【メッセージ】起きて整えよ

2026年1月4日

(マタイ25:1-13, サムエル記上26:7-12)

真夜中に『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれの灯を整えた。(マタイ25:6-7)
 
◆喩えの背景
 
新しい年が始まりました。よく口に出る「年を迎える」という言い方は、「歳神」信仰への傾きを感じるので、使わないでおきます。新しい年を数えるのは、人間がリフレッシュするためにはよいかもしれません。コンピュータで言えば「再起動」でしょうか。上を向いて、希望を胸に始まるときを共に過ごしましょう。
 
ローマ帝国の暦がいまなお受け継がれている、というお話を先週致しました。人間の都合による区切りは心許ないのですが、旧約聖書でも、新たな年に主の前に立つ、という考え方はあったようです。
 
先週は、自分の中の危うさというものについて、しつこいほどに追究しました。嫌な思いを懐いた方、申し訳ありません。ではその次、2026年の初めは、ぜひ希望を見出したいではありませんか。「希望」とはなんとも美しい言葉ですが、望み願う為には、聖書は「目を覚ましていること」をどうやら要求しているようです。
 
イエスはひとつの喩えを話します。が、喩えは、それがどういう場面で、何をきっかけに語られたか、を考慮することが大切です。福音書は、そういう場面を描いているからです。抽象的に、謎の教えを出したわけではありません。それは、エルサレムに到着したイエスと弟子たちの中で始まりました。
 
弟子たちは、神殿の美しさに見とれてしまっています。しかしイエスの目には、神殿の崩壊が目に映っていました。もちろん、福音書の著者もその悲劇を知っています。イエスは、「世の終わるとき」(24:3)のことを語り始めました。但し、こうした話は、マタイ伝の山上の説教のように、事ある毎にイエスが口に出していた教えを一連のものとして集めた、と理解することもできるのですが、確かにここで神殿の滅びを告げる場面でこそ似合う宣言であるかもしれません。もちろん、「その日、その時は誰も知らない」(24:36)がすべての前提となっています。
 
イエスは、「これらすべてを見たなら」(24:33)その時が近いことを悟るように、と注意を促しています。悟るためには、「目を覚ましていること」が必要です。イエスはそれを強調する中で、この「十人のおとめ」の喩えを語り始めました。「その日、その時を知らないのだから」「目を覚ましていなさい」、というのがその心構えです。言うなれば、結論はこのことに尽きるわけです。
 
◆油断なく
 
登場人物は、さしあたり十人のおとめ。いわゆる「処女」という語ですが、仕える者であることからすると、日本人は神社の「巫女」を想定するのが案外よいかもしれません。これから婚礼が始まります。花婿がやってくるのです。花婿を迎えるために、灯を持って出迎えるのがその役回りでした。
 
ところが、花婿はなかなかやってきません。これが、イエスの喩えでよくあるように、それがいつなのか、人間の側で計算ができない、ということを示しています。いえ、もしかすると、約束の時は与えられていて、なおかつ、花婿が遅れていて、人間の側の緊張が緩んでしまう様子を表しているのでしょうか。
 
ついに十人とも、眠ってしまいます。私はこれを、「眠りこけていた」と表現してみます。待ちくたびれたのです。からだの緊張が伴わないのです。ですから、この主人がおとめたちに「目を覚ましていなさい」と命じたのは、待っているときではなくて、事後のことであるとチェックしておかなくてはなりません。予め「目を覚ましていなさい」と言われていたのに眠りこけていたのではないのです。ちょっとおとめたちを弁護してしまいますが。
 
けれどもここでいう「目を覚ましていなさい」は、喩えに登場する主人の言葉なのでしょうか。私には、イエスが弟子たちに教えを言っているのではないか、と思えてなりません。つまり、いま触れたように、十人が「目を覚ましていなさい」と命じられていたようには見えないことから、この喩えを聞いた弟子たちに対して、実はイエスが教訓のようにして告げた、というふうに捉えてみたのです。
 
十人のうちの半分、5人は「賢いおとめたち」と呼ばれました。眠りこけてしまったにしても、賢かったのです。それは、「それぞれの灯と一緒に、壺に油を入れて持っていた」からです。これが、どうやら「目を覚ましていた」ことであると理解するよりほかありません。眠りこけたのに、目を覚ましていた。これは理解しづらいことです。
 
