【メッセージ】万象を生み支える神
2026年1月11日

(詩編104:1-24, ヘブライ11:1-3)
主よ、あなたの業はいかに豊かなことか。
あなたは知恵によってすべてを造られた。
地はあなたの造られたもので満ちている。(詩編104:24)
◆詩編
主よ、あなたの業はいかに豊かなことか。
あなたは知恵によってすべてを造られた。
地はあなたの造られたもので満ちている。(詩編104:24)
この詩編を見たとき、清々しい気持ちになりました。思わず空を見上げました。「地は……」と書かれていますが、この天地万物を神が創造した、ということをうたっているに違いありません。
この詩人が見た自然の風景を、私も同じように辿ってみたい、と思いました。これは詩編104編です。35節までと比較的長い詩ですが、今回は前半少しの24節までを共にお読みしたいと思います。
その前半は、神の創造の業が次々と描かれます。「あなたは知恵によってすべてを造られた。/地はあなたの造られたもので満ちている」と結ばれました。詩人が、精一杯神を称えています。描かれていたのは、神が如何にこの大自然の前に偉大であるか、というようですが、要するに、この自然はすべて神が創造したものだ、という点をとことん繰り返し例示しているのです。
つまり、そこに目につくのは、「主は」ということの繰り返しです。「主」が正に主語となっているわけです。「主は」「あなたは」という言い方が続いています。それはもちろん、詩人がそう言っているわけです。詩人が神への信仰を告白しているようなものだ、とも言えるでしょう。
それに対して、今日取り上げなかった後半は、詩人の顔が隠されます。一つひとつ神はすばらしい、というのを省略したのかもしれませんが、自然の存在者の側が主語になるようになります。もちろん主は登場します。主がこれこれをすると、被造物は何々をする。そういう言い方をします。
それにしても、詩編とは不思議な聖書の巻です。基本的に、人間の立場から神に対してうたう場です。神からの言葉をこそ、聖書として書き留めているのだ、という聖書のポリシーが外れるような気さえします。けれども、私たちはそれを神の言葉と見ます。人が感動して放った言葉であっても、やはりそれは神の言葉。神に触発されて出た信仰の言葉である。その意味では、考えてみると、預言書にしても律法にしても、同様であると言えるかもしれません。
神からか、人からか、それを線引きすることに拘泥するのではなく、神が主語であろうと、被造物が主語であろうと、ただ神の栄光のために発された言葉であれば、私たちは詩人たちと共に歌いたいものだと思います。
◆私の魂よ
それでも、見落としたくないフレーズが、この詩にはありました。というより、この詩の冒頭です。
1:私の魂よ、主をたたえよ。
こういう始まりは、もちろん他の詩にも例があります。自分を奮い立たせるように、自分に向かって呼びかけることは、当たり前のように、詩編の中に12節ほど見られます。
1:私の魂よ、主をたたえよ。/わが神、主よ、あなたは大いなる方。/威厳と輝きで身を包む。
「私の魂よ」と自らを勇気づけた後、「わが神、主よ」と呼びかけ、「あなたは」そして「主は」と、神を主語として、神の業を賛美することが、この後ずっと続くことになります。そうして、この詩の締め括り、最後の行は、こうなります。
35:私の魂よ、主をたたえよ。/ハレルヤ。
最後には「ハレルヤ」が置かれていますが、それは「主をほめたたえよ」という意味の言葉です。要するに詩の初めと終わりは、同じように「主をたたえよ」という言葉で囲まれています。
詩編は、神の民イスラエルの詩人が、神を称えるために綴りました。神と民との絆を確かめるかのように、神からの慈しみ、神に対する人の感謝、願いなどが一体となって、言葉を生み出しました。その関係をまた、「救い」と呼ぶことも許されるでしょうか。救いは、その人と神との関係にこそあります。それに尽きます。この私もまたそうです。私は、神の創造したすべての被造物、神の業としての世界の中で生まれ落ちました。存在を許されました。そうして、奇蹟のような生命の営みによって、生かされています。
私の存在は、ひとえに神に拠るのです。それを知るのが信仰です。神を信頼するところにこそ、信仰が成り立ちます。
◆信仰
信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。昔の人たちは信仰のゆえに称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって造られ、従って、見えるものは目に見えるものからできたのではないことを悟ります。(ヘブライ11:1-3)
