【メッセージ】神が喜ぶ
2026年1月18日

(イザヤ62:1-12, エフェソ2:1-10)
若者がおとめの夫となるように
あなたの子らがあなたの夫となり
花婿が花嫁を喜びとするように
あなたの神はあなたを喜びとする。(イザヤ62:5)
◆コロサイ書との関係について
エフェソ書を開きました。ともすれば、コロサイ書の焼き直しだとも言われます。内容がほぼ一緒と言ってよいのです。しかしよく見ると、コロサイ書が言葉少なに語っていることを、エフェソ書が、まるで注釈を加えるかのように膨らませているところが多いことに気がつきます。
意地悪な見方をすれば、すでに広まっていたコロサイ書に対して、いまひとつ不満を抱える者が、その筋書きそのものにはリスペクトを払いながらも、もっとしっかりとした教会の指針を打ち出そうとした、というように解釈することができるでしょう。
これは学者の皆さんの研究によるものですが、言い回しや内容など、細かく検討した結果、他のパウロ書簡とは相違が目立つということらしいのです。もちろん、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいるキリスト・イエスを信じる聖なる者たちへ」(エフェソ1:1)と書かれています。しかし、パウロでない人がもし書いたとしても、それは当時パウロに対するリスペクトがそうさせたわけで、現代のような著作権問題や剽窃騒ぎとは全く違う次元の話だと言えます。
また、私たちもそれほどパウロという個人にとことん拘る必要もないのではないか、というふうにも私は思います。あのパウロ様でない人が書いたのなら価値がない、そのように考えてしまうのもどうか、と思うのです。パウロを神格化する必然性はないからです。いまの私たちにはパウロというネームバリューは輝いていますが、パウロが実際活動していたときの様子は、新約聖書の叙述からすれば、どこか「パシリ」ではあっても、教会の中心人物ではなかったようにしか見えないのです。なにしろ、元々教会の敵でしたし、後から加わった新参者でありますから。
どうであれ、新約聖書に迎え入れられたということは、それがキリスト者の信仰生活や教会の運営のために、プラスになるであろうことは、確かです。大いに受け容れて、「聖書」として尊重すればよいのではないでしょうか。
コロサイ書を膨らませようとする意図があった、と仮定してみましょう。だとしても、ローマ書のような分量を用意するところまではできなかったように見えます。伝えたいことがたくさんあるけれども、コロサイ書の下書きに従って、駆け足で展開してゆきます。比較的抽象的に、エフェソ書は様々なことに触れてゆくのです。
◆死と生の比喩
エフェソ書は、「恵みと平和があなたがたにあるように」(1:2)との祈りから、矢が真っ直ぐに放たれて飛ぶように進みます。そして、神の祝福を示すようになります。
この2章は、「さて、あなたがたは」と始まります。新たな展開が図られます。本題へ一歩踏み出します。自分のかつての姿を思い出すように聖書は促します。私たちも思い出しましょう。「過ちと罪の中に死んだ者」だったことを。もちろん、この「死んだ」というのは、一種の比喩です。でも、そのままだと間違いなく、破滅や死に至るということを、私たちは感じていました。自分の力ではどうしようもない、暗闇へまっしぐらに進むことを知っていました。
それは「神ならぬ神」についていっていたことの自覚です。その正体は、「空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な子らに今も働く霊」である、と聖書は暴露しています。特にそれか「今も働く」と言っていることを重く見なければなりません。過去の物語で終わりはしないのです。私たちもまた、リアルタイムでこの力の前に晒されているのです。
「しかし」と、手紙は不安を拭います。「大いなる愛に酔って」、私たちを、つまり比喩的にではありますが「死んでいた」私たちを、キリストと共に「生かし」てくださる、というのです。
「死んでいた」というのが比喩であるというのなら、「生かす」というのもひとつの比喩でしょう。しかし確かに、キリスト教は、その滅びの中に、生きるという希望の道を備えます。私たちが握りしめる福音は、そうした希望の道です。闇ではなく、光の道であり、命の道なのです。死んだ者を生かす、それは「復活」にほかなりません。復活を案内しない教えは、もはやキリスト教ではありません。偽物が、そうしたふりをしているだけです。「救い」を示さない説教は、聴くに値しません。「救い」を経験していない者は、それを語ることができないのです。
◆信仰と行い
エフェソ書は、もちろんその「救い」の道を示します。「あなたがたの救われたのは恵みによる」と断言しています。「恵み」というのは、私たちが努力して自分でなんとかする、ということとは正反対の事柄です。私たちの外から、上から、神から与えられるということを意味します。「あなたがたの救われたのは恵みによる」のです。私たちが何か行動したから、私たちが何か強く信じたから、だから救われるというふうに、人間は錯覚することがあります。しかし聖書は、それをシャットアウトしています。
