哲学はいま

2025年12月12日

要するに負け惜しみなのだが、現代哲学というものについて行けない。近代的世界観への反省というのはいい。それに絡み取られているどうしようもない思考法からの脱却は、必要なことだと痛切に感じる。だからまた、デカルトからカントなどという針路を基準とすることが拙いということも、重々感じる。
 
分析哲学が言語そのものを問うたことの意味は、分かるような気がする。単に理性自身を問うたそれまでに加えて、問うて論ずるその言語自体が問われなければならないのは尤もなことであっただろう。すると、そこから生じる解釈とはどういうことか、という問いも必然的であっただろうし、思考の構造はどうなっているのか、という目の付け所も必要であったことだろう。
 
実証科学がどうしようもない大きな力を及ぼすにあたり、科学を相手に闘わねばならないのも必要なことだっただろう。否、それは今もなお続いている。社会や組織、人間による人間の支配や制度についても、哲学という名の検討は大いに必要であった。
 
他方、人間の心はどうなっているのか、という問題意識も、かつてのような決めつけで事が済むようには思えなくなってきた。そこに現れている姿の奥にあるものを、完全に規定することはできないにせよ、できるだけ探るようにするにはどうすればよいか、模索がなされた。
 
そのとき、人の心が、自分というものを見つめる営みにも改めて注目されたが、かつて宗教の内面的な視線がこなしていた問題意識を、神なしの前提で検討することが求められもしたと言えようか。
 
そのとき、善悪はどう理解され、また運用されたらよいのだろうか。正義とは各自が勝手に決めていることではないか。また、現に人間社会には、芸術というものがある。美しいと思う人の基準はどこにあるのか。経済的なものに左右されもする文化は、本当に美に対する感覚だけで捉えられているのかどうか。
 
そのうち、一握りの権力が、人類の滅亡の運命を握るような時代にすらなってしまったし、多数の人間が地球環境に影響するために人類の未来を潰すようなことをしていることに気づかない、という点も指摘することも必要となった。
 
「哲学」という名前は、狭いフィールドで相撲をとるようなことではなかったはずだが、それぞれの領域で、極めてマニアックな議論をすることで、なんだかスノビズムのようにマウントをとることを快感としている人も、現実にいるような気がする。
 
庶民が生活の中ですでに知っていること、実践していること、それを勿体ぶって難しい言い回しで唱えているだけの者もいそうな気がする。かといって、日常的な見識では、大きな流れに気づかず、ただ何者かに利用されているだけなのに、自分では自由でいるつもりに浸っている、という庶民感覚の罠も懸念される。数のひとつとして利用されるのに、自分では自由だと思い込んでいるだけであると、足らない思慮が取り返しのつかない事態に賛同してゆくのではないか、と心配されるのである。
 
自分の思いつきに酔い痴れて、誰の役にも立たないものをつくり、あるいは破壊へとつながる社会決定を助長するようなことさえ、やりかねないのだ。庶民の知恵は、諺のように首尾一貫するものではないため、キャンティングボートを握っている割には、簡単に揺らされて動いてしまうものである自覚が必要である。
 
哲学は、とにもかくにも、首尾一貫した筋道をつけようとする。そこには、決定的に真理というものが定められるというよりも、常に検討する場所をもっている、というものであるだろう。それが、あちこち狭いところでインネンをつけてケンカしているのではないか、というふうにも思えることがある。
 
「鉱山のカナリア」は、本当にあったかどうか知らないが、とりあえず比喩としてはいまでも有効であろう。カナリアは死んで、人に危険を知らせる。私たちは、イエスの刑死に、改めて何かを知り、何かを受け止めることが求められているのではないだろうか。そして、キリスト者はいつでもファーストペンギンであって然るべきではないだろうか。ただ、それを冷ややかに遠巻きに見つめる集団が教会であったとすると、なんだか虚しい。
 
新しい思想について行けない頭の硬い、頭の弱い者の呟きは、そんなカナリアにもペンギンにもなれないほどに、愚かであるのだろう、ということは、仕方がないかもしれないのだが。



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