この「目を覚ましていた」という語は、「じっと注意して見る」ことを意味することもあれば、「油断せず番をする」というときにも使える語であることが、調べると出てきます。そうすると、この賢いおとめたちは、肉体的には眠ってしまっていたが、油断していなかった、ということになります。
 
言葉というのは面白いもので、この日本語がなんとぴったり合うことでしょうか。日本には、「油断」という言葉の由来が、延暦寺の灯を絶やさないようにという修行の戒めにあるという説があります。「油断せず」とは、正に「油を断たせることなしに」ということで、この5人が油を断たせることがなかったことと合致します。
 
眠りこけてした賢いおとめたちと、愚かなおとめたちとの運命を分けたのは、油の有無でした。「花婿だ」との叫ぶ声に、「おとめたちは皆起きて、それぞれの灯を整えた」のでしたが、前者は壺に油を入れて持っていました。油があったのです。油とは何でしょうか。思い巡らせる価値はありそうです。
 
◆眠りこけていた例
 
聖書の中に、眠りこけてだらしなかった、という話はほかにあるでしょうか。恐らく読み慣れた方がすぐに思い起こすのは、ゲッセマネの園での出来事だろうと思います。逮捕直前のイエスの祈りに、ペトロとヨハネとヤコブが連れて行かれたのですが、イエスが必死で祈っている間に、3人は眠ってしまったのです。
 
それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、一時も私と共に目を覚ましていられなかったのか。」(マタイ26:40)
 
「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい」(26:38)と言っていたにも拘わらず、です。このことはもう一度繰り返され、「再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである」(26:43)と描かれます。さらに三度目に「まだ眠っているのか。休んでいるのか」(26:45)と、イエスは半ば呆れたように言い放つことになるのです。
 
使徒言行録にも有名な逸話があります。トロアスに来たパウロは、週の初めの日、夜中まで長い話をしていました。いまで言えば説教なのかもしれませんが、とにかく夜中まで話が続いていました。
 
エウティコと言う青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。(使徒20:9)
 
パウロはこの青年を生き返らせますが、なんだか現代の礼拝中も舟を漕いでいる人がいると、この話が思い出されます。それからまた、マルコ伝には、こういうことをイエスが言っていました。
 
神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。(マルコ4:26-27)
 
人が寝ている間にも、種は生長している。神の国の喩えなのでしょうが、これは別に眠りこけていたわけではありません。
 
おまえの神は眠っているのか、とバアルの預言者たちを馬鹿にしたエリヤのことは別として、イスラエルの神は眠ることがない、寝ずの番をさえするのだ、と旧約聖書では言っていたようでしたが、探せば由々しき表現もあります。
 
わが神、わが主よ/目を覚まし、身を起こしてください/私の裁きのために、私の争いのために。(詩編35:23)
 
あなたこそ主、万軍の神、イスラエルの神。/国々を罰するために目を覚まし/悪しき裏切り者には誰にも/恵みを与えないでください。(詩編59:6)
 
まるで神が眠りこけているかのような表現です。これだから、詩編は面白いのです。人間の側の思惑が、時に色濃く反映されているのです。
 
◆眠りを与える
 
しかし、サウル軍の側近の兵士たちについて、興味深い場面があります。ダビデに憎しみを懐くサウル王はしつこく追いかけていたのですが、砂漠の近くにダビデがいるという情報を聞きつけて、なんと三千人もの兵を連れて出向きます。ダビデは、追っ手が近づいたことに気づき、勇敢にもその陣に近づきます。
 
ダビデは立ち上がり、サウルが陣を敷いているその場所まで近づき、サウルとその将軍、ネルの子アブネルとが寝ている場所を見つけた。サウルは陣営の中で寝ており、兵はその周りに宿営していた。(サムエル上26:5)
 
ダビデは夜、部下のアビシャイと共に、その場所に近づきます。サウル王も、司令官アブネルも兵たちも、眠りこけていました。アビシャイは、今こそサウルの命を奪えるといきり立ちますが、ダビデは抑えます。「主が油を注がれた者に手を下すようなことを、主はお許しにならない」と言い、その場にいた証拠にと、槍と水差しだけを取って立ち去ります。
 
