【メッセージ】確かにそれはイエスだった
2025年12月14日

(イザヤ40:1-11, ヨハネ14:5-7)
主は羊飼いのようにその群れを飼い
その腕に小羊を集めて、懐に抱き
乳を飲ませる羊を導く。(イザヤ40:11)
◆イザヤの預言
クリスマスのときに開かれる聖書箇所は、ある程度限られています。新約聖書だと、マタイ伝やルカ伝は定番中の定番です。これに、ヨハネ伝の冒頭もよく加えられますが、長く説教を務めていると、違う箇所を何か見つけようと努める場合があります。それでも、似通ったものになることが多いように見受けられます。
イエスの誕生は、旧約の預言に基づく、という捉え方があります。それで、イザヤ書がそのトップに立つことが多くなります。
10:主はさらにアハズに語られた。
11:「あなたの神である主にしるしを求めよ。陰府の深みへと、あるいは天へと高く求めよ。」
12:しかしアハズは、「私は求めません。主を試すようなことはしません」と言った。
13:イザヤは言った。「聞け、ダビデの家よ。あなたがたは人間を煩わすだけでは足りず、私の神をも煩わすのか。
14:それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ7:10-14)
ここは、マタイ伝の「インマヌエル」の根拠となっている箇所です。従って、やはり新約聖書のクリスマス物語の一部と言えるかもしれません。
1:闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た。/死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝いた。
2:あなたはその国民を増やし/その喜びを大きくされた。/彼らはあなたの前に喜んだ。/収穫を喜ぶように/戦利品を分けて喜び躍るように。
3:彼らの負う軛、その肩の杖、虐げる者の鞭を/あなたがミデヤンの日のように/打ち砕いてくださった。
4:地を踏み鳴らした兵士の靴と血にまみれた服は/すべて焼かれ、火の餌食となった。
5:一人のみどりごが私たちのために生まれた。/一人の男の子が私たちに与えられた。/主権がその肩にあり、その名は/「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
6:その主権は増し、平和には終わりがない。/ダビデの王座とその王国は/公正と正義によって立てられ、支えられる/今より、とこしえに。/万軍の主の熱情がこれを成し遂げる。
7:主は御言葉をヤコブに送り/イスラエルに下された。(イザヤ9:1-7)
これも、よく引かれるヨハネ伝1:4の「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」から連想されるところですし、「一人のみどりごが私たちのために生まれた。/一人の男の子が私たちに与えられた」も、正にイエスの生誕に相応しい預言だと言えるだろうと思います。
イザヤ書には、他にも「エッサイの根」(11:10)のように、キリストを暗示するものが多様に見られます。
◆第二イザヤの預言
奇を衒うつもりはないのですが、私はこのクリスマスを前にした礼拝のときに、同じイザヤでも、40章を開くことにしました。これは自分で決めたことではなく、ときには世界標準に従ってみようと、『ローズンゲン』が引いたところに注目してみたのです。それを、与えられた聖書の言葉として受け止め、神から恵みを受けようと祈っておりました。
ただ、この40章というのは、イザヤ書にとって、大きな意義のあるところとなります。イザヤ書は66章まであります。不思議なもので、旧約聖書39巻、新約聖書27巻の数字を加えると、この66になります。かけ算九九で「さんくにじゅうしち」と覚えやすいので、ぜひこれらの数字を心得ておきましょう。
多くの研究者は、イザヤ書は大きく2つないし3つに分けられると言い、現在は3つという説が有力です。それぞれ書き手が異なるのはもちろんのこと、書かれた時代も違うだろう、とするのです。1章から39章までは、ひとつのまとまりの中にあり、同じ時期に同じ筆者が記したものと見られますが、40章からは、時代もずいぶんと異なり、内容も変化が見られる、とされています。便宜上、40章からの筆者を「第二イザヤ」と呼ぶならわしになっています。
