よきクリスマス礼拝を

2025年12月20日

クリスマス礼拝は、25日直近の日曜日が一般的である。聖書そのものに基準がないため、エホバの証人は祝わないし、こんな習慣をもつキリスト教会を悪魔呼ばわりするという。プロテスタントは「聖書のみ」を合言葉にしてはいるものの、聖書に基づかないことをたくさん大切にしている。そもそも「聖書のみ」という規定が聖書にあるわけではないので、自己言及のパラドックスの中にすでにあることになるのかもしれない。
 
などと、理屈っぽいことから始めるから、初めから読者を拒んでいるように見えても仕方がない。この寒い時季であろうがなかろうが、キリストが世に来たということを、重大な事件と見、またとない良いニュースだと受け取ることは、新約聖書が間違いなく伝えようとしている中核であると言えるだろう。
 
クリスマスという名前のときを大きく扱うか否かに拘らず、イエス・キリストに出会った者は、神の前に一対一で向き合う。キリスト者というものは、そういう場に生きている。だからこそ、神との関係が成立しているとも言える。
 
それはうれしいことだ。この方に出会い、赦されたという体験は、世界の見方を正反対に換える。それまでの自分に死んだ、という経験は、正に方向転換であり、外していた的はここにある、という確信が与えられる。
 
他方、それは怖いことだ。自分の中に偽りを有していたら、それが見透かされていることも知っていることになるからだ。神を知らない生き方では、ひとは簡単に自己欺瞞ができる。自分をごまかすのだ。これでもいいのさ、と嘯くことも当たり前すぎて、省みることすらしない。人生そんなものさ、と悟ったような言い方によって、自分で自分を許しておく。
 
しかし、キリスト教についてそれなりの知識があって、なお自分を偽る、ということもあり得る。甚だしいのは、聖書から救いを語るのが職務である、牧師というような立場になったものの、心に偽りがある場合だ。その結果どうなるか、について、一人間の分際で私がとやかく言うことは控えるが、そうした当人自身が、実のところ苦しいのではないか、と想像している。
 
立場上、ひとの前でそれを告白することができない場合があるだろう。打ち明けることで、誰かを傷つけるということもあるからだ。たとえば、自分は罪や救いというものが分からないとする。知識の上での罪とか救いとかいうものは、聖書の言葉を繰り返せば説明できるというわけである。牧師の親の下に育てば、それくらいの知識は身につく。教会の牧師に最初はなるつもりはなかったが、仕事で行き場をなくすような目になったときに、そうだ牧師になればいい、と思い立ち、信仰的審査の緩い神学校に入り、知識だけは身に付けて卒業したら、親の七光りで牧師にすぐに迎えられたような人がいたとする。
 
そうすると職務上、信仰をもった人に洗礼を施すことにもなるわけだが、いざ自分が罪も救いも分かりません、などと告白すると、その手から洗礼を受けた人を傷つけるのではないか、ということである。一信徒として、いまひとつ救いというものが分からない、というのであれば、神は相応しい形で導いてくれることだろう。だが、救いとはこうこうです、と指し示す立場になっていたとしたら、それは紛れもなく偽り者である。そういう者を偽善者という。
 
事情はいろいろあるだろうが、偽っていた自分を悔い改めるには、必ずしも人の前でそれを打ち明ける必要はないと考える。常に神との一対一の関係の中での出来事だから、神の前で告白するなら、それについて周りがとやかく口出しをするものではないだろう。
 
クリスマスのメッセージに耳を傾ける。説教者が自らの罪を確かに知っており、そこから救われたということを知っているならば、その説教から、神の愛が滲み出てくるに違いない。どうか、聖書講演会が「礼拝」の名を騙るようなことがありませんように。



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