(フィリピ4:4-7, イザヤ43:10-13) クリスマス礼拝
あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい。主は近いのです。(フィリピ4:5)
◆アドベントを振り返って
多くのキリスト教会が、このときを「クリスマス礼拝」として献げています。そもそも「クリスマス」という言葉そのものが「キリスト礼拝」という意味だとすると、私たちは毎週クリスマスを祝っているようなものですが、ともかくキリストがこの世界に来てくださったことを記念するのがクリスマスです。
そういう意味でのクリスマスは、冬至の時季に重ねることを伝統としています。もちろん、その謂われにはそれなりの言い伝えがあるのですが、私もどれがどのように本当であるのか判断がつかないので、皆さまそれぞれにお調べになって、「そうなのかしらね」と顔を見合わせるくらいにしておくのがよいかと思います。聖書に書いていないから祝わない、とするグループもありますが、私もそこまで堅いことは申しません。
モンゴメリの『赤毛のアン』のシリーズを見ていると、そこには20世紀初め頃のキリスト教会や、信仰のことがよく登場します。村岡花子の抄訳が有名ですが、近年松本侑子さんの訳が全訳を施し、しかも実に丁寧な注釈を加えていますので、お薦めです。私も松本侑子さんの訳で全部読みました。そこには、モンゴメリが、その長老派の古い教義でクリスマスを12月だと聖書に書かれていないことから禁止していたことに影響されていた様子も記されています。牧師夫人としての立場があったのでしょう。尤も、アンを描くにあたっては、妖精の話やケルトの伝説などを、かなり自由に組み入れていることが、その注釈から伝わってきますし、執筆時期にも影響があるようです。
私たちは、普通のクリスマスの暦に従って、ここまで歩んできました。3度の主の日を、イエスの到来を待つ、という心持ちで過ごしてきました。そしていよいよ今日、イエスが生まれたこと、この世界に最初に到来する出来事が実現した点に視線を集める礼拝を献げることになります。
そうです。「クリスマス」は「降誕祭」と日本語で宛てることがありますが、それを待つ「アドベント」の言葉には、「到来」の意味合いが強くこめられていました。イエスはかつて、この世に到来しました。そのことを覚えるのがクリスマスです。けれどもそれは、過去の出来事で終わるだけのものではありませんでした。
あの歴史の中のイエスは、確かに人ととしての人生を送り、教えを語り、癒やしをなし、奇蹟を示して神の子であることを証ししたものの、人間はイエスを死刑に処しました。十字架で酷い死に方をすることとなったのですが、神はイエスを葬って3日目の朝に蘇らせました。復活のイエスは、その姿を隠し、聖霊という形でいま私たちを支え、導いています。そして、いつとは知らされぬままに、やがて再び到来することを言い遺していました。到来を遠くに映し出す鏡をそこに置いたかのように、私たちはいままた、神の子の到来を待っている、というのが現在です。
◆マタイ伝とルカ伝(1)
しかし今日はさしあたり、二千年ほど前に起こった、最初の到来に、一度根を下ろすようにして、聖書の記事を思い起こしてみましょう。それは、福音書の中の、マタイ伝とルカ伝に物語として書かれてあります。イエスが生まれたそれらの記事は、残酷でもありますが、美しいものですし、ファンタジーのように感じられたかもしれません。
よく知られたものとして、いまは詳述はしないことをお許しください。母マリアが、ただの人間の子を産んだのではない、という筋書きは、マタイもルカも変わりません。マタイは、父ヨセフに焦点を当て、ヨセフの心理を追いかけます。ルカは、母マリアの行動を描きました。いずれにしても、異常事態でした。聖霊による妊娠です。この背景を知る者は、この両親のほかにはいませんでした。
二人の心情は、その置かれた情況と共に、深く苦しいドラマです。神の子の親という重責を担った二人の、信仰に基づく行動が、私たちには眩しく見えてなりません。
