【メッセージ】このようなことが起こったら

2025年12月7日

(ルカ21:20-28, イザヤ43:16-19)

このようなことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。
あなたがたの救いが近づいているからだ。(ルカ21:28)
 
◆このようなこと
 
このようなことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。
あなたがたの救いが近づいているからだ。(ルカ21:28)
 
「このようなこと」、それはこのルカ伝の直前に、いろいろと書いてあります。それを見るまえに、背景を少し辿っておくことにしましょう。
 
ルカ伝に描かれるイエスの姿には特徴があります。ひたすらエルサレムに目を向け、エルサレムを目指して前進します。ついにエルサレムの神殿に到着しますが、十字架に架けられます。その後復活し、そうやって救いの業を果たすと、弟子たちの働きを通じて、その救いが全世界へ拡がってゆく、というプランを、ルカは懐いています。
 
その数百年前に、イスラエルは大変な憂き目に遭いました。バビロニア帝国に徹底的に神殿が破壊されて、能力豊かな人々は、はるばるバビロンにまで連行されました。いわゆる「バビロン捕囚」という事件です。距離は1000km近くもあるとされ、歩いても1か月はかかるであろうと思われます。
 
数十年後、そのときのバビロニア帝国は、ペルシア帝国によって滅ぼされます。支配者が代わったことで、イスラエル人は故郷に戻ることが許されました。ペルシア帝国は、支配した民族については、寛大な政策をとったのです。それは、統治の方法として優れたものだったと考えられます。
 
帰還したイスラエルの民は、以前ほどの規模ではないけれども、なんとか神殿の形を築くことができました。そしてイエスの時代も、その神殿は機能していました。但し、今度はローマ帝国の属州となり、ローマ帝国の直轄地となっています。帝国に逆らって活動することはできなくなっていました。しかし、基本的に宗教活動は認められていました。神殿に行く子供、礼拝することも、一応認められていました。
 
そのため、イエスがエルサレムを目指して旅をして、弟子たちを引き連れてきたときにも、の弟子たちにとっては物珍しい観光気分でいたかもしれません。もちろん、イエスは旅の途中、時折呟いていました。自分はエルサレムで殺される、と。その言葉の意味は分かりませんから、「また先生ご冗談を」といったふうにごまかすなどしていた可能性もあります。その言葉の意味については、半信半疑だったかもしれません。
 
◆それは具体的に
 
「このようなことが起こり始めたら」 この言葉を軸に、私たちは今日、何度もここに戻ってこようと思います。
 
その「このようなこと」とはどういうことか、注目してみましょう。同じ21章で、弟子たちか仲間か、とにかく同行するかその場にいた人々が、神殿に見とれていたところから始まります。神殿、すげえな。そんな感動の心の人々に対して、釘を刺すようにイエスが言ったことから始まるのです。
 
「積み上がった石が一つ残らず崩れ落ちる日が来る」(6)とは、なんとも不気味な預言です。それはいつのことなのか、と人々がイエスに尋ねます。するとイエスは、その「いつ」という問いに対して答えようとするのでした。以下、イエスが「起こる」とした「出来事」を拾ってゆくことにしましょう。
 
9:戦争や騒乱があると聞いても、おびえてはならない。こうしたことは、まず起こるに違いないが、それですぐに終わりが来るわけではない。」
10:そしてさらに、言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がる。
11:また、大地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や天から大きな徴が現れる。
 
これらは幻です。マタイ伝が遺した言葉は、人にイメージを与える言葉ではありますが、人間に与えられた言葉だという限界があります。起こることについては、極めて抽象的に述べられているに過ぎません。しかし、ただ起こるはずのことを述べただけでは、弟子たちはどうすればよいか分かりません。君たちは迫害に遭うだろう、と触れた後、イエスは具体的な指示を始めます。
 