「信仰とは何か」と問われたら、キリスト者は大抵、まずここを取り上げるでしょう。ここから、有名な「信仰者の列伝」が始まり、旧約聖書の信仰者たちが、如何に信じていたかが列挙されます。
「世界が神の言葉によって造られ」たことを、私たちは信仰によって悟る、そう書いてあります。創造主の素晴らしさについては、新約聖書の記者も決して小さく見てはいないのだと思います。この世界は、神の言葉により成り立ちました。神の言葉は、人間の言葉とは違います。人間の言葉は、無責任に「口先だけ」に終わってしまうことが度々あります。しかし、神の言葉は、存在そのものとなります。いえ、すでにそれが存在です。
ヘブライ語の感覚では、「言葉」は「出来事」を意味するものだ、と言われますが、それは、神の言葉が実現する出来事である、という理解に伴うものであるのではないか、と思います。少なくとも、「信仰」という次元の地図では、そのように見えるというわけなのでしょう。
このヘブライ書の「信仰」の定義のところには、こう書かれていました。「信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって造られ、従って、見えるものは目に見えるものからできたのではないことを悟ります。」見落としがちですが、ここには「私たちは」という主語が、決してわざわざ強調されてはいませんが、名詞の「格」から確かに分かります。
当たり前だと思われるかもしれませんが、この信仰の問題は、「私たちは」なのであって、「私は」という単独の事柄ではないのです。私が独りでここにいて、勝手に思い込んでいるのではありません。その「ここ」には、私の他にも誰かがいます。「他者」がいます。ほかの人が共にいます。仲間が共に生きています。
神の創造の業を賛美するこの詩人にしても、ただ独りでいるのではありません。神の創造したこの世界は、すべての人を包んでいます。被造物は万象として人を取り囲み、私たちはそれを「環境」だと意識します。
では、私たちも詩人と共に、神の創造の業を称えることにしましょう。このとき、私の思いつきではなく、ひとりの研究家の言葉を辿ってご紹介することに致しましょう。それは、淺野順一という先生の『詩篇選釋』という本です。
◆『詩篇選釋』
淺野順一先生は、特に旧約聖書学についての権威であり、1899年に福岡県で生まれ、1981年に亡くなっています。戦争の影響の下で日本基督教団が合同する以前の、日本基督教会でも貢献しました。高倉徳太郎に指示し、イギリスやドイツで聖書学を学びます。美竹教会を設立し、牧会と研究に努めました。時には、こうした立派な業績を遺した方の研究から、教えを受けてみたいものです。但し、耳で聴きづらいかもしれないやや古く感じられる言葉は、私の責任でいまのやわらかい言葉に直してご紹介します。
ちょうどこの詩編104篇について、詳しい解説をしてくださっています。淺野先生は、これを「自然詩」と名付け、神の知恵により創造された自然と人とに注目します。また、直前の103篇とは強い関係がある、というように指摘しながら、104篇の最初のところで、先ず天上の主の聖なる威力をもうたっている、と言います。
この世界は、地上にひとが建設することは不可能です。ヘブライ人の宇宙観は、蒼穹により上の水としたの水とに分かたれたものとしており、エゼキエルの幻想も思い起こすことができるでありましょう。
2:光を衣のようにまとい/幕のように天を張る。
3:水の中に自らの高殿を建て/雲を乗り物とし/風の翼で行き巡る。
4:風を使いとし/燃える火を従者とする。
光は主の衣、天はその住まい。また、雲を従者とし、風も火もただの使いに過ぎません。人の力の及ばぬ自然の原理や壮大な存在も、すべて神と比せば何の偉大さも感じられないようなものに見えてしまいます。淺野先生は、広い見識から、こうした表現は、バビロニアやエジプトの神話や伝説の影響を受けているかもれない、と述べています。
詩人は、主の偉大さや尊さ、栄光を歌うのに、イスラエルの外の文化で使われていた表現をも、借りて使うことを厭わなかったようです。人間が神を称えるのには、単なる自分の中の言葉だけでは、どうしても足りないのです。
◆創造の秩序
6:深淵が衣のように地を覆い/水が山々の上にとどまっていた。
「深淵」あるいは「大水」とされるのは、「波がうちよせるほどの水をたたえて全地をおおい、自然はまさに神によってつくられた彫刻がそのヴェールをとり払われ、偉容をあらわそうとしている瞬間」でありました。
7:あなたの叱咤によって水は逃げ去り/あなたの雷鳴によって逃げ惑った。
8:水は山々を上り、谷間を下り/あなたが礎を築いた所に向かった。
淺野先生は、ここには特にバビロニアの天地創造の物語がちらつくと言います。古代の神話に素材があるかのようですが、イスラエルの神に関して描くとなると、その精神も表現も、ずいぶんと変えられるものだ、と理解しています。
この後は引用を避け、淺野先生のコメントに簡単に触れることにしますが、ここでは、近代科学の観点から、それはどうも違う、というような書き方がなされているのを認めはするものの、全く違う捉え方をしているだけであって、科学的に間違っているなどというような言い方で片づけるべきものではない、としています。
また、ここに描かれた自然は、古代のパレスチナ地方のことです。日本に住む私が、日本の環境や文化と比べてとやかく言うべきではありません。たとえば、ここにも穀物や酒、油が登場しますが、かの時代、かの土地では、何よりも重要な産業であったことを押さえておきましょう。日本で米が特別であるように、ここに記されたものは、人が生きるための大切な基盤であったのです。
そういう自然もまた、神の全き支配のうちにあります。その神は、人格的な神である主です。土着の神バアルというものが旧約聖書にしばしば登場し、また偶像礼拝の象徴のように扱われますが、バアルについて淺野先生は、「自然力を神化させた」ものだ、と説明しています。
19:主は季節のために月を造った。/太陽は沈む場所を知っている。
古代人にとっては、月は非常に重要な暦の基準でした。一週間というサイクルも、月の満ち欠けを基にしている、と考えられています。太陽も、季節を定めるための基準として理解されました。そこには秩序があります。神の支配する世界には、秩序があるのです。
実のところ、近代科学の興りそのものについても、神に離反しようとする意図はなかった、と言われています。地動説は科学的で、天動説は神話的だ、などという図式を信仰している人も世の中にはいますが、地動説は、そう説明した方が実にシンプルで宇宙の美しい調和を感じられるということであったし、何より研究者たちは、自然は神の創造の秩序を表すもの、ひとつの聖書だと見ていたのでした。
神の支配する世界には、秩序があります。数式や法則を、時に「美しい」と評することがありますが、正に神の創造した世界は、美しいのです。この詩に描かれるように、人と野獣とは互いにその活動の分を守り、相手を侵そうとはしないものです。
昨年の「今年の漢字」では、「熊」という珍しい漢字がアンケートで最多数を占めました。熊が人里に現れ、人が襲われるという件が非常に多かったためです。人は熊を駆除します。害獣として、処分します。けれども、熊の居所を制限したのは人間の側でもあったのであり、人間がそのようにさせた側面もある、と見なければならない事情も確かにあるのでしょう。
23:人は仕事に出かけ/日暮れまで働く。
「太陽が昇ると」の後に続く言葉ですが、素朴な表現の中に、創世記にあったことから類推して、労働が人間への罰のように捉えるべき者ではない、ということを含んでいるように淺野先生は捉えています。「勤労は決して神の呪いの結果では」ない、というのです。いえ、むしろそれは祝福なのです。詩人は、このように神の支配する世界に起こる一つひとつのことに対して、あくまでも「アーメン」と言って受け容れようとしている、ととするのです。
◆自然を通して知る神
この後、私が触れたように、どちらかというと被造物が主語のようになり、地上世界の自然の側ではどうなのだ、というふうに綴られるようになります。
今日私が開いた聖書の範囲を超えますが、淺野先生が説くこの詩の後半にも、目を通しておくことをお許しください。
この後、海のことに触れます。イスラエル人は、海についての知識に乏しかったことを淺野先生は指摘します。海は、どちらかというと、ただ恐れるべき神秘の世界でした。レビヤタンという怪物が時折旧約聖書に登場しますが、そうした怪物の住処が海だと考えられていました。津波のようなものさえ、そうした怪物の為せる業だとされていたのでした。
しかし、直接経験できない自然を対象にしても、神秘的な装いを纏いながら、イスラエル人の理解は進みます。そのいずれも、主の偉大さを称えているのです。
近代科学では、宇宙というものが広大で、時に神と同一視されることがあります。しかし、宇宙すら、神の被造物だ、とすべきなのが聖書の世界観です。だから、手塚治虫の「火の鳥」で、永遠の命をもコスモゾーンとして宇宙生命のように描いているのは、聖書の見方と同じではありません。むしろ神は、生命の根源なのだ、と淺野先生は言います。
宇宙の生命は、神の「いき」なのであって、そもそも宇宙生命を創造し導く人格的な神を以て理解しないと、その意義すら分からないのだ、としています。地上には、主の「いき」を送られることによって、初めて生きるのであり、新しくせられるのだ、というのです。
そこで淺野先生は、この詩を結ぶにあたり、人生の目的というものに目を向けます。「人生の目的は、神を拝し、神に仕えることにある」というのです。もし人がその力で何をもなしえなかったとしても、創造者たる神を賛美することができるならば、それは「感謝のきわみ」ではないか、と告げています。
ですから、この混沌たる世界に、ただ信仰だけが、矛盾に満ちた現実世界に対して、心から「アーメン」と言える力を与えるのだ。淺野先生は、この詩をそのように評しています。
つまり、神の威厳や知恵は、この自然の中にも実現されているのであって、私たち人間は、自然を通して、その創造主の偉大さを改めて知る機会となるわけです。この詩には、「徹頭徹尾ヤーウェの大能と大智とにたいする絶対的な信頼と肯定」が貫かれている、と言っています。
◆神の業
旧約聖書を研究するということは、このように神の偉大さを確実なものとして示すことにあるのだ、ということを教えられました。そうした助言に勇気を戴いて、私も、私に対してこの詩から与えられた思いを、淺野打ち明けることに致しましょう。
こうして見てきましたが、詩人は高らかに自然を相手にうたっていました。世界には光がありました。水が、雲が、風が、火がありました。この地は揺らぐことなく据えられていましたし、豊かに水が循環します。その水は境を定められ、陸は守られています。その水はまた、生命のためにはどうしても必要なものです。川の水は生き物の命を支えます。獣も鳥も、もちろん人も、その水で生きています。
動物は、その水を飲むことによって生きます。他方、自ら移動できない植物たちは、土の中の水を吸って生えてきます。その植物を食して動物たちは命を保ちます。
近年、小中学校の理科学習では、いわゆる実験やそこから得られる技術というようなことばかりでなく、地球上のエネルギーや、生物のつながりや環境についての教育が増える傾向にあります。ずっと以前にそうした学びを卒業した大人の皆さんも、最近の「理科」の学習を紹介している本などに、できれば触れて戴きたいものだと思います。環境のため、エネルギーのため、私たちは人間自らの責任という観点からも、大いに考え、実践していかなければならない時代にいるということを、子どもたちへの教育から、学ばなければならないと思います。
その理科では、すべてのエネルギーはどこからくるか、という問題に対して、「太陽エネルギー」と解答するように仕向けられています。太陽エネルギーが万物の生命のルーツであると学校教育は教えているのです。それも科学的には正しいのかもしれませんが、キリスト者は、すべての力は主からくる、と理解しています。どの命も、主が生かしている、と見ているはずです。太古の詩人が、それを主なる神に置いたその霊的示唆の通りに。
この見方は、いまも私たちに受け継がれています。古代の詩人の常識であるはずの自然観も、どこかいま私たちが受け容れることができるような気もしてきます。「主は地からパンと/人の心を喜ばせるぶどう酒を生み出し/油で人の顔を輝かせる。/パンは人の心を強くする」というのを、奇想天外であるとは、信ずる者は捉えないものだと思います。
ここにある食べ物を、当たり前に手に入ったものだ、とするには、あまりにも不思議です。どうして生き物をこうして食べているのか、命とは何なのか、ふと疑問に思って考え始めれば、詩人と同じ感慨に満たされることは、幾らでもあるものなのです。
24:主よ、あなたの業はいかに豊かなことか。/あなたは知恵によってすべてを造られた。/地はあなたの造られたもので満ちている。
人工的でないものに、私たちは目を向けることをしなくなっていないでしょうか。何でも人が造ったものばかりしか見ていないと、すべてのものを人間が造ったのだ、と勘違いしてしまいそうです。神の業が、意識から消されるようなことの、ありませんように。神の業に、きっと気づきますように。私たちを取り巻くものの背後に、人の知恵を遥かに超えた神の存在を、ひしひしと感じる日々を、送りたいものだと願います。