職業選択の動機
2025年12月14日

「ちくまプリマー新書」は「さいしょの新書」
「ちくまプリマー新書」は、「プリマー=入門書」の名にふさわしく、これまでの新書よりもベーシックで普遍的なテーマを、より若い読者にもわかりやすい表現で伝えていきます。彼らの知的好奇心を刺激し、それに応えられるものを目指します。学校でも家庭でも学べない大事なことを、わかりやすく、まっすぐに伝えていきます。
そして、若い読者にもちゃんと伝わるような本は、他の年代の読者にとっても有意義なものになるはずです。(筑摩書房のウェブサイトより)
その中の1冊に、「この本は、これから看護師になりたいと思う人のために書きました」という「まえがき」で始まる本がある。
中学生の推薦入試の志願理由書や作文を多く見てきたが、何人かが、看護師になりたい、という思いを明らかにしていた。もちろん推薦入試という場であるから、いわば綺麗事を書くのは当然であることだろう。しかし、その年代で看護師という職業を考えるという背景には、しばしば自分が病気をしたときの看護師との出会いが発端となっているものだ。あるいは、家族の病気のときでもいい。命を扱うという点への厳粛な思いはきっとあるだろうと思う。
さて、看護師になりたい人のための本は、どのようなことが書いてあったか。3章構成だが、第1章は、病院でのオモシロ患者のエピソードばかりだった。品のない書き方もされていた。第2章は、著者自身がどうして看護師になったかという経験や、なってみての失敗談が多く書かれていた。
その第2章の初めの項目のタイトルが、太い字で目に飛び込んでくる。「稼ぐ女になりたい。その一心で看護師を目指しました」と書いてある。
結局この本には、命の尊さや、病気との闘いや、弱い人のための使命感といったものは、どこにも触れられていなかった。
ずいぶんドライな看護師志望である。私は、「ちくまプリマー新書」の目指すものとは違うのではないか、と感じた。「これから看護師になりたいと思う人」のための案内として、これでよいのだろうか、と案じた。そして、何かしら人のために、と思って本を開いた若者の求めには合わないのではないか、と思った。
だが、この新書のコンセプトを別に考えるならば、そういう動機で看護師になる人がいても、当然よいのだ、というふうにも思えた。生活のため、給与がいくらか良いと見込めること、しかも医師や薬剤師になるよりは、教育費用が抑えられるであろうことを思えば、収入を考えて看護師になっても構わないはずである。逆に、いくら熱意があっても、仕事ができなければ、プロとして看護師でいることはできない。仕事ができるのであれば、その動機が収入にあったとしても、誰も咎める必要はないであろう。
そこで、また思い当たることがあった。そうか。同様に「牧師」という仕事も、教会の事務的な仕事ができるのであれば、動機がどうであってもよい、ということになるのだろうか。
伝道の熱意や自身の神体験などとは関係なく、まして「召命」という出来事とは無関係に、礼拝で聖書から話が何かできて、あとは信徒を訪ねたり、教団の集会に出席したりすれば仕事をしていることになるわけだ。代表責任者となり、事務書類に印鑑を押す担当になればいい。
聖書から何か、教訓めいた話でもしておけば、「説教」という形になるわけで、ウェブサイトを探せば話のネタはいくらでも探せる。教団からは教案誌もあるから、それに少し味付けしておけば、毎週の話もそう苦にはならない。時折政治の悪口でも言っておけば、教会は正しいという自尊心を支えることもできるだろう。
特に、牧師の子として育てられ、教会の中で暮らしてきたような人は、教会の姿もだいたい分かっているし、どういうふうに言えば教会員が笑顔でいてくれるか、身を以て感じている。聖書のこともずっと聞いているから、尤もらしいことを話すための準備はできている。自然に、仕事ができそうである。時折「原語では……」と混ぜておけば、よくある知識であっても、信徒たちはどうせギリシア語など知らないわけだから、あの牧師はできる、と思わせることだって簡単だ。時折、かじった知識を混ぜれば、効果は抜群である。
神への信仰ということも、型どおりの文句を口にしておけば、嘘を言っていることにはならないから、何も問題はないだろう。何か言われても、聖書に書いてある、という切り札を手にしていれば、心配する必要はない。どう言えばだいたい丸く収まるか、そこさえ押さえておけば、失敗はないはずだ。神と出会って救われた、などという経験がなくてもできる。特別な救いというような伝説めいた体験など、いまの時代にもつような人は殆どあるまい、と自分にそれがないから高を括っておけばよい。口先で、信仰の決まり文句を言っておけば、それで仕事は務まるだろう。何か体験談をと求められたら、「信仰告白をして洗礼を受けました」とでも言っておけば十分である。一定の「信仰告白」なんていくらでも文例があるのだから、気に入ったものを取り入れればよい。
あとは、その教会の実権を握るお偉いさんの機嫌をとって言うことを聞くことに徹すれば、問題はない。世の中には、下手に自分の信仰というものを表に出して波風を立てるような牧師がいるが、それは世渡りが下手である。信仰なんて聖書に書いてあることを鸚鵡返しにしておけばどうとでも言えるのだから、郷に入れば郷に従え、としておけばいい。まして、「魂の配慮」を求める信徒もいないとなると、そういった煩わしい問題など、わざわざ自分から触れるような真似さえしなければ、教会組織の運営にだけ、ケチをつけられないように見張っていれば安泰だ。
ビジネスとも違うから、ノルマも要らない。給料は誠実な信徒たちが思いやりから奮発してくれる。毎日「先生、先生」と呼ばれて気持ちがいいし、信徒が増えないことの責任を負わされることもない。人を裁くな、という聖書の言葉もあるし、時折そうした保身に役立つことを説教に取り入れておけば、自分が攻撃されることもないし、喜びなさいと説教で話せば、笑顔で満足して帰ってくれる。献げましょう、と偶に語れば、献金も増えることが見込める。
「牧師」とは、なかなか好都合な仕事である。信仰を動機にする必然性はない。牧師のなり手が少ないから、やたら教会の数だけ多いこの国では、信徒数がある程度いる教会を望めば、けっこう楽ができるだろう。特に自分の父親が牧師として名が通っていれば、そのネームバリューで、大切に扱われるに違いない。2世、大いに結構である。
――さて、お喋りが過ぎた。こんなことがあるはずがない、というような偽りの物語を想像してみた。世の中の牧師には、こういう人はまずいないだろう。信仰の姿勢が厳しく問われる神学校が普通だからだ。ある神学校に入ったある人は、その信仰の点で問題がある、と判断されて、一年間仮入学しかさせてもらえなかったようなことがあった。真っ当な措置だと思う。結局1年後には正式に許可したのは、失敗ではなかったか、と案じてはいるが、神学校に「信仰」が必要だという建前は、必要なことだということを示したことには違いない。他方、そうした信仰を全く顧みない神学校も、世の中にはある。そこでは、下手をすると、上のようなひとつの物語も、現実に起こっていることなのかもしれない。
私には、そういう人の話す「説教」が、聞くに堪えないものであることが、すぐに分かった経験がある。人の好い信徒の皆さんは、それを何か我慢しているようなことがないか、心配である。