20:「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
 
さらに、逃げ方や苦難の予告を述べてから、再び、起こるはずの幻を告げるのです。
 
24:人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる異邦人のもとへ連れて行かれる。異邦人の時が満ちるまで、エルサレムは異邦人に踏みにじられる。」 25:「そして、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂う中で、諸国の民は恐れおののく。
 
恐怖に包まれた人々ですが、それだけで終わりません。イエスは勇気を与えます。
 
27:その時、人の子が力と大いなる栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
 
慌ただしく眺めてきましたが、これらこそが、「このようなこと」です。
 
28:このようなことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。
あなたがたの救いが近づいているからだ。
 
◆ユダヤ人はメシアを待っていた
 
ところでいま最後に挙げられた予告は、他の予告とは質が違いました。それまでの戦争だの地震だの、軍隊だの自然現象だのというものは、それなりに私たちの想像の範疇にあるものでした。しかし、いま最後のものは、想像の域を超えていました。
 
27:その時、人の子が力と大いなる栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
 
「人の子」については、ユダヤ人は一定の了解をしていたはずなのですが、いまの私たちには無縁な表現です。詩編では、正に人間のことを、指して用いられました。しかし雲に乗って来るのが普通の人間だとは思えません。旧約聖書の預言者の書にも、その意味で「人の子」と言われることがありました。イザヤ書はそうです。
 
エゼキエル書になると、神はエゼキエルに対してしきりに「人の子よ」と呼びかけます。それはもう殆ど口癖のようなものでした。なんと93節にわたり、「人の子よ」と言っているのです。しかし、ダニエル書に2箇所、その意味ではない使われ方をしているところがあります。
 
私は夜の幻を見ていた。/見よ、人の子のような者が/天の雲に乗って来て/日の老いたる者のところに着き/その前に導かれた。(ダニエル7:13)
 
彼が私にこのような言葉を語ったとき、私は地にひれ伏して、口が利けなくなった。
見よ、人の子のような姿の者が私の唇に触れた。私は口を開いて語り、私の前に立つ人に言った。(ダニエル10:15-16)
 
もちろん7:13のことを、ここでイエスは直接取り上げていると言えるのですが、それはユダヤ人にとって、イスラエルを救うメシアの登場を期待させるものだったと思われます。
 
しかしメシアはいま、イエス・キリストとして現れた、と新約聖書を立てるキリスト教とは考えます。そのイエスが未来のこととしてあげたこの「人の子」は、新約聖書からくる教義によると、「再臨のキリスト」ということになるでしょう。「キリスト」とギリシア語で綴られている新約聖書の言葉は、ヘブライ語の「メシア」を訳したものでした。ユダヤ人たちは、そのメシアを待っていたのです。
 
ユダヤ人の待つメシアは、救い主ということでしたが、ローマ帝国の圧政の下で、イスラエル王国の最高を人々が待ち望んでいたのは確かです。ダビデがイスラエルを統一したように、またその子ソロモンの時代に繁栄を誇ったように、あの夢をもう一度、と神の力が我が民に及ぶように、願っていたことになります。
 
バビロン捕囚から帰還して、なんとか祖国の土地に戻った後も、ユダヤを中心としてイスラエルは、受難続きでした。ペルシア帝国からペルシア帝国からアレクサンドロス大王、それからローマ帝国へと支配者が替わっても、ずっと支配され続けでした。ほんの百年ほどの間だけ、なんとか独立していたとされる時代がありましたが、周辺諸国に対して余りにも小さな民族として肩身の狭い思いをしていました。
 
その間に、復活の希望が広まったり、再びイスラエルが回復するという預言を強く信じたりするようになったことがありました。が、さてイエスの時代に、ユダヤの人たちは、本当にメシアが国を建てるということを、信じていたのでしょうか。メシアの登場を待っていたのでしょうか。
 
ただ、イエスが、かつての預言者の言葉のようにして登場したとき、国中が色めき立ったことは、想像できないわけではありません。エルサレム入場の姿も、預言書の通りだ、と熱狂したことは、それなりに理解できるのです。
 
◆メシア現る?
 
