低くかつ高い光
2025年12月15日

クリスマスには、蝋燭が似合う。弱い火である。明かりとしては心許ない。だが、だいぶ昔には、夜の明かりとしては蝋燭はなくてはならないものだっただろう。行燈にすると、光が柔らかく拡散されて、部屋中を照らすように見える。
そもそも日が暮れると町は暗くなるから、ささやかな光でも、ずいぶん明るく感じたのではないだろうか。大河ドラマが先ほど最終回を迎えたが、吉原というところがずいぶん(いろいろな意味で)明るく描かれていたように感じた。
クリスマスの光は、闇に輝く光である。世が闇であるからそれだけなおさら、光の明るさが強く感じられる。たとえ蝋燭でも、闇の中ではたいそう明るいものとなるのだ。しかも、その蝋燭の炎は、風前の灯でなくとも、本当は実に弱い。私たちに灯された愛の炎も、実にささやかなものであるかもしれないにも拘らず、闇の世を明るく照らすことに役立つかもしれない。カトリック教会が長く放送しているラジオ番組「心のともしび」は、そういうテーマであったと思われる。
クリスマス礼拝を次週に控えての、アドベント第3週の礼拝説教を、説教者は「光」のイメージで包んだ。新約聖書からは、ルカ伝で、洗礼者ヨハネが産まれた場面が開かれた。口が利けなくなっていた父ザカリヤの「舌がほどけ、ものが言えるようになって神をほめたたえた」ときの預言がメインであった。それは「賛歌」と呼んでもよかっただろう。
そのザカリヤの賛歌は、神の「憐れみによって/高い所から曙の光が我らを訪れ/暗闇と死の陰に座している者たちを照らし/我らの足を平和の道に導く」(1:78-79)と結ばれる。これまでの闇の世が開ける。曙の光が射す。枕草子の冒頭の光景を日本人はイメージするが、山に囲まれた京とは違い、もっと乾いた世界、冷たい朝の中に射す光は、広大な空を朱く染めたのではないだろうか。
同じような預言が、旧約聖書にもある。
見よ、闇が地を覆い/密雲が諸国の民を包む。/しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。
国々はあなたの光に向かって歩み/王たちはあなたの曙の輝きに向かって歩む。(イザヤ60:2-3)
これらの光は、どこから射しているたろうか。「曙」はもちろん夜明けである。それはほのかに明るく(この言葉から「赤」という色の名が発生したと言われている)、空を染める。だが、説教者が指摘したように、曙の色づきは空の低いところである。しかしザカリヤの賛歌では「高い所から曙の光が」と言い、イザヤ書は「あなたの上には主が輝き出で」と言っていた。
これは恐らく、その光というのがひとつのメタファーであるからだろう。そして、主の光は、主が天よりもなお偉大で尊いが故に、上から、高いところから、という形容しか考えられなかったのであろう。ただ、それが如何に高くとも、御子イエスは、低いところから世を照らしたのであるに違いない、と私は思う。曙の光というイメージが、ぴったりくるのではないだろうか。
しかし、イエスが光として世に現れたにも拘わらず、イエスは人の罪により殺され、暗い黄泉に一旦降った。そこからの復活の姿は、そこから世を照らし始める第一の営みであったのかもしれず、それならやはりそれは「曙」であると言ってよく、なおかつ神の光であることから、高い所、上から照らしても、全くおかしくない、と私は考える。言葉に於いては矛盾すると見る人がいるかもしれないが、聖書の告げることは、もっと深く、広いものを伝えているはずなのである。
説教者は、「クリスマスは平和の光を喜ぶ日」だと宣した。私たちが、平和の光の中に立つ日だというのだ。私たちはそれを胸に刻みつつ、今日も礼拝に出る。神の前に出る。否、日曜日だけ礼拝するのだ、という心構えは基本的におかしい。私たちは常に神の前にいる。神は私たちと、常に共にいる。神との交わりが常態であるのだとすると、それを日曜日に限ることも、クリスマスに限定することもできないはずだ。
説教者はさりげなく問う。私たちは、神を忘れた上で礼拝を続けていないか。あからさまに問わないにしても、それは私に突きつけられた問いであった。ここに天使が立っている。そのことを信じているのか。そして、決定的な問いはこれであった。「心を変えようとして、集っているか」と。
また、ザカリヤは、しばらく言葉が通じなくなることがあった。自らの言葉を発することができない時間がしばらくあった。私たちは、ただ単に自分の言いたいことだけを言い放つようであってはならない。信仰が、それにブレーキをもかける。だが、そうなるとまた逆に、私たちは萎縮してしまう。自分は駄目だとしか思えず、何も言わない方がいい、などと思ってしまう。ところがそれは無責任にもつながる。何もしなければ、何かの責任を負うこともなくて済むからだ。
だが、口は沈黙していても、私たちは神の言葉を聞き続けなくてはならない。聴覚的にでなくてもよい。聖書を読み続けること、聖書から聞き続けることである。私の内から湧き出すものにのみ注目するのではない。自分の中にある自分の声に耳を傾けよ、というような合言葉がある。自分に正直に生きる、あるい自分を信じて生きる、というような自分へのエールが、ここ何十年かのトレンドであるように感じることがある。
