祝福の出発への餞

2026年1月12日

福岡市は12日月曜日、「成人の日」に、「はたちのつどい」が開かれるが、福岡県の多くの自治体では、11日日曜日に、そうした二十歳の記念式典が催される。教会で、しばしばこの時期に合わせて、二十歳の祝福式を行うものだが、日曜日に公的な式典があると、どうするのだろうか。幸い、当教会ではそうではないらしく、教会には数名の新成人(二十歳)の若者が出席していた。来たかったが適わなかった人を含めて、こうした若者が関わる教会というものは、いまではむしろ稀になってしまったのではないだろうか。
 
ずいぶん久しぶりに当教会の礼拝に出席した人もいたようだ。説教者は、そうした若者たちを意識して、説教を求めたのかもしれない。新しい道を踏み出す、希望のメッセージが届けられた。
 
説教者は、自分が二十歳を迎える頃のことを思い出しながら話してくれた。それまで、早く「大人」になりたかったのだそうだ。だが、いざその日になると、どうも思っていたのと違う。何が変わるのだろうか、という疑念だけが残されたという。ちゃんとしなければ、という真面目さはあったが、それが逆に悩みとなり、そうした意識に縛られていたのである。
 
イエスがキリストであると信じる人は皆、神から生まれた者です。(ヨハネ一5:1)
 
説教者が気づかせてくれたのは、これが何か条件を伴うものではなく、端的に、すでに「神から生まれた者」だ、と断定したことであった。もちろん、そこにはまるで「イエスがキリストであると信じる」という条件がまずあるようでもある。だが、これは条件と呼ぶには余りに、信仰者としての基本のキであった。まず「信じる」という前提があってこそ、この手紙を読むに値するのであって、結局キリスト者が悩むのは、信じた者が、そこから、では何をするか、というところにあるのが通例である。
 
実際、説教者は強く示す。信仰は、完成ではなく、出発なのだ、と。ここから始まると、どうすればよいのか。愛するとは何か。信じてゆくにはどうするのか。それを考えるにつけ、自分の至らなさばかりが目につき、苦しくなってくる。そもそも、自分の中の悪に気づいたからこそ、神を信じるようになるというのが道筋である。信じたのはよいが、これから先さあどうするか、という構えをもつときに、当然自分のダメさ加減に打ちのめされるのは当然である。
 
むしろ、そうした悩みを全く感じないでいられるとなると、「信じた」ということ自体が眉唾ものである。自分の罪を痛感し、イエス・キリストに出会って赦されて救われる、という体験がないままに、何を信じたというのだろう。
 
説教者は、イエスがすでに「世に勝っている」と宣言したことに注目する。従って、ある意味でここには「完成」がある。神の側で、イエスの許に、「完成」があるのは確かである。ただ、私たちの側には、これが出発である、というだけである。
 
イエスはすでに勝利している。私たちは、その勝利の中に招かれている。説教者はそうした言い方で、私たちの目を真っ直ぐにイエス・キリストへと向けさせる。それは、人間の側の事情や思い込み、はたまた感情といったものとは関係がない。その根拠として、同じヨハネの手紙一から、「霊と水と血」とを挙げる。
 
そしてこのようなヨハネ文書は、神が「永遠の命」を与えるという大きな構図をその背後に有している。それは、人間の努力によって得られるというものではないし、見た目の成功者が得るというような代物でもない。
 
人は、求めるからには、何か渇きを覚えている。そこには人間らしい不安も当然あるだろう。思うようにならない現実に焦燥を覚えるかもしれない。絶望にさえ襲われるかもしれない。しかし、今度は詩編の言葉を手がかりにして慰めが与えられる。
 
命の泉はあなたのもとにあり/あなたの光によって、私たちは光を見ます。(詩編36:10)
 
説教者はここから、「命の泉」そして「光」というイメージを、聴く者に抱かせる。その過程を辿ることはいましないが、詩編の詩人は、これらをどちらも「あなた」、即ち主なる神のものとしている点に注目したい。さらに言えば、それが私の内にはないこと、私の外から私へ向けて来るということを握りしめてみたい。
 