ダビデはサウルの枕元から槍と水差しを取って、立ち去った。見ていた者も、気付いた者も、目を覚ました者もいなかった。主から送られた深い眠りが彼らを襲い、皆眠り込んでいた。(サムエル上26:12)
 
この眠りは、神が与えたのだ、と記者は証言しています。兵たちは王の命令に背いたわけではなかったのでしょうが、確かに職務としての怠慢であり、危うく王の命を奪われるところでした。
 
神が眠りを与えたという点では、創世記のアダムにもそういう場面がありました。
 
また、神である主は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう。」(創世記2:18)  
そこで、神である主は人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、そのあばら骨の一つを取り、そこを肉で閉ざされた。神である主は、人から取ったあばら骨で女を造り上げ、人のところへ連れて来られた。(創世記2:21-22)
 
不眠症と思われる人々がいます。私も若いとき、寝付きが悪くてもがきました。いまはストンと眠れます。睡眠は、生理的に必要です。眠らねば人は死んでしまいます。皆さまの中に不眠で悩む人がいらしたら、神が必要な眠りを与えてくださることを願っています。
 
◆冷たい態度
 
睡眠していたかどうか、というよりも、油断していなかったかどうか、そこに私たちは目を向けてみました。誰もが眠っていたのです。しかし、そのうち半分の者は、灯のための油を壺に入れて持っていたのに対して、残りの半分の者は、油を入れて持っていませんでした。灯だけはあっても、油がなかったのです。油の用意をしていませんでした。
 
どうか油をください。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに頼みました。このとき、こんなふうに言っています。「油を分けてください。私たちの灯は消えそうです。」ということは、油は最低限、入っていたのでしょうか。「消えそう」というからには、とりあえず燃えているわけです。自分のもつもので、芯だけは燃えているのかもしれません。しかし、それは幻のようなものでしかなく、燃え続けさせることはできないことが分かっていました。
 
自分が当然のようにして持っているものだけでは、一見燃えているように見えても、続くことがないのです。どうしても油か必要です。そこで愚かなおとめたちは、「油を分けてください」と頼みました。しかしこれに対して、賢いおとめたちは、「分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」と応えます。なんとも冷たい返事です。お願いしたのに、冷たくあしらったのです。
 
分けてあげるのが、神の求める「愛」ではないのでしょうか。それとも、自分で用意していないような者は、油がなくても自業自得なのでしょうか。ひととき、「自己責任」という言葉を、勇敢な人に浴びせることが流行っていました。勝手にやったことは、他人に手間を取らせるな。如何にも合理的なその言葉は、ぞっとするほど冷たいものに感じました。経済的に窮地に陥るのも、弱い人のために犠牲を払ってでも行動を起こして敵の攻撃に遭っても、すべて「自己責任」だから税金を使うな、と言うのです。いったい、何のための税金なのでしょう。
 
しかし、それと同じように、ここでの賢いおとめたちは、油の用意のない5人のことを、助けようとは思わなかったのでしょうか。イエスの描くのは確かに単なる喩えに過ぎませんから、話の本筋と関係のないところに拘るのはよくないかもしれませんが、イエス自身、その冷たい態度を悪く評価するつもりは全くないようです。
 
頼まれたところで、できない、ということもあるでしょう。そのように賢いおとめたちの冷たい態度を弁護する人もいることでしょう。愚かなおとめたちは、言われたままに買い出しに行きます。その間に、花婿が着きました。すると主人は、5人だけを中へ入れて、ぴしゃりと戸を閉めてしまいます。
 
買い出しに行っていた5人が戻ってきて、「ご主人様、ご主人様、開けてください」と頼みます。しかし主人までも、厳しい措置を下すのです。「よく言っておく」との前置きは、「アーメン」という語から始まります。そして主人は、「私はお前たちを知らない」と、激しく冷たい言葉を浴びせるのでてす。
 
知らないはずがないでしょう。十人とも仕えていたのです。眠りこけていたのは十人ともです。油を準備し損ねた5人は、持っていた5人に縋ったのに、分けてやらないから買いに行け、と言われたのです。そして、言われたままに買いに行ったところ、運悪く花婿が来たものだから、戸が閉められたのです。開けてくれと懇願したのです。けれども主人は、「知らない」と拒絶しました。「アーメン」とまで言って。
 