イエスは、病を癒やしました。食べ物を増やすような業を見せました。人々は、これならイスラエルを奇蹟の力で再興し、再びあの栄光の王国を実現させてくれる、と期待しました。ただ、人間たちはそれをどう受け容れていたか、そこには問題がありました。ローマ帝国でのモットーのひとつに、「パンとサーカス」という言葉があったといいます。人民を掌握するには、食糧と娯楽を提供すればよい、という原理です。イエスのしたことには、娯楽性はなかったかもしれませんが、名君たる仕事をしていたように見えたことは間違いないでしょう。
 
しかし、イエスは官憲に捕らわれました。その期待が適わないと見えると、一転してイエスを攻撃し始めます。可愛さ余って憎さ百倍、という具合のことなのかもしれません。罵声を浴びせるのみならず、無き者にする方向へとなだれ落ちてゆきました。
 
「十字架につけろ」とのシュプレヒコールが、イエスをついに十字架へと追い詰めました。それまで一年か三年か分かりませんが、イエスが人々の前に現れて、メシア騒動が起こっていた、あれは何だったのか、冷静に振り返れば、分からないことだらけです。
 
人々は、預言者の言葉を根拠に、メシアがくる、イスラエルを救う者が現れる、と期待していたのではなかったでしょぅか。イスラエルには神がいる。イスラエルを、攻撃する周辺諸国は裁かれる。もちろん、イスラエルも、かつての背信については罰されるけれども、その罰の向こうに、神の勝利かこの国に輝き、栄光を受けて喜びに沸く。数々の預言者が、そのように期待をもたせていたのです。
 
ただ、イスラエルを救う者が、痛めつけられる運命にあるという、あのイザヤの苦難の僕の預言が、このイエスのことであるということには、まだしばらく気がついていませんでした。
 
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/痛みの人で、病を知っていた。/人々から顔を背けられるほど軽蔑され/私たちも彼を尊ばなかった。
彼が担ったのは私たちの病/彼が負ったのは私たちの痛みであった。/しかし、私たちは思っていた。/彼は病に冒され、神に打たれて/苦しめられたのだと。
彼は私たちの背きのために刺し貫かれ/私たちの過ちのために打ち砕かれた。/彼が受けた懲らしめによって/私たちに平安が与えられ/彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。
私たちは皆、羊の群れのようにさまよい/それぞれ自らの道に向かって行った。/その私たちすべての過ちを/主は彼に負わせられた。(イザヤ53:3-6)
 
この姿についても、せいぜい、イスラエルが悲惨な目に遭っていたことも必要だった、という程度に重ねた人がいたくらいではなかったかと思われます。イエスが十字架の苦しみを味わって救い主となったと解釈した、後のキリスト教徒たちが、正にあのイザヤの預言はイエスのことだったのだ、と気がついてから、初めてそれがイエスだと認識され始めたのではないかと思います。
 
いまやイエスは、その救いの業と復活の希望をもたらす救い主として、キリスト教徒に信じられるようになりました。しかし、まだ安心してはいられません。偽物が現れる、とイエス自身が注意を喚起しているのです。
 
イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、付いて行ってはならない。(ルカ21:8)
 
◆偽キリスト
 
そんなことを言われても、現実味がない、とお感じになる人もいることでしょう。けれども、歴史上、「自分がキリストだ」と自称するような者は確かにいました。いま再び話題に上っているあの宗教組織の創始者が、そうでした。どうして騙されるのか、と傍から見れば愚かに見えるかもしれませんが、そこは巧みな手段が縦横に張り巡らされており、ときには「洗脳」という方法で、人の心を操ることになるのです。
 
イエス・キリストの指摘は、偽キリスト、あるいはまた偽預言者が現れる、という意味だったと思います。地下鉄にサリンを撒いた宗教組織は、キリスト教系とは言えませんが、黙示録の言葉を用いることがありました。そして、確かにメシア気取りであったように見える点では、つながる部分もあるのだろうと感じます。
 