その出産とその後の場面には、マタイは、外国人の来訪のエピソードを載せました。マタイと呼ばれる著者は、バキバキのユダヤ主義のように受け取られていますが、この良い知らせの脇役は、外国人でした。マタイ伝はそういえば最後に、世の終わりまで福音を伝えて、すべての民を神の弟子にせよ、と命ずる終わり方をしていました。ユダヤ人だけが選ばれて救われる、などという考えはどこにもありませんでした。福音のスタートに外国人が登場するのは、そういう開かれたあり方を象徴するものだったのかもしれません。
そこへいくと、ルカ伝は、ユダヤ人ではない立場の著者によるものだ、と推測されています。ユダヤ教にどっぷり浸かって育った人ではない、ある意味で外国人の目で、このイエスによる救いが外国へ、広く及んでゆく様子を見つめながら執筆しているように感じられます。その発端を描いた使徒言行録は、ルカ伝と同じ著者であろう、というのが研究者の常識となっています。だとすると、なおさらそうでしょう。そこに登場するイエスは、ひたすらエルサレムをも見つめています。そしてそこで十字架刑に遭い、三日後に復活します。復活のイエスと出会った弟子たちは、50日目に、聖霊を受けるという大きな出来事に遭遇します。すると力を受けて、逞しい伝道者と変えられて、世界へ福音を届けに動き出します。さらにパウロという新たな弟子ができて、世界宣教のために計り知れない活躍をすることになります。
◆マタイ伝とルカ伝(2)
イエスが生まれたときの出来事をストーリーにしたのは、マタイとルカの二人だけです。出生の場面は、それなりに脚色されてのことだろう、とは考えられています。そのときマタイは、父ヨセフを主役にし、外国の博士たちの来訪を、その情景として描きました。そこでは、ヘロデ大王の残虐さが露わにされていました。大王は、ローマ帝国の傀儡ながらユダヤを牛耳る支配者です。新たなユダヤの王が産まれたと聞いたことで、地域の赤児を皆殺しにしたのですから、その凶悪さは一入です。しかしそれは、同時にユダヤの政治の行き詰まりを示したようにも見えました。ユダヤの祭司たちや、律法学者、ファリサイ派の人々をとことん悪者に描いたのも、マタイの特色です。イエスによる彼らとの対決と勝利は、キリスト教の悲願だったようにも見受けられます。
ルカは、母マリアを主役にしました。女性を描くのに長けた著者のようですが、ただマリアを登場させるだけでなく、その背後に、親類のエリサベトについてのエピソードも、実に詳しく描きました。エリサベトには、なかなか子どもが産まれませんでした。かの環境では、子どもが産めない女性は、人間としての役割を果たしていない者として扱われたのです。いえ、それはつい最近まで日本でもそうでしたし、いまでも一部では続いていることなのかもしれません。そのエリサベトが産むことになったのが、洗礼者ヨハネです。
洗礼者ヨハネについては、四福音書すべてが触れています。まるで、イエスを紹介するために、この有名人を出さねばならないとでもいうように、洗礼者ヨハネが重要な位置にありました。そのヨハネがエリサベトの胎内にいるとき、マリアはエリサベトと面会します。このとき、胎児ヨハネが動いたことに刺激されてか、マリアは有名な「賛歌」を口にします。
それからルカは、羊飼いのエピソードを記します。美しい天使の賛美を聞いて、羊飼いたちが、産まれたイエスを訪ねます。羊飼いという職業は、ユダヤでは差別を受けていたと言われています。しかし、ユダヤのエリートたちの祭儀を支えていたのは、間違いなく羊飼いたちでした。献げ物なしには、彼らが誇ることはできなかったはずです。ルカは、その羊飼いたちが、救い主の誕生を真っ先に喜んだのだ、と描いています。福音は、まず彼らの許にもたらされたとするのです。
昔のことですが、動物を扱う職業は、日本でも不当に差別されていたといいます。自分たちはその肉を食べ、その皮革を利用しているのに、その手間をかける人々を悪く扱うのです。どこでも似たような仕打ちをするものです。いまの私たちは、それと無関係でいると言えるでしょうか。ユダヤの羊飼いたちも、そういう不条理な社会の中にありました。律法を守れないということによるのでしょうか。羊飼いたちは安息日も、何もしないわけにはゆかないのです。
