闇の中の光

2025年12月8日

アドベント2週目の礼拝。担当は、マルコ伝の連続講解説教を担っている主任牧師でない方。比較的短い時間で終わるのは、今日がいろいろ礼拝の中にプログラムが豊富だったせいもあるが、ふだんからの傾向でもある。一本の軸の周りからあまり離れることなく、(言葉は悪いが)「あそび」がないためでもある。
 
このたび開かれた聖書箇所は、イザヤ書40章の初めの方の部分と、マルコ伝の最初の数節。明らかにテーマは「光」であったし、説教題にもそれが主役であるように窺えた。だが、驚くことに、開かれた聖書箇所には、「光」という言葉が出てこない。否、「こうして主の栄光が現れ/すべての肉なる者は共に見る」(イザヤ40:5)に、「栄光」という「光」の字が現れるのは確かだ。しかし、「栄光」は光のことではない。
 
ではどこから光が来たのか。この説教は、クリスマスへの眼差しを前提として、聴く者の心の中に、当然のことのように「光」が見えていることを踏まえて語られていたのではないか。そうだとしたら、実に巧みな仕掛けてはないか。
 
マタイ伝やルカ伝の、いわゆるクリスマス・ストーリーは余りにも有名である。また、毎年この時期に、決まってそこから語られる説教というものも、依然として多い。また、それだと「またか」「それ知ってる」との反応があることを鑑みて、少し捻りをかけて、イエス誕生の預言のような箇所を開く、ということもある。インマヌエルだとかベツレヘムに生まれるとかいうのであるが、それもまたいつも同じような箇所になってしまった。すると、象徴的に、ヨハネ伝の冒頭を掲げることもまた、実際多い。
 
光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。(ヨハネ1:5)
 
この日の説教は、これを前提としていた。説教の冒頭で、「闇の中の光」というイメージが、聴く一人ひとりの心の中に拡がっていったのだ。そして、この「光」というところから、少しも離れることなく、ブレることなく、説教は最後まで走っていった。
 
しかし、このヨハネ伝を聖書箇所として開いたのではなかった。それどころか、「光」が朗読されない聖書箇所を掲げたのだ。
 
では、それは何か奇を衒ったようなものだったのだろうか。私だったら、ありそうである。しかし、私はこの説教はそうではなかったと思う。
 
一つの筋道を貫いているので、まず説教の概要を端折りながら、しかし時折私が感じ取ったことを交えながら、しばらく記してみようかと思う。
 
教会員で亡くなった方がいた。また、新たに教会員となった若者がいた。世の中では、弔事と慶事とを重ねることはしないだろうが、教会では、これらを同時に見ることがある。どちらも、命の問題なのだ。どちらも命の光へと招き入れられることだとの了解があるわけだ。
 
光は、闇の中に輝く。いま闇の中にいる、と思うことが、私たちにはある。自分の心もそうだし、世相もそうかもしれない。だが、そのときに、「光を待ち望む」というのが、キリスト者の希望の道である。それは、同時に「光に導かれている」ということでもあるのだ。
 
そのように、闇の中にいると思うとき、ひとは光を探す。だが、光はすでに私たちのところへ来ていた。言うまでもなく、イエス・キリストである。
 
イザヤ書にある預言は「荒れ野に主の道を備えよ」というものだった。主の道が備えられるのは、荒れた場所だった。それは闇の概念に重ねられる。そして何のための道かというと、主が来られるための道である。もちろんそれはメタファーである。それをどう解くかは、一人ひとりの信仰に委ねられることだろう。
 
かつてその道を備えたのは、洗礼者ヨハネだった。ヨハネは光そのものではなかった。ただ、光であるキリストを真っ直ぐに指し示した。
 
洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。(マルコ1:4)
 
引っかかる表現がある。普通なら、「洗礼を与えた」とでも言いそうであるのに、「洗礼を宣べ伝えた」と書かれている。洗礼は、ひとつの形ではあるが、その形で終わるものではなかったに違いない。宣べ伝えるのは神の言葉である。神の言葉は、罪を知らせ、救いを与える。私たちが、自らを罪人だと痛感したところへ、恵みとして与えられることだろう。洗礼は、そこにこそ可能になる出来事である。
 
このヨハネの後に、イエスが、本物の光として現れる。備えられた道を主イエスが通ってくる。このイエスを、私たちはどういうスタンスで見つめ、捉えるとよいのか。「救う」という意味をもつイエスは、すでに来た。クリスマスの出来事である。光はすでに届けられた。その光は、かつて輝いただけの過去のものであるのではない。光は消えることなく、いまも届け続けられている。だからこそ、クリスマスがいまもなお記念されているのである。
 