特にそのことを強調するのは、プロテスタント信仰であるかもしれません。少なくとも五百年前の宗教改革は、それをモットーとして始まりました。当時、カトリック教会が、行いにより救われるという方向性を定めていたことに対して、ルターなどが抵抗した、という歴史を私たちは学んでいます。
しかし単純な図式化では一方的であるとして、もっと事態を見つめなければならない、と私などは思うのですが、そうなると、気になるのが、ヤコブ書です。ルターがそれを毛嫌いした、とも言われますが、ルターはヤコブ書を聖書から削ろうとした、と捉えるのは行き過ぎです。聖書は聖書です。でも何故それを重視しなかったかというと、そこには「行い」が「信仰」に勝るような書き方がしてあるからです。それは、ヤコブ書2章に顕著です。
3:同じように、信仰もまた、行いが伴わなければ、それだけでは死んだものです。
5:ああ、愚かな者よ、行いのない信仰は役に立たないということを知りたいのですか。
これは、ルターの主張を妨げます。確かに、ルターとしては愉快ではなかったことでしょう。しかし、口先だけで「神よ」と言いながら人を差別し、「あなたのために祈ります」などと口で言っても、困った人に指一本動かそうとしないような教会の実情に対して、ヤコブは批判の矢を向けました。そうして、結論的に述べます。
7:あなたの見ているとおり、信仰が彼の行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたのです。
8:これで分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
でもよく見ると、ヤコブは信仰を無用だ、などとは一言も言っていません。口先だけの、そして観念だけの「信仰」で実際の生き方につながらないようなものは肯定できないことを述べているのです。これに対して、今日のエフェソ書は、こう告げています。
8:あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。
9:行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためです。
真っ向から対立しているように見えるでしょうか。しかしこの次に、エフェソ書はこう結んでいます。
10:私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。
エフェソ書も、「善い行い」が「恵み」の後に続くものとして置かれているように見えます。しかも、その「善い行い」は、「神が前もって準備してくださった」ものだと言います。私たちが自分を誇るために行うこととは違うでしょう。私は、ヤコブもそうしたことを踏まえていたのではないか、と考えています。
実際に汗して活動をするキリスト者に、私は敬意を払います。災害の場に行って額に汗して労する方々に、心からの尊敬を抱きます。自分もすることができる、ということは分かっています。しかし実際にそこまでできないという言い訳も成り立ちます。
また、現実に労苦して人のために働いているキリスト者もまた、必ずしもそれで自分はいいことをしている、という意識でいるわけではない、という話をも聞きます。北九州に、奥田知志という牧師がいます。NPO法人「抱樸」を立ち上げて、いわゆるホームレスの人々のために、尽力しています。頭が下がるというよりほか、私には何も言えません。
その奥田牧師が、先日もまた、ラジオで語っていました。実は事ある毎に仰ることなのですが、ホームレス支援のため、厳寒の場に炊き出しをし、あるいは弁当を配り、励ましの言葉をかけた後、自分は家に帰りたっぷりの食事をし、酒でもつまんで、ゆったりと風呂に入ってから、温々とした布団の中で寝る。そのとき、自分は一体何をしているのだろう、という思いに苛まれる、というのです。
◆善い行い
私たちの「善行」は、誇るに値しない。現代では、特にそんなふうに言えるのかもしれません。「抱樸」活動に於いてもそうなのです。かつては、賀川豊彦や田中正造、北原怜子やマザー・テレサなど、とことん身を献げた人々の名もありました。その精神が受け継がれているという一面もありますが、もしこの人々に尋ねたとしても、「行い」とは何だろうか、と満足していなかったのではないか、と私は想像します。
それは、私たちが、イエス・キリストを知っているからです。イエス・キリストをこそ、見上げる必要があります。そこに、究極の「行い」があるのであって、イエスの与える「救い」を「恵み」として受け取るところに、「信仰」が成り立つのであって、「行い」はそれを確かなものとする現象のようなことになるのでしょう。
イエス・キリストは、復活されました。神が復活させた、という言い回しを聖書はとります。そして「過ちのうちに死んでいた私たちを、キリストと共に生かし」てくださったのです。さらに「キリスト・イエスにおいて、共に復活させ」たことも、エフェソ書は重ねて強調します。その結果、私たちが、「キリスト・イエスにおいて私たちが賜った慈しみにより、神の限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に現す」ようになるのだ、と言っています。
