街頭募金

2025年12月6日

歳末助け合い、という声で募金箱を構えた人が駅で待っている。それを無視して通り過ぎると、冷たい人間のようにも見えるかしら。私は、安易に近寄らないことにしている。
 
募金に立つ立場も、知っている。声を嗄らして叫ぶような青少年時代もあった。だから、素通りする人に悲しい気持ちを懐くという心情も、味わったことがある。冷たい、と批評するようなことはしなかったが、寂しい気持ちがあったのは確かだ。
 
但し、「あしなが育英会」の街頭募金だけは、たいてい協力していた。その団体については知るところが多かったし、阪神淡路大震災の後は特に、福岡に帰ってからも、見かけたら近寄ることを常にしていた。コロナ禍以降は、とくにその声が聞かれなくなってきたような気がして、寂しい。が、それよりも私が繁華街に出向くことがなくなったことが、出会わない理由なのだろう。
 
京都に出る前のことだ。天神で、すでに夜になっていた。募金箱を抱えたスーツ姿の、まだ若い男性が近づいてきた。恵まれない子どもたちのために募金をお願いします。丁寧に言う。だがそうした人は一人しかおらず、団体的な活動のようには見えなかった。私は、どういう団体か、と尋ねた。男性は、立ち去った。
 
その後、京都で信仰を与えられてから、統一協会の活動について知ることがあった。飢餓地域の子どもたちの写真を掲げて、募金活動をしていることがあった。罪人の日本人からは、どのような方法ででも金を集めて教祖に献げるのが信仰だという教えがあったのである。福祉団体の名を使い、キーホルダーやハンカチを売り歩く信者もいたが、その団体の収支報告が、とてもそれだけ売り歩いている様子とは比較にならないほど少ない額だったことも調べた。
 
以来、募金活動というものについて、すべて信用するわけにはゆかないことを覚えた。
 
だからといって、「歳末助け合い」をうたっているものが悪徳団体だ、と見なしているわけではない。それよりは、やはりいまの時代は、ウェブサイト経由の方がまだ動きやすいような気もする。もちろん、ウェブサイトの中にも怪しい団体があるかもしれない。だから、より信用性のあるところに委ねるしかないわけだ。むしろ街頭の方が、顔を見せているだけ、今の事態は悪徳行為はできない、とも言えるかもしれない。
 
ひとの善意を食い物にする存在が実際にあることで、疑われて迷惑な団体や人々もいる。その意味では、偽ものというのは、本当に罪深い。人の信用を失わせ、信じるべき真理から人を遠ざけるのは、悪辣である。聖書で「偽預言者」が幾度か登場するが、その悪は、計り知れないと思う。
 
偽ものが説教をしていることについて、本人は軽く考えているかもしれないが、如何にそれが酷いことであるのか、自覚していないとすれば、おぞましいものである。



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