それほどに、律法は人々の行動も精神も、がんじがらめにしていたのでしょう。マタイは、律法をそういうものにしてしまったエリートたちを敵視していたように見えます。律法学者やファリサイ派の人々の、福音書での攻撃具合がそう感じさせます。ルカは、律法の束縛は分かっていましたが、その社会への怒りというよりは、人間の内に潜む「罪」に焦点を当てているようです。異邦人には、律法から罪へという捉え方が通じないかもしれないのです。
その罪からの救いは、人間が自分の思いつきや思想で得られるものではありません。ルカもそのことはよく分かっています。救いに導くのは、神です。しかも直接働くためには、神は「聖霊」という姿をとることになります。「罪」と「聖霊」という救いの要点を強調することで、外国人にもイエスの教えが受け容れやすくなるかもしれません。また、そういうストーリーには、神の使い、つまり天使が働く、という捉え方も、当時は常識であったのかもしれません。マタイ伝もルカ伝でも、いざ神のメッセージが届けられる場面では、天使の働きとして描かれることが多々あります。
◆十字架を見つめて
クリスマスのストーリーとして描かれる、福音書の場面を、端折るように振り返ってみました。子どもの誕生は、人間世界でも、無条件におめでたいものです。赤ちゃんの顔を見て微笑まない人はいない、とも言われます。しかし、何か不吉な運命を背負って生まれた赤ちゃんだと分かっていたとしたら、私たちは複雑な心情を抱くかもしれません。
産まれながらにして何か望ましくない性質を帯びた子を見たとき、親はどんな気持ちになることか、あいにく私には体験がないのですが、辛いものがおありだろうと想像することはできます。現実の悲しみは計り知れません。私たちは、ドラマや映画でも、その先その人がどういう悲惨な運命を辿るかが分かっているとき、切ない気持ちになります。歴史的人物を描いたときには、明らかにそれが分かりますし、「余命」なんとか、というようなタイトルだと、最初からそれを予告していることになります。
イエスの到来を、つまりイエスの誕生を、私たちはアドベントの間に待ち焦がれてきました。しかし、産まれておめでとう、で終わりはしないことを知っています。母マリアに対して、信仰篤いシメオンという人が、あなたは心を剣で刺し貫かれることになる、と預言したのも、その現れとなりました。いずれ、その息子は人々に嘲られ憎まれ、惨殺されるに至るのです。しかも母は、その姿を目の当たりにすることになります。
クリスマスは、祝祭らしい祝祭かもしれません。光が灯るし、音楽性も豊かです。街はイルミネーションに飾られ、「メリー・クリスマス」と、「楽しい」言葉が付せられます。復活祭も信仰的には喜ばしいに違いありませんが、どうしてもそこには十字架の死が伴います。死を踏まえた厳粛な雰囲気がそこにはあります。が、クリスマスだからといって、華やかなだけではないわけです。
ある牧師は、イエス誕生の飼い葉桶の場面の言葉に、十字架で頭を垂れるキリストの場面の言葉と同じものが使われていると言って、その繋がりを忘れてはいけない、と毎年必ずこの時季の礼拝説教で触れていました。
十字架の救いのためにこそ、イエスは人となってこの世に到来した。私たちは、信仰の魂で見る限り、そこから少しも離れてはならない、ということを、忘れないでいたいと願います。
◆生まれ落ちた瞬間に
その出生が悲劇を含んでいる。これは聖書とは関係がありませんが、ふと、「オイディプス王」の物語が頭を過りました。紀元前427年ごろの戯曲です。現代では、英語読みで「エディプス・コンプレックス」という名前で、親子関係の中に潜む心理を説明する語として知られています。
ソフォクレス作の戯曲の「オイディプス王」は、ざっくり言えば、この王が、先の王を殺害した者を探していたが、それが自分であることを知って自滅してゆく物語です。しかし、戯曲からすれば、過去のこととして、このオイディプスが王家に産まれたときに、不幸な神託があったことをただ告げます。この子は、将来父を殺し、母を妻とするであろう、と。その子は殺されるはずだったが、たんに捨てられるに留まります。その子はコリントス王に拾われ、育てられていたのです。そして、神託の通りに事が運ぶというわけです。