だがそうではない。光は外からくる。山上の説教にあるように、私たちの目が明るいというのは、外からの光を体内に受けての故である。
ザカリヤの賛歌は、「イスラエルの神である主は/ほめたたえられますように」と始まる。「ほめたたえられますように」という一語の副詞から、それはスタートする。もちろん、私たち人間が神をほめたたえるのだ。だが説教者は、この語が、神が「祝福する」場面でも使われる動詞と重なることを指摘する。私たちの言葉で、私たちが神を「祝福する」とか、神が私たちを「ほめたたえる」とかいうように訳すことはさすがにできない。だが、それらは基本的に同一の営みである、ということは心に留めておいてよいと思うのだ。
というのも、その語の成り立ちは「良い」と「言う」をつないでできているからだ。立場を考慮して、「ほめたたえる」または「祝福する」のような言葉を使うが、それは「良く言う」というひとつに意味を統合できる語であったのだ。説教者の言い方で在れば、「良い言葉を返す」ということになるだろう。
神からの言葉は、良い言葉である。これを私たちは「祝福」と訳している。と神からの知らせは、良い知らせであり、それを私たちは「福音」と訳している。福音は、神が私たちを祝福している、というメッセージである。神はイスラエルの歴史の中で、民と契約を交わし、祝福を与えてきた。アブラハムとの遥か昔の契約について、決して忘れることがない。モーセでもヨシュアでも、あるいは後のエレミヤのときにも、神はその都度契約を交わし、神の約束を伝え続けてきた。それらの契約を、神は忘れることがない。説教者はそう力を入れて告げる。私たちが神に背を向け、時に神を忘れることがあったにしても、神は決して忘れない、というのである。
説教者自身はここから、「罪」とその「赦し」、「闇」と「光」、そして「平和」という言葉を重ねながらいろいろな景色を見せようとする。だが、そのように教義的に幅広いフィールドを扱えば、焦点が曖昧になり、イメージがくっきりと定まらなくなる。そこで、いま一度聴く者皆が同じ風景を見るように、ひとつの絵を持ち出してくる。オランダの画家、ヘラルト・ファン・ホントホルストの「羊飼いの礼拝」(1622)である。
私はこういうとき、決まってスクリーンにその画像を映し出すことにしていた。もちろん説教は聴くものであり、パワーポイントのように視覚的に説明しよう、とするのは邪道であるとも言える。だが、せっかく何かを伝えようとしても、視覚的に見せなければ伝えづらいことはある。また、百聞は一見にしかずといい、百の言葉を用意して並べてみても、一つの画がそこにあれば、言わんとすることはきっと簡潔に伝えることができるということがある。いまの時代でさほど大がかりでないままに使えるものは、使えばよいと考えるのだ。
さて、その絵だが、説教者が説明するには、飼い葉桶の中のイエスが幾人かの人々により囲まれているわけだが、そのイエスから、つまり下の方から、光が出ているのだという。もちろん中世から足を踏み出したような時代である。ニンブスと呼ばれる光輪が常識だった時代から遠くないわけで、聖なる存在は光を伴っていることは当然だったかもしれない。同じオランダのレンブラントは、10年くらいしか違わない、同時代の画家であるが、光の魔術師とも呼ばれ、光と影、あるいは光と闇との対比を効果的に描いた。そういう文化的了解がその頃あったのかもしれない。
もちろん、赤児から光が発される、というのはリアリティのない表現である。だが、光を放つ意味をもつ救い主の誕生は、人類にとりまたとない光であったことをそれは知らせている。そしてここにも、低いところに来てくださった神が、人となったイエスがそれでもなお光として私たちを照らしていることを象徴している、と受け止めることもできるだろう。
羊飼いの礼拝とくれば、やはりあの天使の合唱のシーンが思い起こされる。「いと高き所には栄光、神にあれ/地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:14) これを目撃した羊飼いたちはベツレヘムを目指して、恐らく夜の中を歩くのである。その口には賛美があったかもしれない。歌いながら、わくわくしながら、救い主が生まれた出来事を見よう、と歩いて行ったに違いない。
説教者は、イエスの短い伝道期間、また同時代を生きながらイエスより先に受難に遭った洗礼者ヨハネの悔い改め運動の時を、私たちに思い起こさせた。その時が如何に短かったとしても、それは歴史から消えたわけではないし、私たちの人生も、神の目には無意味であるということはない。私たちもまた、羊飼いたちのように、イエスの出来事を見るために、ここから平和の道を歩んでゆくのであり、そのとき神への賛美を歌い続けるのである。
低くされた神は、低くされた者として、低くされた者と共にいる。だがそれは、実際は至高の神であった。私たちは、この神を信じ、従おうと願って祈る。神は、そのような私たちの信仰を、決して忘れることがない。