ここには、やがていつか捕囚のイスラエルの民が故郷の地に帰還し、主の支配する国として祝福を受けるであろう、というような書き方がなされています。それまでの、神の裁きがあってエルサレムが滅亡するというような、暗い口調が多い脈絡とは大きく異なっています。バビロンに捕囚されることになる運命を悲しむ預言の口調が目立ったわけですが、40章からは、その捕囚から戻ってくるという、明るい口調に変わりました。
しかも、ペルシアのキュロス王という具体的な名まで書かれて、キュロスが帰還の命令を下す、などと叙述しているのです。これは現実のことであり、そうしたキュロスなる実名が確信を以て記されるというのは、どう考えても、その事後の記録と見るよりほかありません。
バビロン捕囚は歴史上の事件として認識されており、そこからまたイスラエルの地に有力な人々が戻り、イスラエルの国とエルサレム神殿が再建されることになります。また、旧約聖書や律法の書、つまり旧約聖書について、この事件を中心にして成り立っていったのではないか、という研究の結果に信憑性があると言われています。
第二イザヤなる執筆者は、その奇蹟の帰還と、神殿再建について、かなりの事情を知っていたものと思われます。しかしまた、第二イザヤではないとされる35章にも、大路が敷かれ、「主に贖い出された者たちが帰って来る」(35:10)というような希望が見えますから、やはり預言者は預言者として、本質を見通す眼差しがあったのかもしれません。
捕囚の民が帰される。そこには、ペルシア帝国の政策や、周辺諸国との関係、経済的な要因など、いろいろな背景があって影響を受けてのことだろう、とも説明できることでしょう。それをユダヤ人たちは、神と自分たちとの関係に於ける出来事だと喜び、神の奇蹟の出来事のように受け止めたというように考えることもできると思います。イザヤは、この出来事について考えます。神から受けたと思ったその説明を記します。
イザヤの言葉を、またユダヤの人々は、神の出来事として読みたかったことでしょう。神は自分たちをどのように見ており、これからどのようにしようというのか、そこに見出したいと思ったのではないでしょうか。
◆荒れ野と草花
さあ、いよいよそのイザヤ書40章の言葉を受け取ることにしましょう。まず、「慰めよ、慰めよ、私の民を」という言葉から、ヘブライ語聖書も始まります。第二イザヤの書き出しが、これです。たいへんインパクトがあります。「慰めよ、慰めよ、私の民を」、これがイザヤの神のモットーのように見えます。これを神は、預言者イザヤに向けて言うのです。預言者は、民を慰める働きをするのだ、と。
「その苦役の時は満ち/その過ちは償われた」と預言者は民に告げます。確かに慰めの言葉です。国が滅ぼされ、財も奪われ人々は殺され、連れ去られ、傷つくだけ傷ついたイスラエルの民に、もうこれからは苦しむことがない、との言葉を慰めとして語るのです。
このとき「荒れ野に主の道を備えよ」と呼びかける声がどこからか聞こえます。キリスト教会は、これを洗礼者ヨハネの声だと理解しました。救い主イエスの誕生に先立って登場し、恰もイエスを先導するかのような働きをなした人物です。気づくべきは、イエスの誕生の記事はマタイ伝とルカ伝にしかありませんが、洗礼者ヨハネについては、4つの福音書のどれもが意義深く語っていることです。
キリスト教会は、洗礼者ヨハネからイエスへ、という神の出来事の流れを知らせました。その予告が、このイザヤ書にあった、と見なすのです。ただ、ここから第二イザヤは、世界の自然の中に起こる、異常な現象をここで綴ります。
そして神はイザヤに向かって、あなたが「呼びかけよ」と声をかけます。イザヤは、神から自分がどのように神の言葉を受けたか、そういうところまでは記録しています。普通なら、「主は言われる」と一方的に言い続ければようようなものを、丁寧に自分が呼びかけられた様子まで記録するのです。
イザヤは、主に問います。「何と呼びかけたらよいでしょうか。」これに対する主の回答がなかなか粋なものです。「草は枯れ、花はしぼむ。/しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」と言うべし、というわけです。「草は枯れ、花はしぼむ」は二度繰り返されます。人々も、草や花を見れば、神がどういうお方であるのか、分かるということなのかもしれません。