生まれながらにして、特殊な運命を宿し、そのままに生涯を送る。しかしそれは悲劇の人生でした。
もちろん、イエス誕生の物語が、オイディプス王の物語と関係がある、などと突飛なことを言うつもりはありません。しかし、福音書が書かれる400年以上前に有名だった物語が、ヘレニズム文化の風を受けて、どこかに流れていなかったとも限りません。人々の福音理解に、かすかに影響を与えなかったとも限らない、ということです。
それはともかく、生まれ落ちた瞬間に、運命が待っていることを知る者は、胸が苦しくなります。ルカ伝のシメオンはその一人だったのでしょう。母マリアに、この祝福された子のためにあなたは果てしなく苦しむことになることを告げています。
確認したかったのは、すでに先ほどお話ししたことです。私たちも、イエスが誕生したという出来事に注目するとき、十字架のことを思うのです。そうして、胸が苦しくなるのです。胸が刺されるような思いがするのです。
イエスが十字架に架けられる。ただそれを気の毒に思う、というようなものではありません。それは、人間の罪の故なのです。いえ、「人間の」などと口にして、私は自分をその蚊帳の外に置こうとさえしています。それこそが、最大の罪であるのです。自分は違う。自分は特別だ。自分はそのようなことはしていない。あの人、この人は確かに罪を犯した。だが自分は例外だ。自分が何かをしても、それは理由があってのことなのだ。私のせいではない。他人の責任だ。私は悪くない。私は正しい。――そんなふうに根っこのところで叫ぼうとしている、それが最大の罪であるのです。
それを自分の罪だと腹の底から知ったとき、絶望に陥ることでしょう。死にたくすらなることでしょう。けれども、そこからのみ、救いの出来事が始まることができるのだ……それが、福音なのです。それだからこそ、これは福音、つまり「良い知らせ」なのです。
◆喜べ(主は近い)
では、クリスマスは悲しみの中に浸るべきなのでしょうか。いえ、神は悲しむために救いを与えたのではないでしょう。パウロを通してしきりに「喜べ」とのメッセージを与えたのも、同じ神です。悲しみを経ない喜びは、ただの無責任な能天気かもしれませんが、必要な悲しみの向こうには、それを補って余りある喜びを、神は与えてくださることでしょう。
キリストが最初に世に来て、時は二千年を数えました。新約聖書は、キリストが再び世に来る、と約束しています。その「約」束こそが、新「約」聖書なのです。私たちは、二千年待たされている、という言い方は、失礼かもしれませんが、嘘ではありますまい。
切羽詰まったこの世の終わりを感じていたパウロからすれば、まだなのか、と呆れてしまうかもしれません。でも、そのパウロも、最初の頃のテサロニケ書から幾らか時が過ぎた中で、フィリピ書を記すときに、しきりに「喜べ」と繰り返していました。そのときパウロは、獄中にいたと考えられています。自分の命がいつ終わるかと覚悟している中で、「喜べ」と書き送ったのです。
主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい。主は近いのです。何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。(フィリピ4:4-7)
ただの強がりやポーズだけで、「喜べ」とは言えません。パウロは、ただ恐れを吹き飛ばすように、「喜べ」と告げているのではありません。いま触れられていましたね。「主は近い」というのです。神との交わりにより平安が与えられる。それも、「主は近い」からにほかなりません。
それは、何年何日というように、計る性格をもつ時間ではないかもしれません。「時間」としか呼ぶことができないものであるかもしれませんが、特に近代思想の中で常識となっているような、一方向に流れて計測できる、均等な時間なるものに囚われる必要のない、とそんな「時間」であるかもしれません。
