車内アナウンス
2026年1月1日

電車内でのアナウンスがある。最近、モバイルバッテリーの発火の危険性について促すフレーズが新しく聞かれるようになった。ただ、それを初めて聞いたとき、「おや」と思った。よく聞こうと思ったが、走行音が激しくなり、よく聞き取れなかったのである。
ちょっと待てよ。いまのアナウンス、音量が小さくなかったか。そうなのである。走行音でかき消されてしまったその声、その後の様子からして、やはりふだんよりボリュームが小さかったことは明らかだった。あまりないことである。音量設定のミスであるように思われた。
だが、そもそも車内アナウンスたるもの、大抵はお決まりの言葉である。毎日乗っていれば、毎日同じ文句を、駅を出る度にと言っていいほどに繰り返される。私も本を読んでいても妨げられることはない。耳に聞こえてはいても、脳的にはスルーしているのが通例である。
ふと考える。誰か、このモバイルバッテリーの新しいアナウンスを聞いていただろうか。もうずっと前から、電車内ではその殆どの人が、スマホを操作している。お喋りに興じている人もいる。私は、何か大切な情報があるかもしれない、との意識で、少しくらいは気にするようにしているけれども、世間の人々は、それさえあるのかどうか、分からない。
うるさい、とすら思わないだろう。他人のお喋りはうるさいと思う私も、アナウンスはそうは感じない。うるさく感じる感情をも基準にすると、そうした声はシャットアウトしているのであろう。
確かに、大事なことを正しく通知しているのだ。本当は、聞くべきである。危険なことはめったにないかもしれないが、ダイヤの遅れや、事故とかトラブルとかの情報は、時に聞く。そのため聴覚障害者にとっては、そうした情報から排除されているという問題点があることは、もっと知られてなければならないし、対処も必要だろうと思う。
車内アナウンスを頼りにする人は、きっといるだろう。初めてその路線に乗ったら、しっかり聞くものである。ただ、多くの人にとっては、それは無きに等しいもの、というのが実情であろうことも確かだ。
福音書によると、洗礼者ヨハネがイエスに先立って、「悔い改めよ」と叫んでいた。それを聞く者がいた。自分の罪を見つめ、ヨハネに洗礼を受けるために集まってきた。だが、すべての人が来たわけではない。
現代の教会も、社会に訴える。否、教会的に言うならば、伝道する。伝道などと言うと、教会に招き入れるための方策のように聞こえる可能性もあるだろうが、そういう抵抗感があるならば、福音を知らせる、とでもすればよいだろうか。とにかく、聖書のメッセージを世に知らせることは、教会や信徒の義務というか、使命であるだろう。
それを世間は、どのようなふうに聞いているだろう。「教会? 確かにいいこと言っているかもしれないね。ああ、また言っているよ。同じこと。神? 救い? はいはい、分かりました。そりゃ、ご自由にどうぞ。あんたは頑張りなよ。別にこちらには関係ないし。」
とはいえ、そういうふうに思うことすらなく、ただひたすらスルーしているだけなのかもしれない、とも思う。しかし、本当に、聞こえていなくてよいだろうか。キリスト者の側からすると。
無理に聞かせようとするのがよい、などとは思わない。確かに、それくらいのつもりで福音を語らなければならないのかもしれないが、強要するようなふうでありたくないのも本当であろう。ただ、アナウンスのボリュームを下げてはならない、とは思うのである。