が、私は思います。これは本当に、ただの草花のことを言っているのでしょうか。私には、人間存在のことを言われているのだ、という気がしてなりません。人間も、有限な存在である以上、草や花と本質的に違いはないと思うのです。神の前には、同じく儚いものに過ぎません。人間の命など、永遠と比べると、余りに無に等しいレベルのものではないでしょうか。
◆炎のランナー
このイザヤ書40章という箇所を開くと、私はどうしても、ある映画のシーンが思い浮かんで仕方がありません。だいぶ前に、評判を聞いて観たくなりました。教会に行くようになってからのことです。最近、そのDVDが安価で手に入ることを知り、入手しました。先日、休みの日に、それを一気に観ました。印象深い映画でしたから、内容を大きく忘れることはありませんでした。私にしてみれば、驚くべきことです。最近観た映画でも、どんな話だったか、なかなか全体を覚えてはいないものですから。
その映画は、「炎のランナー」という邦題で紹介された名作です。ヴァンゲリスの名曲が聞こえてくる方もいるでしょう。ストーリーをご存じない方に対してネタバレは極力したくないという方針なので、あらまししかご紹介しません。時は1920年のパリ・オリンピック。いま取り上げるのは、主人公のひとり、エリック・リデル。旧約聖書の預言者エリヤの「炎の戦車」が原題に付いています。
スコットランドのスプリンターであるエリックは、オリンピックでイギリスに金メダルをもたらすと期待されていました。しかし同時に、エリックはプロテスタントの長老派に属し、厳しい信仰をもっていました。なによりエリックは、スコットランドの牧師の息子。先々宣教師となり、日本とも関わりをもつのですが、学生時代は陸上に才能を見出され、誰にも負けないランナーとなりました。
エリックは、神の恵みを身に受けて走ることを喜びとしていたのですが、パリ大会の選手となってイギリスを出るとき、自分の種目の予選が日曜日に実施されることを知り、悩みます。安息日に走るべきではない。それが彼の信仰でした。そのことを現地で表明すると、イギリスの政治家や王族からの、強制とも言えるような説得を受けますが、断固として走らない、との意志を貫きます。
世間は馬鹿げていると非難します。政治家たちは、狂信者と罵ります。そこへ仲間の選手が申し出て、種目を換えることができました。エリックはその安息日、教会で説教をします。映画のそのシーンで、朗読される形で流れるのが、このイザヤ書の40章だったのです。
吹き替え版では文語訳聖書が用いられていましたが、次のような箇所が響いてきます。「諸国民は皆、主の前では無に等しく/主にとってはうつろであり/空しいものと見なされる。」(イザヤ40:17)「しかし、主を待ち望む者は新たな力を得/鷲のように翼を広げて舞い上がる。/走っても弱ることがなく/歩いても疲れることはない。」(イザヤ40:31)
国々も偉い人たちも、主の前では無に等しく、主を待ち望む物は新たな力を得るのだ、という信仰が、そこに描かれていました。
◆誰が誰に
さて、すでに神が「呼びかけよ」とイザヤにもちかけ、それをこれからイザヤがイスラエルの民に告げる、という様子を垣間見ました。神の言葉をイザヤが聞き、イザヤがそれを民に告げるのです。ここには、3つの層があることが分かります。つまり、「神・イザヤ・イスラエルの民」という3つの立場の中で、神からの言葉が移されてゆくのです。このとき、誰が誰に向けてその言葉を向けたのか、がいちいち説明されずに綴られていることになります。
昔の人はすぐに了解していたのでしょう。日本の古典文献でも、句読点もカギ括弧もなければ、そもそもの一文がやたら長くだらだらと続くように書かれており、さらに文字が草書の筆で書かれているとなると、文字を読むというのは、本当に限られた人間しかできなかったことがよく分かります。聖書という文献も、そういうことなのです。それを、偉い研究者たちが調べて、いま私たちの手に届くような形にしてくれました。