フィリパ・ピアスの名作児童文学、『トムは真夜中の庭で』をお読みになった方からいらしたら、思い出されるかもしれません。1958年の作品ですが、時間軸のズレのようなものを織り込んだファンタジーです。物語のご紹介そのものはいま致しませんが、そのファンタジーの中で根幹にあるであろう表現が、私にはとても印象的でした。それは、「「時間」を「永遠」ととりかえた」という言葉です。
「永遠の命」という、聖書の中の鍵になる言葉は、私たちの常識とする「時間」を、神の視点で取り替えたものなのかもしれません。これについては、またどこかで詳しく考えてゆく機会が与えられることを願っています。
しかしともかく、私たちはいま「主は近い」との言葉を、時間の中で感じることを許して戴こうと思います。キリストが再び来る。その時間は決して遠くはない、そう見る気持ちが逸っているわけです。でも、それと共に、空間の中で「主は近い」と感じることも、いま求めてみたいと思います。そこに書かれた本来の言葉は、主が近くにおられることを意味していると理解できるからです。
神の声に耳を傾け、神の方に顔を向ける。それが祈りというものの根本です。どっちを向いてただ願いや期待を喋っているのか、分からないようなものは、祈りとは呼べないでしょう。エリヤが対決したバアルの預言者たちのように、自分の身体を傷つけて踊って叫んだところで、自分の腹や思いだけを神と見なしているところには、何の効果もないのです。
神の声、それはイエスから零れてきます。特に、十字架のイエスから注がれてくる言葉、そこには限りない救いの力があるでしょう。その言葉は、私たちの内に入ります。私たちの中で、言葉が力をもたらし、命となります。言葉としての神が、私たちの内に住んでくださいます。このとき、これ以上ないというほどに、空間的にも時間的にも、「主は近い」のです。
◆神は救い
イエスが近い。私たちがこうしてクリスマスを祝すときに、その真ん中に、イエスがいるでしょうか。キリスト者は、このイエスを神の子だと呼びます。イエスという名を付けるように福音書は、父ヨセフに、また母マリアに天使が命じたことを記録しています。「イエス」というのは「神は救い」というようなニュアンスをもった言葉であるといいます。
クリスマスは、神が救う物語の始まりです。その背景は、旧約聖書の世界に隠されていました。しかしそれは、新約聖書でイエスが誕生した後で、振り返るようにして描かれれば、映画としてはよい構成になるでしょう。神の物語は、いまイエスがこの世に到来したところから始まっていました。
その子イエスは、十字架の上で殺されますが、復活します。いつか再び来ることを約束して、天にその姿を隠しますが、聖霊という形で、神は私たちと共にいてくださいます。その意味でも主は近いのですが、時間的にも空間的にも、イエスは私たちの近くに来ていてくださいます。
そのことを、フィリピ書のパウロの言葉を受けて、喜びの中に受け容れましょう。しかしそれはまた、イザヤ書の力強い言葉が支えているようにも感じられます。
あなたがたは私の証人/私が選んだ私の僕である――主の仰せ。/あなたがたが私を知って、信じ/それが私であると悟るためである。/私より前に造られた神はなく/私より後にもない。
私、私が主である。/私のほかに救う者はいない。
私が告げ、救い、知らせた。/あなたがたの中に、ほかに神はいない。/あなたがたは私の証人――主の仰せ。/私が神である。
これから後も私が神である。/私の手から救い出せる者はない。/私が実行すれば、誰が元に戻せようか。(イザヤ43:10-13)
イエスという方の光の下で、旧約聖書の預言書を受け取るとき、それがどんなに力強く、現実の力となって響いてくるか、それを確かめることができるように思いませんか。その力を受けて、喜べという声を聞きながら、このクリスマスの恵みの中で、いま勇気を以て、ここから歩みだそうではありませんか。この神を、小暗いこの世界の中に、救いをもたらす確かな光だと指し示しながら、あるいはまた歌いながら、歩くのです。イエスに与えられた、豊かな、大きな心で以て。