何かが起ころうとしている
2025年12月1日

トマス・ロングの『何かが起ころうとしている』という本の中の、それを題とする説教の引用から始まった。
「ぼくがなぜこの教会にずっと来ているのか、わかったよ」。その男性は指をパチンと鳴らして、言葉に力を込めて言いました。……「ぼくはここに来ると、ほかの場所にはない感覚、『何かが起ころうとしている』という感じがするんだ」
以後、この説教は、生き生きとその「感覚」を伝えようと表現を様々に変化させながら、この男性の言葉、「何かが起ころうとしている」というフレーズに幾度も立ち戻り、それを軸に、教会の姿と神の国の姿がちらちらと見えるような語りを展開する。つまりは、神の国と教会を結ぶところに、「何かが起ころうとしている」という感覚が呼び起こされるのである。
アドベントに入り、マルコ伝の連続講解説教は一旦休止された。クリスマスを待つ約1か月の期間をが始まったからである。クリスマスは、もちろん、主イエスが誕生したことを記念する祝祭である。
このクリスマスに際して、「私の貧しい心に生まれてください」との祈りがある。説教者はそう切り出す。確かに、そのような祈りはあると思う。自分の心が荒れ果てている故、そこに清いイエスに生まれて戴きたい、という願いである。説教者は、この祈りには注意しなければならないことがある、と離した。誤解を招く可能性があるからだ。というのは、イエスすでに、この世界に生まれたからだ。私の心により左右される出来事ではない。私たちは、かつて現実にこの世界に生まれたイエスの出来事を、思い起こし続けることはあっても、いま新たに生まれるということを望むように祈るというのは、何か筋を違える危険性があるというわけだ。
だが、ある意味で、主イエスが再び生まれるということに近い点はある。二千年ほど前のときには、神が人となって確かにこの世界に生まれた。もう一つは、これからいつであるとは言えないけれども、主イエスは再びこの世に来ることが予告されている点である。主の日、終わりの日、裁きの日の出来事の中でイエスは再びこの世界に姿を表すのであるが、それはかつての、人となって生まれるというのとは、様相が異なる。
私たちは、そのときを待つ。いま待っている。だから、イエスがこの世界に誕生したことに関するクリスマスを待つ時期を、日本語では「待降節」と訳すのである。が、その原語「アドベント」には、「待つ」という意味の言葉は使われていない。それは「到来」という意味を有する語である。ただ私たちは、その「到来」を待っているというのは本当である。
開かれた聖書箇所は、いわゆる「マリアの賛歌」と呼ばれるルカ伝1章である。福音書のオープニング間もなく、祭司ザカリアとその妻エリサベトとの間に、奇蹟の子が生まれることになるという事件が起こる。後に洗礼者ヨハネとなる子がエリサベトの胎にいたころ、その親類のマリアはマリアで、天使ガブリエルから、神の子を産むとの告知を受けていた。この場面を味わうと、それだけで説教の一つや二つが語られる必要があるが、この日は関心を次へ向ける。
そのマリアが、山里にいるエリサベトのところまで、急ぐのである。そして、エリサベトに会うと、エリサベトはエリサベトで、マリアを神の母になる人だと祝福する。それを受けて、マリアが独白のようにして、美しい詩を語り尽くす。これが「マリアの賛歌」と呼ばれるものである。
マリアの賛歌についての説教も解説も、この世には無数にある。クリスマスの季節をも迎えようとするこの時期に、全国の教会で開かれている可能性が高い。ルターの小冊子も有名だが、歴史の中でも数知れない注釈や研究がある。それらを気にしすぎるのは、礼拝説教には相応しくない。ここで説教者は、もちろん必要な注釈は述べるが、ひとつのイメージを、その説教を聴く者たちに提示したのだと思う。
常々、その説教は、聴く者の脳裏に、生き生きと視覚的なイメージを与えてくれる、そのように私はこの場で告げてきた。もちろんこの朝の説教も、そうであった。だが私の感覚では、この朝の説教が与えるイメージは、それに留まらなかった。