きっとこの40章も、適切な解釈があるのでしょう。私の勝手な読み方は、いろいろ間違いに満ちていることだろうと思います。誤読している可能性が高いことをお断りしながら、それでも私の魂に届けられた、神からの光の中で、ここからお読み致しますことを、ご了承ください。私の理解を鵜呑みにせず、各自よくよくお調べになることをお薦めします。
6:「呼びかけよ」と言う声がする。/私は言った。「何と呼びかけたらよいでしょうか。」/「すべての肉なる者は草/その栄えはみな野の花のようだ。
分かりやすいのはここです。神がイザヤに言い、イザヤが神に応えています。しかしこの先、同じ神の言葉の中と思しき中に、
8:草は枯れ、花はしぼむ。/しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ。」
というのがあります。「私たちの神」というスタンスは、明らかにイザヤからのものです。神の言葉の中に、イザヤの立場があるわけです。
9:高い山に登れ/シオンに良い知らせを伝える者よ。/力の限り声を上げよ/エルサレムに良い知らせを伝える者よ。/声を上げよ、恐れるな。/ユダの各地の町に言え。/「見よ、あなたがたの神を。」
これも、神の言葉の内部ですが、「高い山に登れ」とは、誰が誰に向けて命じているのでしょうか。見る限り、「シオンに良い知らせを伝える者」に命じています。この伝える者は、イスラエルの一般の人々のようには見えません。やはりイザヤという預言者のことでしょう。「ユダの各地の町に言え」というのも、やはりイザヤが引き受けるべき役割であるような気がします。
神がイザヤに、伝えよ、と命じているように見えます。そして預言者は、民に向けてこう言うのです。
10:見よ、主なる神は力を帯びて来られ/御腕によって統治される。/見よ、その報いは主と共にあり/その報酬は御前にある。
さあ、私たち現代のキリスト者は何者であるかというと、預言者という立場に身を置くには、あまりにも貧弱です。このイザヤの言葉を聞く側にあるものと考えましょう。すると、私たちはいまイザヤからこう言われました。「見よ、主なる神は力を帯びて来られ/御腕によって統治される」と。
「見よ」というのは、ひとつの掛け声であるとも言われます。注意をそこに向けよ、という意味で用いられるために、邦訳聖書では時折無視されて全く訳出されないことがあるくらいです。けれども、やはり「見よ」という語がそこにあるのです。「見よ、主なる神は力を帯びて来られ」る、そのように私たちは預言者に言われました。言われた当事者です。
私たちは、神が来られるのを、見ようとしているでしょうか。神を見ているでしょうか。
◆道が見える
「その時、人の子が力と大いなる栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」(ルカ21:27)という言葉を、先週共にお読みしました。「人々は見る」とイエスが言いました。本当に見るのかもしれません。どのように見るのか、それはそのときにならなければ分かりません。しかし、私たちがいまそのように聞いてイメージする通りであるかどうか、それさえも分かりません。視覚的に見るのではないのかもしれないのです。
私たちはいま、神を見ようとしているのかどうか、と問われたならば、見たいし、見ようとしている、という意気込みでありたい、と思うこともあります。神の姿を視覚的に見ることは、いまはできていないと言えるでしょう。しかし、神の業を見ることはできます。神が統治している世界、少なくともその欠片のようなものは、目に見えるかもしれない、と思います。神の支配、即ち神の国というあり方について、完成した形ではないにせよ、キリストの教会の中に、その欠片を神は置いてくださっているのだと思いたいのです。
お開きしたイザヤ書の中にも、神の支配、神の業を、私たちは間接的ながらも、幻であるかもしれませんが、見ることができました。すでに挙げたように、大路が敷かれ、「主に贖い出された者たちが帰って来る」(35:10)というような希望を確認しました。イスラエルの民の帰還です。捕らわれたバビロンから、神の都エルサレムに戻って来たのです。
バビロン捕囚は、国家関係の中で、イスラエル地域の民が一方的に帝国の攻撃を受けて国を滅ぼされた故の憂き目でした。しかし、それに尽きるのでしょうか。旧約聖書を編んだ人々、そこに描かれた預言者たちは、イスラエルの罪をそこに見ていました。主に背反し、異教の偶像に酔い痴れた結果、神の裁きを受けたのだ、と理解しました。