実際、その「来るべき世々」にいるいまの私たちに、神の豊かな恵みが知られています。私たちはそのことだけでも感謝の意を表することができます。私たちがその恵みを知る、そのことが「信仰」ということでもあります。恵みこそが救いをもたらすのですが、そのとき信仰という扉を通ってここへ来ることも、私たちには分かっています。もちろん救うのは神の業です。人間が、救われるべき者だ、などと言って自分を誇ることはできません。
10:私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。
ただ神だけがイニシアチブを執ります。私たちはこの「神の作品」であるに過ぎません。それだから、「善い行い」をする場へと、私たちは招かれています。「神が前以て準備してくださった」「善い行い」というからには、人間に褒められるべき要素はないようなものです。せいぜい、私たちの過ちや罪を痛感して、悔い改め、イエス・キリストの救いの業が赦しの中に働いてゆけば、恵みにより救いへと神が導いてゆくのです。
但し、その「善い行い」というものが、具体的に何であるのか、それをいま考える暇はありません。というより、それを具体的に示す必要などないと思うのです。一例を挙げてしまえば、ほかの人はそれを見て、その具体例に囚われてしまうのです。
そこで思い起こします。エフェソ書は、どちらかというと抽象的に、話を運んできました。そもそもが、聖書のここには具体例で諭すようなことがなかったのです。あとは私たち一人ひとりが、実地に考えなければなりません。具体例を押しつけるようなことは、新約聖書の記者とその背後の教会は、しませんでした。それとも、それは余りに分かりきったことであった、ということなのかもしれません。
◆破壊された神殿への眼差し
ここでエフェソ書を離れて、私たちはイザヤ書の世界に向かうことにします。本当は私は、こちらをメインにして、このメッセージを組み立てるつもりだったのです。イザヤ書62章、神学者たちはよく「第3イザヤ」と称しています。イザヤの長い預言も、終わりが見えてきた感じがする場面です。
時は。いわゆるバビロン捕囚のその最中。あるいは、それを目撃した最乗が悲しく思い起こしている様子がここにあります。自分たちの国は、栄光のイスラエルではなかったのか。神殿を誇っていたのではないか。
通例、戦争で負けた国の神々は、いなくなります。戦いに勝てなかった神は、お払い箱になるのです。しかしイスラエルは、そのようには考えませんでした。もし戦争で負けた神が消えるというのであれば、イスラエルの神は何人いても足りなかったことでしょう。
神は、常に正しい。しかし、戦争で負けたのは、人間の側の責任だ。自分たちの民族が、神の掟を守らなかったから、そのせいで負けたのだ。神を信じなかったから、負けたのだ。ただ、神はいつまでもそのままにしてはいないはずです。いつか復讐が成し遂げられるとでもいうように、未来を民族は信じ、神が復讐を完遂するときを待ち望むのです。
いま情景は、破壊されたエルサレムを映し出します。周辺諸国の者たちが、それを見つめています。荒廃したエルサレムを見つめられるというのは、屈辱的な仕打ちです。あまりにも惨めです。これを破壊した征服者たちの眼は、どうだったでしょうか。何が神だ、神殿だ。自分たちはその「神」に勝ったのだ。神を信じるなど、何の役にも立たないではないか。
これは、あるいはいま私たちが向けられている眼差しを説明するものであるかもしれません。いったい神を信じて、どんないいことがあるんだ。別に願いが叶うわけでもないし、あんたが聖人になるわけでもない。むしろ信じたために、あんたはつまはじきに遭い、周囲とトラブルを起こしまくっているのではないのか。
崩壊したエルサレム神殿がそこにあります。イスラエルの信仰を基とする人々は、これをどう見ていたのでしょうか。どう見えていたのでしょうか。それは悲しい哉「棄てられた女」でした。いや、それならまだ「荒廃した地」とでも呼ばれた方がまだましだったでしょうか。
◆エルサレムの回復
イザヤが捉えたこの情景は、イスラエル民族にとっては、実に惨めなものでした。しかし、イザヤは希望の言葉をもたらします。「見よ、あなたの救いがやって来る」と言うのです。イザヤを含めて、預言者たちは神の裁きを告げるものですが、イザヤはここで確かな救いの到来を掲げます。「私の喜びは彼女にある」というのは、エルサレムのことを指しています。「夫を持つ者」だと言うのは、神と結ばれた関係にある、ということです。神といわば離縁していたために、憂き目に遭ったエルサレム、そしてイスラエルの民でした。しかし、再び神という夫と関係を結ぶようになる、ということなのです。
いまや「聖なる民」となるイスラエル。「主に贖われた人々」とも呼ばれます。また、「尋ね求められる女」そして「見捨てられることのない町」と、立て続けにエルサレムの町が慰められてゆきます。崩壊したエルサレム神殿が、神との関係をつくり直すようになる。この大きな変化は、「主の口が定めた新しい名」を受けたからであると言います。そのために主は「口を閉ざさず」「沈黙しない」と誓いもするのです。
