天使が歌う教会

2025年12月23日

クリスマス礼拝に仕事で出られないというのは、辛いことだ。だが、思えばふだんから、日曜日に勤務に就いている人のお陰で、私たちの日曜礼拝が守られている、とも言える。幸い、動画でその礼拝の説教だけは受け止めることができる。日曜日に配信されるとよかったのだが、火曜日の夜にそれが届いて、なんとか、明日からの多忙を前に、礼拝説教を受けることができた。
 
説教は、天使の姿を描くところから始まった。クリスマスは天使が活躍するときだ、と。開かれたのは、ルカ伝2章である。
 
すると、主の天使が現れ、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。(ルカ2:9)
 
ここには、「見よ」というギリシア語があるが、邦訳聖書はしばしばそれを抜いて訳す。しかし、この「見よ」には、私たちへの重要な呼びかけがある。説教者は、「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(2:11)の言葉の中にも、「今日」がいまこの聖書を見聞きする私たちの「今日」となり、「あなたがたのために」が正にこの私たちのためであるように、ドキリとするような誘いかけがあるのだ。
 
これは、クリスマスの物語である。だが、物語は作り話という意味と同一ではない。また、説明することでもない。知識の説明は一度きりでよい。説明は頭に届くが、物語は心に届く。説教者はそのように語った。物語は、毎年繰り返し聴くことができる。聴く者を、その物語の中に「巻き込む」のである。
 
最近の説教者の説教にもよく、「うたう」という場面が出てくる。というより、説教の後に、ここからうたって歩き出しましょう、というような導きを与えるのだ。今日の羊飼いたちに天使が現れる場面では、壮大な歌が天に鳴り響く。
 
その内容は、救い主が生まれた、というニュースだった。神の子が肉体をもって生まれた、ということについて、説教者は詳しく語る。それは肉体をもった人間として死んでゆくことをも含意する、というのだ。
 
しかしそれはまた、すべての人を「巻き込む」大きな喜びでもある。十字架での壮絶な死は、悲しいものであり、聴くだけでも辛いものである。だが、喜びに「巻き込む」ためにも、神はそれを特別な出来事として、図ったのである。
 
「いと高き所には栄光、神にあれ/地には平和、御心に適う人にあれ。」(2:14)
 
さて、「栄光」とは何だろう。日本語だとどうしても、光輝く姿をイメージする。それはそれでよいかもしれない。ただ、イエスの栄光とは何であったのか。特にヨハネ伝に明らかにされていることだが、それは十字架上で死ぬことであった。説教者はときに「傷だらけの栄光」などともそれを呼び、泥まみれであり、血まみれである、というイメージを掲げた。ある人がこれを、「ほろ雑巾のようにされて」と比したのが忘れられない。
 
「地には平和」と簡単に言うことなかれ。当時の人はこの「平和」をどのように捉えただろう。「ローマの平和」という時代が、広大なローマ帝国内を安泰にさせていた、などと歴史は語るが、それは、弱いものを踏みつけにした上で成り立つものだった。しかし、イエスの平和は違う。最も弱いもの、最も小さいものから始まる平和なのだ。
 
そして「御心に適う人」という言葉が、痛烈であった。教会に通っている自分がそれだ、などと勘違いしてはならないのだ。少なくともその御心に適う人というのは、教会の内にいる者たちのことだろう、と誤ってきた。説教者はそこに力を入れる。
 
私は驚いた。私は次の歳晩礼拝のために、すでに原稿を書いているのだが、そこで正にそのことをテーマとしていたのだ。さらに、先の「今日……、あなたがたのために」という点については、正に今日23日に公表した、デボーションの中でそのことを明らかにしていた。聖書箇所も、ルカ伝2:1-20からであり、途中だけを抜くと少し分かりにくいが、次のようなことを記していた。
 
