(エレミヤ7:1-15, ペトロ一4:12-19)
主の神殿の門に立ち、この言葉を叫べ。
主を礼拝するためにこれらの門に入る
すべてのユダの人々よ、主の言葉を聞け。(エレミヤ7:2)
◆大掃除
2025年も暮れゆこうとしています。年末は何かと慌ただしいものです。強迫観念に駆られたように、とんでもなく値が上がったかまぼこや魚介類を買い求め、今年は餅まで高嶺の花になるような世相。その中で、教会は淡々と、主の日である日曜日に、礼拝を続けます。その年最後の礼拝を、「歳晩礼拝」と呼ぶ教会もあります。風情のある言葉です。
教会でもしばしば、この時期に大掃除を行います。クリスマスのお祭りで散らかったというせいもありますが、日本の風土と習慣に基づくような気もします。大きな寺でのダイナミックな煤払いの様子がニュースで流れるのと重なります。
年の瀬の大掃除。それは何のためでしょう。気持ちよく正月を迎えるため、という建前で、教会でも当然のことのように受け取られていますが、それは元来、「歳神」を迎えるための準備であったはずです。
「歳神」というものが何者であるのか、それは研究家にお任せします。何かしら新年に幸福をもたらす存在を想定しているのでしょう。迎える準備としての煤払いは、だから神聖なものであることでしょう。汚れを祓い、清い場を設けることが目的ではないでしょうか。
昔の日本では、正月が来ることで、人は歳をとりました。しかも、産まれたときに「1」を数え、正月が来ると加算されて「2」になりますから、年末に産まれた子は、数日で2歳になる計算になります。そのため、年末に産まれても、届は年が明けてからなされる、ということが一般的でした。私の身近にもそういう事例があります。
教会が年末に大掃除をすることを、なにも咎めているのではありません。ただ、世間から見れば、「キリスト教会も、歳神を迎えているつもりなんだなー」という目で見ている人が、いないとも限らない、とは思います。
◆1月1日
とにかく、間もなく新しい一年が始まります。2025年を振り返ることが、マスコミで行われるのが通例となっています。「今年の十大ニュース」と数えるのは、なんだか「十戒」と比べて笑ってしまいます。「今年の漢字」は12月12日に発表されましたし、「流行語大賞」は早くも12月1日に発表されました。1か月を残してその年をまとめて決めてしまうというのは、終末の先取りであるかのようで、これもちょっと笑ってしまいます。
私は毎年、日々の記録として、手帳のダイアリーを新調しています。2025年のものも殆ど終わりにきました。以前は、新潮文庫の「マイ・ブック」を使っていましたが、少し生活にゆとりができた頃から、ここのところ少々値が張る手帳を愛用しています。「マイ・ブック」と同様、1日1頁の中に、食べたものから読んだ本などをもれなく記載しています。もちろん注文したり到着したりした本の記録もしますし、見たアニメも忘れません。
振り返るのもあっという間で、たちまち大晦日、それから年が明けます。「新年あけましておめでとうございます」の声が、果たして教会で相応しいのかどうか、考慮する人もいます。それもまた、歳神のような異教の習慣に由来するのではないか、と。実際エホバの証人は、クリスマスもですが、新年の挨拶も、聖書にはない異教のものだとして、しなかったと思います。聖書に徹底しているという点では、敬意を払うべきかもしれません。
七五三も、同じ時季に「児童祝福式」にするなど、教会は、旧来の習慣を捨てずに、何かと理由をつけて残すことが多いのですが、この「新年」もまた、うまく説明していることがあります。そもそも聖書の中にあるユダヤ人の新年は、「新年」という語では表現しないのかもしれませんが、第七の月を以て、新たな時の始まりだとするようです。それはどうやら、収穫や天文学的な根拠に基づくものではなさそうです。信仰的なひとつの開始を意味するため、キリスト教会でも、新年を、リフレッシュする機会として利用しているように見えます。
この1月1日という日付けは、何に基づいているのでしょう。専門家はよくご存じなのでしょうが、おおまかに捉えると、ローマ帝国の歴史に由来するようです。
現行の太陽暦自体、ローマ帝国の決定に基づいており、月により日数が異なるのも、ローマ皇帝の気紛れのようなところからきていると言われています。こうした逸話は、子どもたちにも、授業時間に余裕があれば触れるようにします。大人の人も、関心を以て聞いてくれるのではないでしょうか。