それは、世界的にも稀有な捉え方でした。戦いに敗れたのは神のせいだとし、その国の神は消えゆく運命あるのが普通だからです。けれどもイスラエルの民は、自分たちが悪いのだ、という思想を貫きました。つまり、神に反すること、「罪」が、この事態を招いたとするのです。
罪の中にある者たちが、いよいよ神の備えた道を進み、還ってきます。いま私たちキリスト者は、自らの罪を痛感した者が、イエスの十字架によりそれが赦されたことで救われた、と信じています。私たちもまた、神の国へと続く「道」を通って、還ります。そうです。イエスが「私は道」(ヨハネ14:6)であると言ったことを、否が応でも想起します。そのとき、イエス「を通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない」(14:6)というのでした。
そして主がいよいよ来られます。主が新たな国を統治します。主が救いを成し遂げるのです。
11:主は羊飼いのようにその群れを飼い/その腕に小羊を集めて、懐に抱き/乳を飲ませる羊を導く。
イザヤはここで、「主は羊飼いのように」と言いました。このようにイザヤが主の慈しみを説くときも、私たちはヨハネ伝を思い出さないでしょうか。イエスは、「私は良い羊飼いである」(ヨハネ10:11)と言ったのでした。イザヤは、「その腕に小羊を集めて、懐に抱き/乳を飲ませる羊を導く」と表現しました。カナンの地は父の流れる地と称されていたことを思い出します。イエスはこのイザヤの言葉を実現した、というように私たちは振り返ることができます。
私たちの信仰の目は、その様子を、確かに見ることができるのです。
◆光射す道を
もしかすると現在、この世は明るい、と能天気でいる人々もいるかもしれません。けれども、多くの人は、この世界の中に闇を感じないではいられないのではないでしょうか。とても神の国への道がそこにあるとは思えないような、閉塞した空気を感じている人が多いのではないかと想像します。
クリスマスには、蝋燭が似合います。暗闇であればあるほど、蝋燭の炎は周りを明るく照らします。私たちは、ここが暗闇であることをまず認識しましょう。自分の国はそこそこ平和であるし、世界的標準からすれば贅沢な生活を送ることができている。日本の中にも様々な情況の人がいますが、概ね、ライフラインや生活そのものに困窮しているというわけではない、としておきます。明日の命が危機的だと感じる人は少ないと思われますし、日々命が狙われているわけではないという人が多数派でしょう。
そのとき、暗闇の中に孤独に置かれているようには、あまり感じていないのではないかと思います。しかし、自分の中に闇を痛感したとき、自分が罪の中にあり、暗闇の中でもがいていると知ったとき、私たちはクリスマスの蝋燭の光を眩しく覚え、その光の方に向かって一歩を踏み出したい、と願うようになります。願って戴きたいと思います。
その光は、聖書から射してきます。私たちの内から希望や救いが湧いてくるのではありません。聖書から、また聖書に基づく祈りから、神が光を届けます。
その光を、確かにクリスマスを待つこのときに、受けようではありませんか。受けた光を、胸に懐くのです。冷え切った心を暖める光です。冷たいLEDではなく、熱をもつ蝋燭の光です。それはエネルギー効率からすると芳しくない光ですが、私たちが求めたいのは、ただの明るさだけではありません。表面的な明るさだけではなく、そこに伝わる熱であり、暖かさです。蝋燭の光の方が、よりそれに近いのです。光の中に、愛があることを知るからです。
教会で取り次がれる神の言葉、説教者が説き明かす神の言葉により起こる出来事、それは恵みとして胸に懐かれるべきものです。そしてそのまま、喜びながら、礼拝の後教会から帰りましょう。幼子イエスに出会った、あの博士たちのように。
その喜びをまた、誰かに伝えましょう。幼子イエスを訪ねた、あの羊飼いたちのように。
そのどちらも、幼子イエスに出会ったからこそ、喜び溢れて戻ることができたのです。その御子は「言」だとヨハネ伝は告げていました。
神の言葉はとこしえに立つことを、イザヤは告げていました。その神の言葉を受けて、私たちは主の道を歩むのです。イエスという道を、光の方へ、神の国へ向けて歩むのです。