この主は、一人ひとりのところへ来ている。私たちが、救いはどこだ、と探し回る以前に、すでに救いは届けられている。この救いは、神からの恵みであり、私たちの喜びである。
 
イエスは殺される。だが復活させられる。その希望は、洗礼からの新しい人生の歩みに確証を添える。このようなイエスが生まれたということは、洗礼による新しい命の誕生とつながって見えてきてもよいかもしれない。
 
ヨハネは、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」のであった。「悔い改め」とは何か。罪を告白せよ。確かにそうだ。だが、告白とは何か。口先だけでよいのか。そうではあるまい。自分の存在そのものが罪の中にある、という悲痛な自覚がそこにあるはずだ。その罪を自分が知る。しかし、自分でその罪を清算することはできない。その後に救いを探せ、というものでもない。先に挙げたように、私たちが探す前にすでに救いは来ているのである。その救いの主の前に、心を開けということなのだ。
 
私たちは、自分の弱さを嘆くことがある。自分の至らなさを悲しむことがある。その惨めさを抱えたまま、行き詰まって打開策が見つからないことがある。しかし、そこへも光は来るのだ。主の光は、その闇の中に射してくる。
 
こうして罪人がまたひとり、洗礼を受けて光の世界に導かれる。ところが、それを教会の者は目撃する。すでに救いを経験した者たちにとっても、新たに洗礼を受けるその姿は、光の中に輝いて見える。教会が洗礼を受ける人を支えもするし、教会は、洗礼により励まされもする。そして教会は、ここに光があることを、世に明らかにする。「光を証しする」とも言う。こうして救いの確かさを世に指し示すのは、教会の喜びであると共に、世に対する義務でもある。
 
常に「教会」というものと「福音」とをつなぐのが、この説教者の視点である。ここでは、光のイメージがずっとそこにあるままに、「救い」の姿を、そして「洗礼」という具体的な営みによって、言葉を用いて描き続けてきた。
 
私たちの人生は荒れ野でもあるだろう。しかし教会のもたらす福音は、そこに道をつくることができる。その道を主が通る。主は希望を与え、その人の魂を導いてゆくだろう。究極的には死をも超える救いが、その人の核心的霊の中に与えられることだろう。
 
すでに主の救いを与えられている信仰の中にいる者にも、クリスマスのときには改めて主が光となって来てくださるだろう。すでに世に来たイエスは、いまもなお私たちを招いているし、助けてくださる。ともすれば闇がまた襲うようなことが、私たちにはある。しかし、闇であればなおさら、小さな蝋燭の光もまた、希望となって神の国の方へと招いてくれるはずなのだ。私たちは、与えられた光を喜び、ここから歩みだそうではないか。
 
さて、ここからは全く私ひとりの感覚であり、「こだわり」である。
 
説教者は最初に、「闇の中の光」という主題を掲げ、最後までそのイメージのままに私たちを引っ張っていった。そのとき説教者は同時に、その光が「あたたかい光」だとも言った。
 
「あたたかい光」という言葉は、冷静に考えてみればおかしい。「光」そのものに「あたたかい」も「つめたい」もないはずだ。蝋燭の光があたたかいではないか、と思われるかもしれないが、あたたかさをもたらすのはその「熱」であって、光ではない。また、太陽の光が地面を照らし気温を上げるのだとしても、熱をもつのは地面であり、空気である。光があたたかいわけではない。
 
キャンドル・サービスで蝋燭が用いられる教会があるかと思うが、炎に手をかざせば、炎の「熱」が手をあたためるけれども、炎を離れて見る者には、あたたかさが全く感じられない。光がもし熱をもつならば、たき火の映像をテレビで見ていても暖かくなるはずである。
 
屁理屈を述べたようだが、「あたたかい光」は、物理的には適切な表現でないことは確かである。だが、私たちはその表現を了解する。「あたたかい光」という言葉で何を伝えようとしているのか、基本的に誰もが分かる。ひとつの比喩だからだ。だが、誰にも分かる比喩というのは、何かしら根拠があるに違いない。人間のもつ感覚とやらに、共通な感じ取り方というものがあるからこそ、その表現が伝わるし用いられるのではないか。
 
私たちは聖書の中に、そのつながりを見つけることができるかもしれない。普通の人には何のつながりも感じられない二つの間に、行間を読めるとでもいうのか、橋を架けられるというのが、信仰者の「霊」とでも言えばよいことだろうか。
 
「光」は、もちろんイエスのことでいい。では「あたたかさ」とは何か。私はさしあたり、いまそれを「愛」という言葉で表現してみようかと思う。そして、光に照らされている私が、神から見て果たして愛の中に本当にあるのかどうか、問われているような気持ちにさせられたのであった。「ひとを愛せますように」との最初の祈りは、依然として少しもできていない自分が、ここにいるから。



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