選ぶことができる (クリスマスイブ礼拝)
2026年1月3日

それは小さな出来事だった。皇帝や王侯の家でもなければ、神殿祭司のところでもなかった。イエスが生まれたのは、貧しい2人、しかも訳ありの夫婦であり、人口調査というどさくさに紛れた形で、危うい出生環境であった。
説教者は、これを「神の危険な賭」と称した。このような視点は大切である。それは奇蹟とも言える出来事ではあったが、神の側の事情としては、極めて危険なものであった。もしもヨセフが受け容れなかったら? そもそもマリアは引き受けるのか? ヘロデ王の虐殺を逃れられるのか?
そう。幼子が生まれたことは祝福であるかもしれないが、育てる身としては、常に緊張が伴う。寝ているときに息が止まらないか、と心配する親がある。這い出すと、辺りの家具の角を慌てて手で塞ぐのが親である。熱を出せば命に関わるのではないか、と寝ていられなくもなる。神としては、それをいわば他人に託すのである。
イエスが生まれた出来事は、世に知られることはなかった。異邦の、いわば敵国の学者たちに見出されたのも奇蹟であれば、人口調査の対象にすらならない羊飼いたちに天使が知らせ、幼子のところにまで危険を冒して導いたのも奇蹟であろう。
しかし、赤ん坊を見るときの、人間の眼差しというのは、たいてい優しい。思わず笑顔になる。そこには喜びがある。命というものを感じ、光が射したことを確信する。そこには祝福があるのだと信じて止まない。
イエスが貧しい環境で生まれたことは、誰でも近づけるためでもあった。説教者は、王宮だとそうはいかないし、神殿祭司の場合もそうだろうと告げた。すべての人々の救いのため、と言いながら、誰の目にも触れないような高貴な場所で、誰も近づくことのできないような地位ある家の中で、イエスが生まれたとしたら、ある意味で矛盾なのである。
私は今日、天と地をあなたがたに対する証人として呼び出し、命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい。そうすれば、あなたもあなたの子孫も生きる。(申命記30:19)
説教者はここからの対比を強調する。「命と死、祝福と呪い」、それがこのイブ礼拝の中核である。「あなたは命を選びなさい」というのが、神がこの夜にあなたに向けた言葉である。
これは一見、命令の文であり、私たちにとっては否応なく突きつけられた強制であるかのようにも見える。だが、よく知られているように、十戒にしても、すべてが命令で圧した形の言明ではない。神を知る者は、そのようになるだろう。当然そうなる、という「shall」のようなニュアンスだろうか。あるいはそれに仮定の要素を交えた「should」であろうか。これは「べきである」という受験英語の訳し方とは異なり、「した方が良い」という、圧力を減じた言い回しである。
だから説教者は、申命記の言葉は、私たちに「選択の自由」があることを示している、と言う。一人ひとり、神の前に選ぶことができる、と言うのだ。
説教者はこのとき、いま世界には様々な神々、偶像が力を揮っていると知らせた。拝金のマモン、闘いのマース。これらは、目的のためには人を殺すことも是とする力をもっている。そして、COVID-19より感染力が強いエゴイズムというウイルスに基づく神。それらを知らず識らずのうちに神として崇めていないか、私たちは厳に戒めとしなければならない。
ユダヤ民族は、どうして国が滅んでしまったのか、自らに問うた。まず北イスラエルが、続いて南ユダが。どうやらモーセの口を通して語られたとするこの申命記は、そうした環境で整えられたらしい。このような選択をしたのはイスラエル民族自身だ。神が悪いのではない。もう一度ヨルダン川を渡るにはどうすればよいか。
そうして、彼らは悟る。自分たちはまた、選び採る道があるのではないか。さらにそれは、私たちへも及ぶ。否、これはもはや、私たちの問題である。私たちは、幾度も幾度も、選び直すことができるのである。説教者は、そのように語る。
人間には、その自由が残されている。死を、呪いを、選ぶことなかれ。命を、祝福を選ぶのだ。正にいま、私たちにそれが突きつけられている。その問いは、すべての人に対してである。傷つけられた人々へ、世界の運命を担う指導者たちへ、孤独な者へ、健やかな人へ、そしてもちろん、辞める人たちへ、何を選ぶのか、問いかけられている。そして神は強い期待を以て、「選ぶに違いないね」ともちかける。
説教者はここで、フランクルの『夜と霧』を引く。また、大江健三郎と息子の光さんエピソードを聞かせる。脳瘤ある身で出生した子を、父健三郎は心の内ですでに葬っていたものの、広島原爆病院の重藤文夫院長を通して、「受けて立つより仕方がない」との示唆を受け、生きる道を見出すことができたという。それは再生であり、以後健三郎氏は息子との共生を道とする。光さんは音楽の世界で素晴らしい活躍をすることになる。
このクリスマスのメッセージは、すべての人のところへ届けられる。特に説教者は、体験として、亡くなった家族の棺の許へクリスマスの命の光を届けたことや、閉ざされた精神病棟で、人知れぬところで生まれたイエスを伝えたことに触れた。どこでも、誰でも、この世界の祝福のメッセージを受け取ることができるのだ。
このイエスは、後に人々に語る。「敵を愛してごらん」と囁くように説教者は言う。これは画期的な訳ではなかろうか。「敵を愛せ」と、聖書の邦訳文面は、ぶっきらぼうに告げる。厳しい命令のように、つまりかつての旧約の律法であるかのように、大上段から振り下ろしてくる言葉の圧力を、私たちは感じるかもしれないものである。だが、説教者は、命令口調ではなく、私たちにまだ選択の余地を残しておくような言葉の調子を伴いつつ、「敵を愛してごらん」と言っていることを知らせた。「敵の罪の赦しを願ってごらん」とも説教者は言い直すばかりか、十字架のイエスの言葉を、説教者はこの路線で翻訳する。
傷だらけの掌を見せながら、イエスは私たちにいま囁くのだ。「選び直してごらん」と招くのだ。この復活のイエスは、私たちは今日も訪ね求めて近寄ってくる。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)
「聖書の中の聖書」「小聖書」などとも称される、ヨハネ伝の福音の極みが掲げられた。独り子を与えた、というその「与えた」は、ニュアンスとしては「与え尽くした」のように受け取りたい、と説教者は語った。それは、「神の手を空っぽにした」ということだ、とも言った。このような、さりげない言い換え、しかも難解な言葉を使わず日常の言葉で置き換えることは、なかなか真似のできないことである。福音とはそういうものであるに違いない。また、福音書の中で、きっとイエスも、そうした角度から語っていたのだろう、と私は強く思う。
「キャンドルサービス」とも言うことがある、この「クリスマスイブ礼拝」。暗闇に輝く灯が、この世界の片隅でひっそりと生まれたイエスを象徴するに相応しい。それはこの夜に、ゆらめきながら灯る蝋燭が似合う。神はくすぶる灯心を消すことがないのだから、この光は命を以て燃えている。それは愛の炎である。説教者は、この愛の炎を戴いて帰りましょう、と呼びかける。小さな炎を持ち帰ること、それは闇を照らすには十分に明るい光であるのだ、と慰める。
命を選べ。祝福を選べ。あなたは選ぶことができるのだから。いまここからまた、私たちは愛を選び採り、愛に生きてみましょう、という温かな言葉が響く。誰をも非難せず、誰をも慰める言葉が、宵に佇む教会の会堂に拡がってゆく。特別な夜、聖夜は、ここに新しい命を授けるのであった。