのです。