阪神淡路大震災31年

2026年1月16日

明日で、あの震災から31年を数える。季節と共に、否応なく、思い出させる日が来るというのは、残酷でもあり、また必要でもある。私はとりたてて被害を受けたわけではない。京都も、突き上げられるように縦に揺れた。確かに、本は降ってきた。テレビが落ちてきた死んでいただろう。カタカタカタ……との朝型の揺れに目覚めたのは、鈍感な私には幸運に過ぎた。なんとか家族を守ろうと動くことができた。
 
しかし、震源に近い地域では、計り知れない被害があった。人が死に、インフラも破壊された。
 
台風の予報があれば、それなりにだが備えることができる。少なくとも、時間的な準備が可能になる。だが地震の備えはできない。緊急地震速報が聞こえても、準備は数秒以下であろう。咄嗟の場合に何をするか、とりあえず頭に叩き込んでおく必要はあるが、足腰が立たずどうにもできない、というのが実態であろう。
 
人が飛ばされもするが、巨大な家具などが飛んでくると、避けようがない。規模も予測がつかないから、本当に何もできないと考えていた方がよい。
 
それに、足元が崩れるというか、立つところが信頼できないというのは、全く恐怖でしかないだろう。それは地震に限らず、人間の精神の地盤という意味でも、言えることであるに違いない。
 
できることは、いざ被害が収まった後に、生きている人たちのケアをどれだけできるか、ということである。せっかく共に時代や民族、国などを生きている者同士、助け合うことが望ましいと思うのは、理屈ではないし、惻隠の情とまでは言わなくても、自然な感情であると信じたい。
 
かといって、何ができるというわけでもない。被災地に行って何かをしたということも、私は特にない。熊本地震のときに、少しばかり現地に行ったのがせいぜいのところである。しかし私にとっては、京都で味わった、あの阪神淡路大震災の「揺れ」というものが、震度5であったにしても、体が覚えているものとして強烈であった。
 
大きな地震が、その後も続いた。極みは、東日本大震災であった。それは、原子力発電所の事故という、とてつもない結果を生み出した。今年でそこから15年。特にこちらは、水の災害が人々を襲った。阪神淡路大震災の場合は、火が襲ったと言うべきだろうか。テレビは一日中、その火を追うように映像を伝えた。その下で、人が死んでいたということを、強調することはしていなかったようにも思う。それは、いま戦争報道をする映像も同じである。
 
30年という節目は、比較的大きく取り扱われたが、今年はどうやらそういうこともなさそうだ。しかし、若い人にとってはとてつもない遠い過去であろうが、31年もつい昨日のように思える人も、少なくない。いまも癒えない疵を心に抱えた人がたくさんいることを、及ばずながら精一杯思いつつ、前向きに生きる力がそこに注がれることを、陰で祈ることしかできない自分が、もどかしい。



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