アヘンは宗教なのか
2026年1月22日

いまは流行らないようだが、「宗教はアヘン」とよく言われていた時代があった。もちろんそれは、共産主義のプロパガンダであるわけだが、一時は共産主義が世界を席巻するのではないか、と思われたこともあった。すでに「神は死んだ」という言葉が宣伝文句にされて、宗教は科学の前に滅亡してゆくべきだ、と考える人が増えていっていた。
「宗教はアヘン」というのは、現実の苦悩を忘れさせる麻薬としての宗教が社会の変革を遅らせるという捉え方を、短く指摘した言葉である。マルクスが、どれほどの思い入れを以てそれを綴ったのかは知らないが、信奉者がこれを恰好のスローガンとして用いたのは確かである。
言おうとしていることには、一面の真理があると言えよう。抗うつもりはない。しかし、その後の社会を見ていると、アヘンとなっているのは、マモンの方ではないかと思えて仕方がない。マモンというのは、新約聖書で「富」を意味する言葉である。しっくりくる言い方となると、「カネ」が一番分かりやすいかもしれない。
確かに、金銭を無用だなどと仙人のような考えをもつのも、どうかしている。しかし、極論を持ち出して他人の意見を封じるというのは、論破したい者の常道ではあっても、健全な対話とはならない。金銭の奴隷になる、というのは、しばしば戯画化されて物語にも登場する人間の姿ではあるが、それはいまや「経済」という別名を掲げることによって、この世の正義のすべてを支配するものであるかのようにも見られている。
そして、「経済」というマモンを崇拝しているのは、しばしば、生きる上で比較的安楽な状態にいる、豊かな国々の者たちである、という点も忘れられやすい。私もその社会に住んでいるし、特に何も不自由はしていない。もし私たちの近くでやたら不自由を訴えるとするならば――もちろん本当に大変な人もいるのだが――、自分の必要以上の欲望が満たされないことをそう言っている場合が見られることがあるような気がする。
政治に何を期待するか。街頭で誰もが「経済」と口にする。見窄らしい服を着たような人ではなく、日々の食事に困ったようなふうでもない市民が、「経済」と言う。生きるか死ぬかというレベルに置かされている人が「経済をよくしてくれ」と要求する声は殆ど聞かない。賃金を上げよと口にする者は、経済的数値が給与に反映される、一部の恵まれた企業に勤める人たちばかりではないのか。スマホ代は幾らでも出し、電車内でひたすらゲームをするかSNSを見ている市民が、政治に「経済をよくしてくれ」とのみ求める。そして、わずかな給料上昇や一面的な税金の軽減を画餅のように掲げる政党に、自分を売り渡すようなことへと流れてゆく。
政治に対して「正義」とか「平和」とかいうものを期待する声は、少なくとも報道されない。「経済」のために数々の戦争が起こされた歴史を、省みるような声は報道されない。そうして世論が定まると、そんなことはない、と陰謀論を語るSNSが、逆に真実味を帯びて広まりもする。それこそが真実だ、とデマがまかり通る脆弱さを、この社会は――人間は――有っている。
楽して濡れ手に粟の「カネ」を求め、犯罪さえ厭わない。それは闇バイトに留まらない。世が「闇」に包まれていることを否定することは、きっとできないものだろう。
確かに事業を継続するだけでも大変であることは理解する。キリスト教書店が次々と閉鎖され、キリスト教出版物が消えてゆくことに、私も加担していることは否めないため、気の毒がるというのは間違っているのだろう。事業のためには「金」は必要だし、「経済」を掲げないわけにはゆかない。だが、世の中の「闇」に、射し込んで然るべき「光」があることを、キリスト者は知っているのではないのか。本当のアヘンは何であるのか、聖書から聴く者は分かっているのではないのか。人は何に酔い、何に狂うのか、気づくべき見張りであることはできないのだろうか。
教会が率先して、神ならぬもの――ときに自分自身――を拝し、酔狂していることがないか、自らに問うてみる必要があるはずだ。