人に迷惑をかけないように

2025年12月2日

人に迷惑をかけない子に――迷惑をかけない、という倫理は、以前から日本人の常識だった。だがいまは、それか絶滅しかかっている。
 
いや、人に迷惑をかけないように、という人の目を気にすることがおかしい。迷惑はかけることを避けられない。むしろ迷惑をかけてかけられて、互いに生きてゆくのが人間社会ではないか。そういう意見も、近年強くなった。このパラドキシカルな説明は、説得力がなかなかある。
 
この議論は、専ら「迷惑」のほうでなされている。だが私は、問題はそこではなくて、「人」なのではないかと考える。
 
甘えの構造で分類されていたかと思うが、私たちは、近しい人と離れた人とを区別しているという。近しい人には甘えることが常識であり、遠い人に甘えるわけにはゆかないらしい。また、近しい人の前で失敗をするのは恥ずかしいことだが、遠い人の前で失敗しても、恥とは考えない。旅の恥はかき捨て、はそこからきている。
 
少しでも分かりやすくするために、自分の身の回りの人々のことを「ひと」と表現し、見知らぬ他人のことを「ヒト」と、仮に表してみることにしよう。
 
「人に迷惑をかけない子に育ってほしい」というような親の心が以前は強かった。自分以外の誰にも迷惑をかけてはいけない、という律法のようなものではない。親には迷惑をかけてよいのだ、そういう論理を当然隠しもっていた。それでは親戚にはどうか。隣近所にはどうか。
 
ここで解釈が分かれるかもしれない。いま挙げたような知人、すなわち「ひと」に対しても、家族と同様、迷惑をかけることは大いにありうることだから、それはかけてよいのだ、という考え方もできよう。それに対して、そうでない世間一般の「ヒト」に迷惑をかけるような人間にはなるな、との戒めを含むのである。
 
他方、顔の知れた人々、つまり「ひと」に対してこそ、迷惑をかけてはいけない、とする考え方もある。これが「恥」という感覚とほぼ重なる。しかし、見知らぬ「ヒト」に対しては、いくら迷惑をかけても気にする必要はない、とするのである。
 
どちらにあなたは賛同したいだろうか。「旅の恥はかき捨て」というのは、後者のようなものだろうか。見知らぬ「ヒト」に対しては、いくら失礼なことをしてもなんとも思わないでいられるものだろう。どうせ知らぬ「ヒト」なのだから、後腐れもないし、後から何か言われたりされたりすることは考えなくて済む。これが、何かしら関係者たる「ひと」であったら、その後の関係の中で問題になるわけで、そこは無難に対処しておくのが得策なのである。
 
毎日、電車の中で、大声で話す人に迷惑を受けている。耳の横でそうされたら、とにかく思考することができなくなる。思想どころではなく、思考の自由が踏みにじられるのである。そして問題は、それをやっているほうは、自分が誰かに迷惑をかけている、などとは、微塵も感じていない、ということである。つまりは想像力が欠落しているのである。うるささのために殺意の眼差しさえ向けられていることも、感じないはずである。
 
ひところ、電車の中で化粧をする女性のことが世間で話題になったことがあった。実は、いまも少しだがいる。それについて、目の前にいる他の乗客を、人間扱いしていないからできるのだ、という説明があった。差別的身分制度がある文化では、貴族の女性は奴隷の召使いの前で裸になっても恥ずかしいとは感じなかったという。私たちが、犬や猫の前で裸になっても恥ずかしいと感じないのと同様であるらしい。化粧を他人の前でできるとき、その他人は動物か野菜と同じとしか考えていない、という説明であった。
 
怖いことだが、もしかすると、「ひと」に対しても、「ヒト」に対しても、もはや誰をも人間、言い換えると「人格」というものを、全く感じないようなタイプの人間が、増殖しているのかもしれない。それは時折、報道のカメラの前に映し出されることもあるが、身近に知る人の中にも、確かに心当たりがある。
 
待てよ。私も鈍感に、誰かを傷つけているのに全く気づいていない、というのは、もちろんあり得ることだ。そして、気づいていないことを、いまここに告白しているようなことになっているかもしれない。いやいや、まだ「かもしれない」と言っている分、自分に甘いのだ。だが、それはまた、私だけではない、ということも、恐らく確実だろうと思う。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります