特別ではなくあたりまえであること

2026年1月10日

「星の金貨」と「愛していると言ってくれ」は、同じ1995年に放送された連続テレビドラマである。妻が夢中で見ていたので、特に後者を私もよく見た。これで手話ブームがささやかだが世に起こった。妻が手話に関心を持ち始めたのも、このときである。
 
古くは、映画「名もなく貧しく美しく」が1961年に公開され、ろう者の存在が広く知られるようになったようだ。最近では映画「ぼくが生きてる、ふたつの世界」の吉沢亮の演技が高く評価されたが、そのときにはろう者の俳優忍足亜希子が出演したことも注目された。また、2022年のテレビドラマ「silent」は、中途失聴者の姿を人気俳優が演じて話題となった。
 
手話をストーリーに入れることで、ろう者の立場や生活が知られるようになる。それは必ずしも悪いことではないだろう。聴者が当たり前だと思っているものが、ろう者にとっては多大な困難を抱えていること、また差別をされていることにさえ、気づきが起こるかもしれない。ろう者と手話とは、実に大変なことなんだ、そのようなことをメインに描くということを、否定するつもりはない。
 
だが、障害者は辛い、それでもめげずに努力する、そして目標を達成する――かつて「24時間テレビ」が「感動ポルノ」と呼ばれるようになったことがあったが、手話を映画やドラマで描くとき、それに近い構造が感じられることがあるのではないかと思う。困難を克服することで感動をもたらす効果を踏まえて、制作されている、という構造である。
 
ろう者というものが特別なことだ、という前提がそこにある。ドラマは大抵、聴者側が、自分の知らないろう者の世界を知る機会として与えられており、そこには自分はろう者とは違うのだ、というスタンスが初めから決められているような気がしてならない。ろう者はそれに対して、世の中ではいちいち「眼鏡をかけている人」を特別に扱うような意識をもたなすはずなのに、どうして「聞こえない人」は特別なのか、と問いかけることがある。まことにその通りだ。
 
ろう者は、お涙頂戴の道具などではないはずだ。聴者中心の社会の片隅にあって、特別に目をかける必要のある存在だ、というような、暗黙の前提があるのではないか、と問いかけたいのである。
 
すでにクールが終わったが、昨年末に公開されていたアニメーションの中で、私は偶々だが、ろう者や難聴者について、ごく普通の人として触れるものを2つ、見かけた。これらについては、すでに2025年11月26日の記事で詳しく記しているので、簡単に振り返ることとする。
 
ひとつは、「笑顔のたえない職場です。」というもの。若手漫画家を取り巻く職業事情をコミカルに、しかし心情豊かに描く爽やかな物語。主人公の双見奈々が、新しい漫画のテーマについて、何かできることはないか、と尋ねられると、少し考えて、手話ができます、と言った。家族に耳の不自由な者がいて、読唇術(口話)もできるが、「ちゃんと向こうの言語でお話ししたくて」、手話を覚えた、とさりげなく言うのだった。但し、結局その方面の漫画を描くというふうに話は進まない。
 
実にさりげない。また、これは前回の記事のときにはまだ放映されていなかったシーンだが、その後ストーリーの中で、ひとりのファンの姿をちらりと見て、「あの子は聞こえにくいのではないかしら」と気づく場面があった。これら聴覚障害者に触れるような場面があったのだが、さしてそれらを展開したり掘り下げたりすることなく、ただの日常の一コマのように描かれるだけだった。
 
聴覚障害があるからどうだ、ということもなく、ただそこに、眼鏡をかけた友だちがいるというような扱いで、ストーリーが流れてゆく。聴覚障害者が生活の中にいることも、ごくあたりまえの風景のひとつでしかないような設定だった。もちろん、意味をもたないわけではなかったと思うが。
 
もうひとつ、これも前回触れたが、「ワンダンス」。主人公は高校生になって(ストリート)ダンスを始める小谷花木(かぼく)という男の子。吃音をもっているが、耳は確かで、湾田(わんだ)光莉(ひかり)という同級生の踊る姿を見かけて、声を出さなくてよいダンスに惹かれてゆく。これは、漫画の作者である珈琲という方の実体験に基づくらしい。
 
そしてその湾田光莉がダンスを何故始めたかというと、難聴の父親に、うまく聞こえなくても、音がなくても、「ダンスなら音を聴かせられるんじゃないかと思った」からだという。ここには手話は介在しない。逆に、手話を使うのかと訊かれて、難聴者で手話を使うのは2割程度だ、という適切な認識を湾田さんが説明する場面もあった。

確かにここでは、聴覚障害が、物語のテーマそのものであるダンスの根拠のように置かれている。が、だからその障害がどうだこうだ、というふうに描かれるわけではない。これもまた、あたりまえの生活の一部にそうした人がいて、影響を与えた、という程度の扱いなのである。
 
わざわざ、気の毒な人がその不遇に負けずに努力して立ち上がるような感涙させる気配は、どこにもない。障害があるにも関わらず努力して成長し、周囲の者が感動する、というようなベタな描き方とは無縁である。自然に、ただそこにいる。あたりまえの一人として物語の中に位置している。
 
私は前回の考察で、この女の子の名前が「ひかり」であることや、漫画家の名が「双見」という、2つの別の角度からものを見るモチーフを含んでいることに、意味を見出したい、というようなことも書いていた。
 
殊更に特別視しないこと。そこにいても何かしらあたりまえのように見ること、扱うこと。私たちは、性格や見かけの異なる者同士でふだん出会い、つきあっている。いわゆる障害をもつ人も、そのような出会い方とつきあい方ができるような描き方をしている。これら2つのアニメについて、私はそのように感じて、心強く思った。
 
福岡では、近郊の小さな町であっても、外国人がふつうに暮らしているように見える。中国語や韓国語は、観光客に多いが、生活している人たちの言葉は、東南アジア系が多いように思える。外国人、あるいは他の民族の人々もまた、そこにあたりまえのようにいて、あたりまえのように接しているという姿を描いた漫画も、きっとあるだろう。だが、こうたあたりまえさは、物語の中だけでなく、私たちの実生活の中で、本当にごくあたりまえのことであるようにしたいものである。



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