罪による破壊から、神の救いへと転ずるこの声は、いまも私たちの許へも届けられています。昔とはまた違ったシチュエーションでありましょう。しかしこうして記された記録によって、私たちは「読む」という形で、これを知ることができます。「聞こえる」というのは自分の意識には無関係であるかもしれませんが、しっかりと「聴く」というのは、意志が伴います。そして「読む」というのは、ますます自分の意志による行為となるわけです。
この声は、外から響いてきます。私自身の内から湧いてきたかのような錯覚することがあるかもしれません。でも違うのです。イザヤを経て、と言ってもよいかもしれません。主の声は、私の外から発されます。イスラエルも、このようにして義が与えられ、栄光を身にまとうこともできるようになるのです。
5:若者がおとめの夫となるように/あなたの子らがあなたの夫となり/花婿が花嫁を喜びとするように/あなたの神はあなたを喜びとする。
こうなると、単なる慰めだとか救いの言葉だとかいうレベルではありません。聞きましたか。「あなたの神はあなたを喜びとする」というのです。あなたです。あなたが神の喜びなのです。もちろん、イザヤが記したのは、神の都エルサレムの描写です。けれども、実地のエルサレムにそれは留まるものでしょうか。
◆主の喜びから
ここには「主の喜び」があります。イスラエルの喜び、そして私がそこから与えられる喜びというものは、「主の喜び」の後に来ます。「あなたの神はあなたを喜びとする」とは、なんとありがたいことではないでしょうか。あなたが何をしたから、というのではない。あなたはそこにいる、ただそれだけで祝福を受けているのです。
神から祝福を受ける。もしそれが私に向けられたものだとしたら、私は、とても自分はそんな者ではない、と思うでしょう。恐らくかつてのエルサレムもまた、そんな祝福を受けるようなものではない、と自らを恥じたことでしょう。異教の神々に仕え、幾度も主なる神を裏切ってきた町です。しかし、そのエルサレムを神はなおも愛しています。「あなたの城壁の上に/私は見張りを置いた」のです。
このとき、「決して黙ってはならない」という言い方もなされています。そして「主がエルサレムを建て/これを全地の誉れとされるまでは/主が休まれないようにせよ」と畳みかけます。あなたが黙らないでいるならば、主は決して休むことなく、新たにエルサレムを建て直す、というのです。主の救いの計画は、確実に進展するのです。
あなたも、黙っていてはならないでしょう。主に向けて、祈りの手を下ろすことがあってはなりません。また、私たちが「黙ってはならない」のであれば、私たちは福音を告げ知らせることについて、沈黙してはならないことを痛感させられます。
かと言って、誰かに福音を知らせたか、を問い質しているわけではありません。あなたが教会に誘った人が信じて洗礼を受けたかどうか、それを問題にしているのではないのです。ただ、今日お開きしました、エフェソ書の言葉がここでもう一度思い出され、響き合ってくるように私には感じられて仕方がありません。
私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。(エフェソ2:10)
先にも挙げました、この言葉。「善い行い」は、神の恵みの後に続いて初めて可能になる、というように受け取りました。「善い行い」は、肩に力を入れてさえやるぞ、と決意するようなものではなかったのです。前以て神が準備してくださるものなのです。私たちが黙っておらず、神の福音をどこかに届けることができるのも、この神の備えに基づくものであるのです。そこで、再びイザヤの預言の、その後を垣間見ることにしましょう。
10:通れ、通れ、城門を。民の道を整えよ。/築き上げよ、築き上げよ、大路を。/石を取り除け。/もろもろの民に向かって旗を揚げよ。
神の喜びを受けた私たちが、率先してこの道に出向きましょう。昔の道の情景です。人が歩きやすいように平らな場所を造るだけでも大変だったことでしょう。あるいは大きな石を埋め込んで、固定した道を工事して各地を繋いだ、ということもあるようです。が、ここではたぶん土の道でしょう。余計な石は不要です。石を取り除く作業が必要です。
それは、まるで死んでいた土地が、道という新たな使命を受けて蘇ったようなことのように喩えることができるかもしれません。キリスト者が、かつて死んでいたという喩えから、キリストの救いによって命を与えられた、という構図に匹敵するように思われます。
この道は、大きな通りとなります。イザヤの預言を通して、神は命じます。「築き上げよ、築き上げよ」と繰り返し命じます。「石を取り除け」と、具体的に道を整える仕方が伝授します。それは、「もろもろの民に向かって旗を揚げよ」との命令へと続きます。世界へとこの神の御名を知らせるのです。この神の業を高良からに告げ知らせるのです。この神の救いを、救いのしるしとしての旗を掲げて示すのです。神はそのために、いまあなたを喜んでいます。あなたは、神に喜ばれています。死んでいたあなたが受けたその救いを、確かに証しし、世に伝えるという「善い行い」へとつながる、そのスタートは、神があなたを喜んでいる、という事実であったのです。