説教者はそのことに関して、ルターの考えを引く。神が差し出す命を、空の手で受け取る、それが信仰である、と。物乞いが恵んでもらうときに差し出す手は、確かに空である。ルターは、そのような例を好んでもちいたらしい。自分が何かをしました、それを差し上げますから、神よ、永遠の命を与えてください――そのようなところに、信仰の姿をルターは見なかったのである。
 
説教者は、神に愛されているから価値がある、という言い方には反対しないが、その逆に、自分には価値があるから神に愛されている、ということはない、と断言した。ルターによる「コペルニクス的転回」のような信仰の捉え方は、なんといってもプロテスタントの信仰のベースにあるといえる。それをベースに、また信ずる者一人ひとりが、その信仰を身を以て実現してゆくのだ。
 
説教者はまた、こんなことも言った。人生は、後ろ向きにしか理解できないものだが、人生は前向きに生きてゆくものである、と。ただここでいう「人生」には、イエス・キリストが伴っている。イエス・キリストという土台があるのならば、どんな風が吹きどんな嵐となろうとも、生き方が揺らぐことはないのである。
 
また、その人生に、光が見えなくなる、ということがあるかもしれない。探しても見上げても、光がない。何を道標に進んでよいのか分からない。だが、私たちは知っている。たちこめた黒い雲のその上に、輝く太陽があることを。神の光は、たとえそのとき見えなかったとしても、決して消えてしまっているのではないのだ。
 
ちょうど今日、Eテレ朝の「日曜美術館」で、島野十郎が取り上げられていた。福岡県立美術館での取材で、先月半ばまで開かれていた。福岡県久留米市の出身の画家で、たいそう学のある人だったが、明治期から写実を貫いた画家として豊かな才能をもっていた。その没後50年の記念の展覧会が、さらにいま愛知で開催され、続いて大阪、栃木と予定されている。
 
一連の蝋燭の絵が有名であるが、番組の後半で、闇に浮かぶ小さな満月があるだけの絵について、興味深い解説が加えられていた。千葉県立美術館の館長貝塚健さんである。野十郎は、闇を描きたいために光を描いた。闇に欠けたひとつの円い穴。その穴から何かを見ていた。穴を通して何かを見てほしい。穴を通り抜けて月の世界に行ってほしい。そのようなメッセージを感じることもできるのではないか、というのである。何かの世界の入口に、月を重ね合わせていたのではないかと思っている。野十郎には、仏教の素養があって、このような絵を描いたのではないか、という前提も考えられるらしい。
 
この世を暗闇に喩えることが、聖書にはある。しかし、よく言われるのは、そこに十字架の形の窓があり、その向こうに神の国がある、といったメッセージである。仏教で円という形に大きな意味があるからこそ、野十郎の光は満月だったのかもしれないが、キリスト者にしても、キリストを通してのみ神へ続く道があることを知っている。満月は先日過ぎたが、冬の高い位置に見える次の2月2日の満月を、私もそんな目で見上げてみようかと思った。
 
説教者は、マザー・テレサの言葉にも触れ、今日できる小さなことを愛を以て行うことを勧めた。そう。メッセージは、もちろん万人に向けてのものであったはずなのだが、とくに成人の日の祝福が礼拝の最後でなされるのを待っていた若者たちへのものであったに違いない。今日の一歩は、昨日と変わり映えしないような、小さな一歩であるかもしれないが、決してそれは意味のない一歩ではないのだ。
 
教会での祝福も結構。だが、何よりもそれが神よりの祝福であることが第一である。説教者は、神の許に生きることこそが、祝福であるのだ、というような言い方をもした。だから、いまここに与えられている命を、新しい一歩と共に生きよう、と告げるのであった。祝福の出発が、ここに備えられた。
 
それは、「さあ生きよ」と命令を受けるような気持ちで受け取るべきものではなかった。言葉がそのまま存在である神からのプレゼントである。「あなたは生きることになっている」とでもいうような、力ある言葉であったのだ。そしてそれは、「私はあなたを愛している」というプレゼントでもあったわけである。



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