他方、「時が近づいた」ということについては、これは数限りなく実例があると言えるでしょう。昔もありましたが、いつでもまた、世が終わるという騒ぎ方をする宗教集団が現れるものです。そうやって集団自殺をした団体もありました。世の終わりだという騒ぎで信者が金を使い果たしたことで、後々訴訟騒ぎになったところもありました。
 
しかし、これはただイエスの預言としていま適用しようか、という角度だけではない見方をする必要があるように思われます。イエスがユダヤの民に期待外れと見なされ、まるで裏切り者のように攻撃されたとき、ユダヤ人たちはイエスのことを、正に「偽預言者」だと決めつけたのではなかったでしょうか。
 
自分勝手にイメージをその目立つ人に押しつけて、大いに盛り立てて騒いでおいて、期待通りの成果をもたらさなかったら、今度はたちまち裏切ったなと文句を言い、偽物だと痛めつける。そういうことは、いまの世の中でも、普通に起こり得ることだと思うのです。
 
多大な期待を背負い、オリンピックでの優勝が期待されながらもできなかった選手が、自殺したこともありました。そういうプレッシャーを自ら感じることの多い時代であった、とも言えるでしょう。しかしいまはまた実際に外からの力が、即時的で強い圧迫をその個人にもたらします。インターネットによる「炎上」もそのひとつです。陰湿ないじめをしているということに、加害者たちは少しも気づきません。悪い奴を非難して何が悪い、表現の自由だ、とでも考えているのでしょうか。
 
タレントが災害地に行けば偽善者と集中砲火し、スポーツ選手も、何か言えば生意気だと吊るしに遭います。当初は勝手に盛り立てていたようなことでも、日の丸を揚げられなかったら、戦犯と晒して全責任を負わせもします。海外でも、ワールドカップで失策をした選手が殺される事件がありました。
 
話は少し違う方面に入りますが、最近、ある政党のリーダーが逮捕されました。それまでも問題となる発言や行動がたくさんありましたが、政治団体のリーダーですから、マスコミはまともに批判をしませんでした。何か批判めいたことを報道機関が言えば、どんな政治的圧力がくるか知れないからです。しかし、一旦逮捕された瞬間から、この人物へ堂々と批判をし、こいつは酷い奴だ、というふうな発言が、平然と電波に乗ってくるようになりました。マスコミは、及び腰であったし、日和見的であったのです。
 
もちろんこの人物はメシアではありませんが、イエスとて、逮捕された瞬間から、大衆が一気に敵に回ったことを、思うと、この現象は、どこかパラレルであるように見えて仕方がありません。
 
あのユダヤの民は、どうだったのでしょう。メシアを信じていて、イエスがメシアかと期待していたのに、イエスが逮捕されたから「殺してしまえ」と叫んだのでしょうか。それとも、そもそもメシアなんぞ本当には来やしないと心の内で思っていたことが、ああいう暴力となって現れたのでしょうか。私には、判断がつきません。
 
それで、改めて、いまここにいる私たちのことを考えてみましょう。自分の胸に問い詰めてみましょう。イエス・キリストは再び来る。私たちは、それを本気で、いま待っているでしょうか。
 
◆終末の風景
 
このようなことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。
あなたがたの救いが近づいているからだ。(ルカ21:28)
 
福音書の中のイエスは、「このようなこと」などと言って、終末の風景をそこに描いて見せました。そうです。そういう文脈で書かれています。聖書研究ならば、それで十分です。
 
でも、聖書は、ただ意味を読み取る文献資料ではないのです。それが、神を信じると告白したすべての人のスタンスです。
 
「信じている」と告白したから、洗礼を受けたのでした。「信じている」と言えるから、教会に通うのでした。礼拝で賛美歌を歌い、祈りを献げ、礼拝説教を聞いて肯いているのでした。
 