いま詳しくお話しするゆとりはありませんが、ローマ帝国での一年の始まりは、元々いまの3月にあたりました。不思議に聞こえるでしょうか。でも私たちいまの日本と、発想は同じです。日本では「年度初め」は4月ですし、児童の学年も、4月生まれからとなります。尤も、法令上、前日の深夜零時に歳をとる仕組みのため、4月1日が誕生日の子は、その3月生まれの子と同じ学年にカウントすることになっています。
ローマ帝国では、いまの1月と2月は、寒くて仕事にならないため、当初月の名前すらなかったと言われています。それが政治的な理由で、1月に職務任命式があるとかなんとかで、1月を一年の初めとするようにシフトしたのだそうです。
つまり、凡そ冬至の頃が一年の始まりになる、ということです。最も夜が長いところから新たな気持ちで始まるとなると、ここからは日が延びる一方で、希望が抱けると捉えたかもしれません。このことは、キリスト教会もそれに則り、イエスの誕生の時は聖書からは分からないにせよ、冬至の頃が象徴的に相応しいのではないか、と考え、いまのクリスマスにつながる聖誕祭を決めたと言われています。
4世紀にキリスト教はローマ帝国に公認され、やがて国教にまでなります。帝国の勢力はどんどん衰えてゆくのですが、とにかくキリスト教は政治と結びついてゆくようになります。冬至の祭りは、古い異教の祭りであったともいい、それを清めてキリストのために用いるのだ、というような意気込みを感じます。結局冬至そのものはクリスマスにもならず、一年の初めにもなりませんでしたが、8日目にイエスが割礼を受けたというその辺りが、1月1日であった、という説明がなされることがあります。しかし、一年の最初の日の設定は、なにかと曖昧であるように見えます。
◆旧年の恵みを数える
他方、日本の歳神にまつわる正月の日取りはというと、これもちゃんとした専門家の説明を待つべきですが、旧暦、つまり太陰暦に基づくものであったことは間違いないでしょう。月の動きに伴いつつも、立春を一年の初めとして数え、一年間をも24に分ける「二十四節気」は、太陽の動きに基づいて定められています。これは、農作業の上では優れた区切りでした。四季を刻む為には、やはり太陽暦とでも言うべきものの考え方の方が合っていました。
この辺りの事情も、子どもたちに、理科で地球の公転について話すときや、古文での暦や季語といった話になると、幾らか説明を施すことがあります。しかしいまは授業ではありませんから、このくらいで引き上げることにします。
結局のところ、一年の始まりがいまの1月1日でなければならない、必然的な理由はないように思われます。つまり、天体の運行をも根拠にしてこの日が一年の初めだ、と決める理由とはなっていないわけで、極めて人為的な、一部の帝国とキリスト教会の都合で、いわば偶然的に定められたものであるように感じられます。
クリスマスについてさえ、偶然的に決められた日だと言えます。聖書の中にもちろん根拠はありませんし、天文学的な理由があるわけでもありません。
しかし、ともかく1月1日が決められています。世界の多くの国が、この日付けで動いています。一部、太陰暦に基づく行事や生活習慣を残している国もありますが、ビジネスでは共通の尺度がどうしても必要になります。
新しい年が始まる。私たちは、そこに希望を見出したいと願います。これまでの一年間が悪かった、とまでは言わなくとも、過ぎた日々の中には、労苦や災いがどうしても記憶に残ります。一年の終わりの主日礼拝に際しても、一年を振り返る機会として用いたい、という気持ちは十分分かります。
歳晩礼拝。できれば、一年の不幸を嘆くよりも、神の「恵み」を数える時でありたい気がします。
私の魂よ、主をたたえよ。/そのすべての計らいを忘れるな。(詩編103:2)
賛美歌にも、「数えてみよ主の恵み」と歌うものがありますね。1年のうちには、いろいろなことがありましたが、感謝でした。神は変わることなく、すべてを最善に導いてくださいます――そんな会話がにこにこと取り交わされる教会は、やはりこの世の中で光であるだろうと思います。寒い時季に、暖かなものを醸し出すことでしょう。
さて、暖かな気分をぶち壊すような聖書箇所を、今日はお開きしました。気分を害される方がいるかもしれません。エレミヤ書の中でも、かなり辛辣な預言を取り上げてしまいました。顰蹙を買うことは覚悟で、ここから聞いたことをお伝えしようと思います。
◆エルサレム神殿の最後
2:主の神殿の門に立ち、この言葉を叫べ。主を礼拝するためにこれらの門に入るすべてのユダの人々よ、主の言葉を聞け。