油の有無が、天地ほどの差を以て結論づけられました。イエスはそれほどに、この油という備えの有無を問題にしたのです。喩え話なので単純にしてあり、また教訓的に極端な描き方をしているきらいはあります。でも、それにしても冷たい態度に、後味の悪さを覚えるのは、私だけでしょうか。
 
そこで、先に少し触れたように、この「油」とは何のことか、と考えることがあります。喩えには、明確な象徴がなされていない部分もあるかと思いますが、説教ではしばしば「聖霊」になぞらえられます。聖霊を受けることが必要だ、との教訓は、信仰生活のために分かりやすい説明であるようにも思われます。ただ、マタイ伝では「聖霊」がそのようなことのために言及されることがどうやらありません。聖霊をこうした意味で描くのは、ルカ伝です。これがルカ伝であれば、私も、油とは「聖霊」だとお話ししたことでしょう。しかしマタイ伝でこれが「聖霊」だ、と強く言うのは憚られます。
 
もし、聖書の唯一の解釈はこれだ、と提示するのは、時に過激になり、信仰を偏らせる虞があります。その都度説教では、こうした意味だと示すことがありますが、それを教条のように掲げて、他の理解を排斥することは、好ましくありません。歴史の中でそのようにして自説を強調したグループは、多くが異端とされて散っていきました。
 
しかし、説教という場は特別です。教義としては掲げられないことでも、説教者が示されたひとつの光を、会衆に示すのです。主はこのようなお方だ。このような聖書の言葉の出来事を私は証言する。そのようにして、一面的に過ぎないかもしれない真理をも、告げ知らせる働きがあって然るべきだと思います。いくらかハッタリ混じりでも、神の真実を一筋の光に載せてもたらすことができます。そこにいる一人を生かすために、一本の道を差し渡して戴くことを厭わないのです。
 
◆キリストと教会
 
それでも、「油」が何であるのか、私はここで強く言うことは控えます。それぞれの方が、自分が神に対して備えていなければならない「油」に気づくならば、それで十分です。ただ、そのためにまた別の角度から、この喩えの場面を見つめてみたいと思います。
 
それは、これら十人のおとめたちの居場所です。「十人のおとめがそれぞれ灯を持って、花婿を迎えに出て行く」場面にいました。同じ主人に仕える十人です。同じ仕事を命じられた十人です。十人のおとめたちは、共に同じところにいたのでした。半々に分かれたのは、羊と山羊に分かれるような有様のためでしょうが、とにもかくにも、十人は共にいました。そして、同じ主人をもつ。
 
お気づきの通り、これは一緒にいる教会の仲間であるように思い浮かべることが可能です。イエスの弟子として従っていた人々のうちに、全く別の行き着くところをもつグループが分かれることを示すかのように、その後のキリストの名をもつ教会に於いて、ひとつになっているはずの信徒がそこに置かれているようにも、見られるではありませんか。
 
花婿が来る、という話は、こちらに花嫁がいることを暗示させます。しかしここでのイエスの喩えには、花嫁の存在を匂わせることがありません。花嫁がどこにいるか、それは全く関心の外にあるかのようです。しかし思えば、黙示録では「小羊の妻である花嫁」(21:9)と言われてもいましたし、エフェソ書では次のように、キリストと教会とを指すものとして描かれていました。
 
「こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。」この秘義は偉大です。私は、キリストと教会とを指して言っているのです。(エフェソ5:31-32)
 
教会がキリストの花嫁である、という捉え方が、広くなされています。イエスの他の喩えでは、神が再び世に戻ってくるというようなモチーフが見られますが、キリストと教会との関係も、黙示録にあるように、終末を見越しているように感じられます。主の日、裁きの時を見つめているのかもしれません。
 
そうだとすれば、イエスがわざわざここで「目を覚ましていなさい」と付け加えたのは、神の「時」に対して油断することがないように、という意味に受け取ってもよいように思われます。いまここで徹夜せよ、などというような教訓に取るのは、余りに文字通りに過ぎると言えるでしょう。
 