【主の天使が、これ(イエスが救い主であること)を啓きました。この話を「聞いた者」が、マリアとヨセフの他に複数いることを、私たちは殆ど忘れています。「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」と言いますが、誰が聞いたのでしょう。羊飼いたちから、幼子について天使たちから知らされたことを聞いた者です。いまや読者しかいません。私たちが登場していたのです。】
 
だから、霊的なつながりを、複数の場面で覚えたため、2日遅れで礼拝説教を聴いたことも、なんら気後れするようなこともなく、心震えるようなままに動画に浸ることができた。まことにありがたいことである。
 
説教者はしかし、十字架の栄光についてもう少し深めて話を続けた。十字架の栄光は、深い悲しみを担っていること。そこに力を露わにする「愛」にこそ気づくべきであって、その「愛」の中にいるとき、私たちは再び歩み直すことができるのだ、と強く語る。繰り返し語る。
 
そして「御心に適う人にあれ」のところを、たとえばこのように訳す試みがある、とも言う。「よき心の持ち主にあれ」と。この「心」が神的なものであるのか、人間的なことと決めてよいのか、そこには議論があるそうだが、少なくとも神の愛に人が触れたとき、人は初めて「よき心の持ち主」となれるに違いない、と告げる。
 
神の愛に触れるというときは、えてして、自分が小さくされたときである。低いところに置かれたとき、悲しみが深いとき、孤独なとき、老いに、病に悩むとき、辛い立場にいるときであり、とても歌をうたえないときであろう。だが、説教者は目を天に向けさせる。天使が、うたっていたではないか。否、いまもなお、うたっているではないか。
 
こうして、説教の初めの、天使の情景に私たちは再び戻ってくる。「主の天使が現れ」た、というのは、実は一人であることが分かるという。また、その現れ方ときたら、遠くから見えるというものではなくて、実にすぐ傍で、可能なら触れることができるほどに近いところで、現れたことが推測される言葉なのだという。襲いかかるほどの勢いで、手の届くところに、立ち現れるような意味であるのだ。だから、いま私がうたえないほどに辛い中にあったとしても、天使は、ぽんと肩を叩いて、歌はこうやってうたうんだ、と励ましてくれるのだ、と告げるのだ。
 
また、この天使なる存在は、新約聖書の時代の後には、現れなくなっており、使徒言行録の中にかろうじて現れるくらいである。それまでは頻繁に現れていたのに、どうしたものか。説教者は、それに対する答えを有していた。私たちが天使になるのだ、と。別に、羽が生えるわけではない。天使とは「使い」である。使わされるのである。私たちは一人ひとりが、神から遣わされた存在であり得るとすると、私たちは互いに天使として相手に仕えることができるはずである。
 
さて、先ほどの「よき心の持ち主」であるが、それは、低いところにこそ目を向けるであろう。神殿や宮殿のような豪華なところに、その王は生まれ落ちなかった。光さえも届かないような、暗くて臭い家畜小屋だった。「よき心の持ち主」は、そこをこそ訪ねるのだ。
 
羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。イエスは、外で待っている。ベツレヘムは私たちの外にある。羊飼いたちはそこを目指して、イエスに出会うと、賛美しながら帰ってゆく。
 
教会は、そういうところである。あるいはまた、そういうところでありたいものである。説教者は、今日洗礼を受けた人をも含め、教会生活で一番大切にしてほしいことを願う。清く正しく美しく生活せよ、という建前ではない。第一そんなことはできない。ただ、願う。「教会に来てほしい」と。たとえ歌などうたえないほどに辛くても、人の笑顔が眩しくていたたまれないような苦しいときにも、教会の礼拝に来てほしい。己が罪に打ちひしがれていても、誰とも話すことがなくても、会堂の隅っこに隠れていても構わないから、教会に来てほしい。
 
それは、私たちへの慰めであると同時に、そのような教会でありたい、という説教者の切なる祈りであったのかもしれない。ここは、天使が歌う教会であってほしい、と。



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