エレミヤ書7章からお読みしました。エレミヤ書は預言書の中でもユニークなもので、エレミヤの言葉を載せたことはもちろんですが、預言者の人生を大河ドラマのように描いている点で、他の預言書とは一線を画します。どこか、福音書のような雰囲気を伝えてきます。しかしながら、時間順はばらばらに編集されており、出来事を時間系列に並べると、あちこち行ったり来たり読まねばなりません。何らかのガイドに沿って読むことをお薦めします。
エレミヤは、ユダの都エルサレム神殿の末期を生きています。そして、神殿が滅びるのを目の当たりにしています。いまにもそういう時が来る、ということを住民に叫びますが、なかなか聞いてもらえません。そのために、うるさい蠅だと言わんばかりに、虐げられ、命を狙われるようなことにもなります。
そのエレミヤが、いま神殿の入口で叫んでいます。民への警告を発しています。
3:イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたがたの道と行いを改めよ。そうすれば、私はあなたがたをこの場所に住まわせる。
「道と行いを改めよ」という言葉を聞くと、後に洗礼者ヨハネが「悔い改めよ」と吠えていたことと重なるような気がします。エレミヤはここで、何によりどのように悔い改めよ、と言っているのでしょうか。
4:あなたがたは、「これは主の神殿、主の神殿、主の神殿だ」という偽りの言葉を信頼してはならない。
エレミヤは、ユダの預言者です。祭司の家系に属していたといいます。政治の事情も知悉していました。対外的にどの国に近づくか。現に政権が執ろうとしていた政策の危うさを理解していました。当時は祭政一致の制度です。政教分離のような考え方はありません。エレミヤは、宗教的な立場にいるにしても、政治の危険性には警告を発します。
つまりエレミヤは、精神的な心構えだとか、倫理的な正しさたとかについて言っているのではないのです。ですから、「これは主の神殿、主の神殿、主の神殿だ」と言っているのは、信仰の問題だけではなくて、ユダの運命にも関わってくるものとして意識されているはずです。が、それにしても、この言い方はくどすぎます。三度も繰り返して言うようなことでしょうか。イザヤ書では、「セラフィム」なるものが、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」(6:3)と互いに呼び交わして言っている例がありますが、人への呼びかけも二度が普通で、三度というの思い出せません。
5:あなたがたが本当にあなたがたの道と行いを改め、本当に互いの間に公正を行うなら、
6:この場所で、寄留者、孤児、寡婦を虐げず、罪なき人の血を流さず、他の神々に従って自ら災いを招かないならば、
7:私はあなたがたをこの場所に、あなたがたの先祖に与えた地に、いにしえからとこしえまで住まわせる。
「本当に……公正を行うなら」とは厳しい言葉です。できていないからです。ここで「公正」の語が出てくるのは、恐らくそれが政治的なものであることを示しています。現代の風景からすれば、福祉政策ができていない、というような様子を表しているように思われます。
「あなたがたをこの場所に……住まわせる」というのはうれしいことですが、公正を実現し、他の神々を拝まなければ、という条件の下で言われているので、喜んではいられません。要するにエレミヤは、結局この土地に住み続けることはできない、と断じているのです。
エレミヤは、かつての勇壮なエルサレム神殿が建っているのを見た、最後の預言者だと言えます。そしてまた、その破壊を見た、最初の預言者かもしれません。時代の断絶を間にあたりにしましたし、そのことを予め警告していました。それは、ユダの信仰もですが、「公正」というからには、ユダの政治が悪かったからです。外交政策にも、失敗した、ということです。
◆神殿を誇るということは
でも、失敗は誰にでもあります。確かに政治家は、失敗をすれば国に取り返しのつかない害悪を及ぼすという意味で、責任が重大ですが、それを選び委託したのが民主主義の世の中であれば、主権は国民にあるのですから、人々も共に責任を負うことになります。現代の私たちは、政治家が悪い、と気軽に口にして、自分たちが正しいと思い込むようにする傾向がありますが、その政治を選んだ主権者が自分であるということを踏まえていないとなると、これは民主主義のもたらす救いようのない悪となりかねません。
エレミヤも、それと少し似た角度から事態を見ているように感じられます。
8:しかしあなたがたは、無益な偽りの言葉に頼っている。
9:盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、あなたがたが知らなかった他の神々に従っているではないか。
為政者だけが問題ではないのです。庶民も全部、右へ倣えで、神の望むことと違う方向に走っているのです。そして、さらに具合の悪いことが指摘されます。私が見るに、本当はこの次のことが、最大の問題点であるように思えます。
10:それなのにあなたがたはやって来て、私の名が呼ばれるこの神殿で私の前に立ち、「我々は救われた」と言って、これらのあらゆる忌むべきことを行おうとする。
11:私の名が呼ばれるこの神殿は、あなたがたの目には盗賊たちの巣窟となったのか。私にはそう見える――主の仰せ。
おめでたい人々だというように見えますか。私は、実におぞましいものを感じます。身が震えるのを覚えます。いま私たちは、教会に集っています。キリストの名を掲げる教会です。主の名で呼ばれる神殿です。ここで私たちは、主の御前に立っています。そして賛美したり、祈ったりします。「我々は救われた」と言っています。
それでいて、あの「忌むべきこと」を、していない、と断言できるのでしょうか。盗んでいないのでしょうか。弱い人、生活素材に恵まれない人の目の前で、贅沢三昧をしていないでしょうか。人の時間を奪って、にこにこ呑気に笑っているようなことはない、と言えるのでしょうか。それは誰かを殺していることになるとは思いませんか。別の神のことを頭に浮かべる姦淫とは無縁でしょうか。金を拝んでいないと言えるのでしょうか。もしや、本当に文字通りの姦淫をしている者がいたら、以ての外ですが、思い当たることがありはしないでしょうか。偽って誓っているようなことはないのでしょうか。嘘をついてなどいない、と。
そうして、初めの部分に戻って来ます。
4:あなたがたは、「これは主の神殿、主の神殿、主の神殿だ」という偽りの言葉を信頼してはならない。
さあ、もう一度概観してみましょう。エレミヤは何を言っていたでしょう。エレミヤを通じて人々に渡された通告は、実に厳しいものでした。人々は、エルサレムとその神殿を誇っています。伝統ある神殿です。過去のイスラエルの栄光が現れています。「これは主の神殿、主の神殿、主の神殿だ」と喜び、誇らしげに出入りいています。しかし、それはエレミヤからすれば偽りです。人々の精神は、少しも神と結びついていません。「無益な偽りの言葉に頼っている」に過ぎません。
ユダの人々は何をしていたでしょうか。エレミヤの断罪が始まります。寄留者や孤児、寡婦を虐げているではありませんか。罪なき人の血を流し、他の神々に従っています。いえ、それはつまりは自分自身に従っている、ということです。他の神々などはなく、それを求めることで結局のところ、自分の考えを祀り上げていることになるからです。
当時の言葉でそれを表すと、「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき」「他の神々に従っている」ということになります。
◆エレミヤとイエス
エレミヤは、預言者としても独特であることを、予めお伝えしました。他の預言者では、イスラエルの政治が公正でなかった、というところまでは当然指摘します。神に従う政治ではないが故です。だから、この後神に裁かれることになる、と預言をしました。しかし、単に公正でなかった、というところで批判を終わりにしなかったところが、このエレミヤの凄さだと思います。神の裁きがくる、というだけの批判ではない、鋭さと厳しさを感じます。
自分で気づかない罪です。自分は正しい、という前提から一歩も離れない罪です。そして自分を誇る罪です。確かに、やっていることは悪いことでしたが、それだけなら、まだましだったのです。「我々は救われた」とこの神殿へ来て、信仰者面をしています。これこそ、偽善です。自分で自分を義とし、神に従っているという体裁をつくっています。それは、もう救いようのない有様なのです。単に金を盗んだ、という程度のことではありません。信仰を盗み、偽りのものに換えてしまっているのです。
エレミヤは、そうした偽善について「盗賊たちの巣窟となったのか」とぶつけました。鋭い指摘です。これは、イエスが共観福音書すべての中で吠えていた言葉です。商売人たちを相手に、神殿で大立ち回りを演じたときに放った言葉です。エレミヤの批判は、イエスの言動にも引き継がれていました。いえ、イエスに於いて、旧約の預言が、正に実現したということの、ひとつの姿がここにありました。