ここで花婿が来るというのです。キリストが再臨するときを想定しても強ち間違いではないでしょう。そして、教会の中でも、信仰はそれぞれに違う人の集まりですから、単純に教会員全員が神に目に適うとは限らないことをも、弁えておく必要があるように思われます。奇妙なことを言い始める教会員がいても、ついて行ってはならないわけです。
 
◆自己意識の外から
 
先日、テレビで、ウサギが目を開けて寝ている様子を見ました。聞けば、そういうことはよくあるそうです。敵を警戒しているためだと聞きました。それで何か動くものが見えたと脳が判断したら、体を起こすのです。人はというと、目が開いていても、見えていないものが多々あります。数学の図形の問題などは典型的なもので、そこにある二等辺三角形に気づくことがないために解けない、ということがよくあります。
 
「ウォーリーをさがせ!」は長い間愛されていますし、「ミッケ! 」とか「どこどこ?セブン」とかいう、探し物の絵本もいまなお人気です。視界には入っているはずなのですが、どこにそれがあるのか見出せません。意識に上らないのです。
 
目には見えていても、意識していない、というのは、日常的に理解できます。街なかを運転していて、妻は、お菓子屋さんや洋服店があったねと言いますが、私は、そんな店どこにあったっけ、と意識の中にまるでない、ということがあります。
 
それはまるで、私の意識が眠りこけていたようなものだ、とも言えます。他人事でしょうか。私たちは、こうして見えていないもの、意識していないものが、多々あるのではないでしょぅか。ほかならぬ教会が、障害者を差別していたこと。外国人を排斥していたこと。異性愛から外れる愛情を悪魔呼ばわりし、迫害してきた長い歴史。チャイコフスキーもいろいろ言われていますが、オスカー・ワイルドやアラン・チューリングは犯罪者とされ死に追いやられました。トーベ・ヤンソンはまだ幸せであったかもしれませんし、過去の国王の中にもいろいろいたそうですが、教会の責任は決して小さくないと思います。
 
キリスト教の故に、それは犯罪と見られました。しかし現代、世間の思想を追いかけるように、私たちの教会はLGBTQの味方です、と自分たちには愛があるのだと見せようとする教会が多々あることに、私は憤りすら覚えます。自分たちの聖書を掲げる者が、その人たちを殺してきたのです。まず必要なことは、悔い改めであるはずです。世の流れに敏感に振舞い、教会はいつも正しいのですよ、とアピールする示威行動には、辟易します。
 
「目を覚ましていること」あるいは「油断しないこと」は、自分で「目を覚ましているぞ」「油断していないぞ」と決めることのできないことなのではないでしょうか。日本の教会もまた鬼畜米英を叫び、朝鮮半島の人を差別し、沖縄の教会を切り捨ててきました。賀川豊彦が現れたときに批判や攻撃をしたのはおもだったキリスト教会です。それがいまや、社会的に認められるようになると、賀川豊彦はキリスト教会の誇りだ、と平然と口にします。内村鑑三のいわゆる不敬事件を、世間と一緒に批判したのがキリスト教会であった事実はないのでしょうか。太平洋戦争のときのホーリネス系の弾圧事件を、他人事と見て眺めていたキリスト教会が、戦時中は自分たちは被害者だったというような顔をしていなかった、と言えるのでしょうか。
 
目を覚ましているかどうか、油断していないかどうか、それは自己義認のできないことなのです。それでは、何によってそれが分かるのでしょうか。
 
6:真夜中に『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。
 
この声がして、初めて「皆起きて、それぞれの灯を整えた」のでした。声とは何か。その声を聴くのが、私たちにとり、目を覚ましていることであり、油断しないことではないかと思うのです。私たちは大抵、それを声としてさえ感知していないのです。聞こえていないし、そもそも聞こうともしていないのです。
 
おとめたちは「皆」起きました。声が聞こえたのです。それは内からではなくて、外から聞こえたのです。おとめたちは、それぞれの灯を調えました。但し、そこに油の備えがない者たちは、祝宴に入ることを拒まれました。私たちは、この「油」を知りたいと願います。私には、それは一つには決まらないような気がしてならないのですが、如何ですか、この1年、「油」とは何か、を心に懐き、希望を胸に、共に歩んでいきたいと思いませんか。



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