けれども、いま私たちは問われています。キリストは再び来ます。ね、そう信じていますよね。それとも、どこかそこに、そんなことはありえない、というような思いが、信仰を揺らしているようなことはありませんか。
 
聖書の言葉は、真実であり、本当にそのようになる。それが、キリスト者の「信仰」であったはずです。まさか、そうしたことを信じてはいないのに、なんだか人の好いグループの交わりやサークルでもあるかのように、そして安心できるつきあいをしたいために、教会に来ている、ということではないでしょう。一応形だけ「信じています」と言っておけば会員になれるし、賛美歌を一緒に歌っていれば、気持ちも晴れるし、礼拝さえお勤めすれば、その後は聖書の話など一切する必要がなく、趣味や家族の話を互いにわいわいと話して帰る、という心地よさを味わって、平日の苦労に対して命の洗濯をしに来ている――そんなことは、ないですよね。
 
信じているその世界では、イエスの預言は、必ず実現するわけです。いつか訪れる「その日」が、本当に来て、イエスの言っていたことが、「なるほど、あれはこういうことだったのか」と思い知る時がくるでしょう。まさかと思われるようなことが、必ず起こることになるでしょう。
 
すると、二千年前にも思いを馳せてみます。イエス・キリストの生まれこそ、その「まさか」を現実にする出来事だったのではないでしょうか。
 
キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず
かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。/人間の姿で現れ
へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。(フィリピ2:6-8)
 
まさか、そんなことが起こるはずがないじゃありませんか。当時の人は思ったでしょう。そして、現代の私たちも、この科学の時代に、そんなことがあるはずがない、と内心考えるのがあたりまえのように考えていないでしょうか。
 
でも、信仰は違うのです。それは「あった」と断言するのです。聖書がその証言の書である、と信じて疑わないのです。クリスマスのあの出来事は、本当に「あった」のです。
 
◆救いがそこに
 
このようなことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。
あなたがたの救いが近づいているからだ。(ルカ21:28)
 
私たちは、これを目撃しました。私たちの信仰の目は、これを見ました。かつて神が人となって、地上に来てくださったことを、信仰の心が確かなこととして目撃しました。
 
さらに、次にもう一度、キリストが来臨することを、私たちは知っています。もう、心ではそれを見ています。それを踏まえて、私たちはこのクリスマスの時季に、最初の来臨を、しっかりと見ておくのです。それがあってこそのクリスマスであるのです。
 
まだその気になれない、と仰る人がいるかもしれません。まだよく分からない、と。あるいは、信じられない、と。しかし、この瞬間がそうであっても、もちろん構いません。ただ、あなたはやがて、新しいことを見るでしょう。あなたには、新しいことが起こるでしょう。もしかするといまその心の中にすでに、「これらのこと」が、起こっているのではないでしょうか。
 
18:先にあったことを思い起こすな。/昔のことを考えるな。 19:見よ、私は新しいことを行う。/今や、それは起ころうとしている。/あなたがたはそれを知らないのか。/確かに、私は荒れ野に道を/荒れ地に川を置く。(イザヤ43:18-19)
 
イザヤが、イエスが生まれる700年も前に語ったことです。預言者イザヤが見た幻の記録です。しかしそれは、ただの過去のお話なのではありません。いま、あなたにその「新しいこと」が起こることを告げていたのです。埋もれた心で、暗い気持ち、苦しい胸の内を抱え、一歩を踏み出せないでいたあなたに、新しい光が射し込むのです。あなたが歩けなくても、神からの風がはあなたを運んでゆくことができます。神から吹いてくるその風に委ねさえすれば、行き詰まったあなたの道が、重荷さえも軽くなっているあなたを待っていることが分かります。
 
イエスの「このようなこと」の預言の、後半に注意を向けましょう。
 
このようなことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。
あなたがたの救いが近づいているからだ。(ルカ21:28)
 
「あなたがたの救いが近づいている」と、言っているではありませんか。クリスマスが近づく中で、救いが近づいていることを知ることの幸いを覚えたいと思います。



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