山上の説教で、イエスはしきりに「偽善者」という言い方で、おもに律法学者やファリサイ派の人々に批判の矛先を向けていました。人間的な尺度で、自らを義とする見せかけの偽善をそこで暴きました。
しかし、救いは主にあったはずです。イエスの名は、神が救うことを示していたのです。「主」と神の名を呼ぶのは、神が「主人」であるからではなかったでしょうか。見せかけの恰好で、救いが提供されるようなことはありません。いくら取り繕っても、神から注がれる命のない言葉は、たとえ「説教」というプログラムで語られていても、なんの力もありません。説教を語る者が、エレミヤの批判に晒されるような生き方をしていたら、そこにあるのは偽善の塊でしかないのです。
◆神殿の門で
旧約聖書に、シロという町が登場します。エピソードを出せばきりがないのですが、エルサレムがイスラエルの中心になる以前には、シロがイスラエルの中心の役割を担っていたとされています。そこには、契約の箱が置かれていることもありました。イスラエルの民とイスラエルの神が、契約を交わしたこともありました。
旧約聖書では、民が神に従うと宣言しながらも、なかなか従えない様子が記されていました。いえ、神に背き、他の神々についてゆくような有様でした。あまりよい喩えではありませんが、江戸ないし東京が日本の首都のようになったとき、京都に都があったことを懐かしむようなふうに想像してみましょう。京都の時代に、日本の伝統を捨てた歴史を教訓として、東京の時代に反省すればよかったのです。しかし、東京の時代にも同じように、捨てていたのです。しかも、過去の京都の時代はだらしなかったなあ、などと思いつつも、自分たちが同じことをしているというふうには、東京時代の者が自分を捉えることができていないのでした。
妙な設定になったので、訳が分からなくなったかもしれませんね。過去のイスラエルの民の背信の歴史は、エレミヤの時代には教訓になっていなかったのです。エレミヤは、それを咎めます。そして、もうこんな神殿は要らない、と叫ぶのです。主から言われたのです。「主の神殿の門に立ち、この言葉を叫べ」と。
こうして私たちは、昔話を眺めています。いえ、本当にそれは昔話なのでしょうか。私たちが自由に操り、外から鑑賞できる、そんな昔話がここにあるだけなのでしょうか。
「これは主の神殿、主の神殿、主の神殿だ」、いまそのように連呼しているのは誰なのでしょうか。クリスチャンが、教会を誇ります。教会は世の全ての上に立ち、優位にあり、正しい存在だと見なしていることがないでしょうか。教会は正義。教会は真理。世の考えは間違っていて、教会が正しい。悪い政治が世にはびこっているから、政治を非難することで、教会の正しさを自己義認することさえできる。
さらに、救われていないノンクリスチャンに、福音を与えなければならない使命がある。
「これは主の神殿、主の神殿、主の神殿だ」、いま我々は教会に来ているぞ。我々は神を礼拝している。天地万物を創造した神をこうやって礼拝しているのだから、我々は正しい、神に救われているんだぞ。あなたたちとは違うんだ。さあ、この教会は神の国だ。「これは主の神殿、主の神殿、主の神殿だ」。……
お気づきでしょう。イエスが厳しく強く敵視した、律法学者やファリサイ派の人々の有様です。彼らも元々は誠実な、神の言葉に従う信仰者だったのです。立派な行いを実行していたのです。
でもそこに、愛はありませんでした。神を、でなく自分を誇るようになっていました。――新約聖書のペトロの手紙一を開きます。自らを省みる機会をそこから受け取ろうと思います。一年の終わりに、感謝を数え上げることも大切ですが、これもまた、必要なことだと信じて止まないのです。私たちが、新たな年の希望を受ける前に、踏まえておかなければならない大切な一歩を踏みしめておきたいのです。
16:しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じてはなりません。かえって、この名によって神を崇めなさい。
17:なぜなら、裁きが神の家から始まる時が来たからです。私たちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、どうなるでしょうか。
キリストに信仰告白をしているからと言って、教会も、キリスト者も、神の裁きに対して免罪符をもっているのだと思い込んでいるとすれば、信仰は歪んでいきます。
神殿の門に於いてではなく、いまキリストの教会にて、「この言葉を叫べ」。そう叫ぶエレミヤは、いまもここにいるのです。