説教者は、マリアがエリサベトと会い、「その胎内の子が躍った」出来事の意味が大きかったことを解いた。「あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子が喜び躍りました」と、エリサベトはマリアに言った。これに続いて、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と加えた直後に、「そこで、マリアは言った」というよにルカの筆は綴る。「そこで」である。つまり、説教者が言うには、喜び躍る胎児なしには、マリアは歌えなかった、というのである。
なにも、私たちがマリアと同じだ、というわけではない。だが、ここから教えられるのは、私たちの賛美である。私たちの意志や元気が、賛美を歌うようにさせるのではないのである。
また説教者は、この「マリアの賛歌」が、「マニフィカト」と呼ばれる点に触れた。この賛歌をラテン語で記したカトリック教会の聖書の、最初の語が「magnificat」であることから、それで全体を呼ぶものとしたのである(ラテン語でこのgは発音しない)。こうしたことは聖書の書名などでもよくあることであり、珍しいことではないが、日本語訳では「崇める」という動詞で訳している。説教者はその語の意味を「大きくする」という言い方で終始した。ギリシア語では「メガ」という語が含まれており、これなら私たちにもピンとくるというものだ。
だが、マリアが神を大きくすると言っても、マリアの意志でそれができる、とするにはあたらない。マリアは、神に選ばれた胎児が喜び躍ることにより、この賛歌を生んだ。私たちの喜びは、自分の中からだけ生まれたのであれば、空しいだろう。神の力が外からくるように、喜びもまた、外からくる。マリアが歌うようになったのは、この外から与えられる何かであった。
だから、説教者は冒頭で、「何かが起ころうとしている」という説教を引いたのだ。かの男性は、自分が教会に来ているわけに気づいた。教会には、ほかの場所にはない感覚が与えられるのだ。その感覚とは、「何かが起ころうとしている」というものであった。
神に祈るということは、時にハードルが高いと思えることがある。大分で、香港で、大きな火災があったことが奉じられた。その当事者であったなら、私は果たしてすんなり祈れるだろうか。震災に遭ったとき、私は祈れるだろうか。――だが、阪神淡路大震災のとき、その5日後の日曜日、瓦礫と化したような神戸の教会には、確かに賛美の歌があったことが報告されている。そこに神は、きっといたのだ。
私たちの賛美は、形だけのものであってはならない。礼拝の形だけをしていれば、あとは教会では楽しい仲良し倶楽部活動をしていればよいのだ、というところでは、ここでいう「賛美」は生まれない。「何かが起ころうとしている」場に於ける賛美は、形だけのものではない。そしてそういう賛美が起こるところでは、確かに何かが起こるであろう。神はその一人ひとりに、新しいことを始めてくださるのだ。
その出来事に対するレスポンスとして、私たちは、神を大きくする。もはや自分を大きくすることなど、できない。小さかった自分の外から、神の力が注がれる。そうして立ち上がることができ、賛美の歌がその口から生まれたとき、私たちは初めて、神を大きくすることができよう。そうでなければ、そもそも大きな存在である神を、さらに大きくすることなどできまい。
それはまた、私たちの中で、神が大きくなることを意味する可能性もあるだろう。そうであれば、私というものは益々小さくなるだろう。否、そもそも私というものは死んでいて、キリストが内に生きている、というのがパウロの表現ではなかったか。
さあ、ここで説教者はすばらしい情景を見せる。いま、マリアが歌っている。歌っているのが、見えるだろう。待てよ。見えるだけでは歌では在るまい。マリアの歌声が聞こえているはずだ。マリアが、「先頭で」歌っている、そのように説教者は表現した。マリアが先頭で歌い、私たちはそのバックコーラスである。バックダンサーでもいい。クリスマスを前にして、私たちは歌う。マリアの後ろで、マリアのソロに合わせてハーモニーをつけるのだ。
あるいは、それはミュージカルのように、マリアと共に舞台に立ち、人生を演じているようなものなのかもしれない。このとき、いつもの視覚的なイメージに加えて、確実に音が加わっていた。賛美は聴覚的な伝わり方をすることだろう。もちろん、手話による賛美は、視覚的な言語を用いる。しかし、音の響きは多くのろう者も感じている。響きという意味でなら、これを聴覚と呼ばせて戴きたい。説教者は視聴覚共に、この礼拝の中で、神と出会う場をもたらしたのである。
教会は、クリスマスを大切にしてきた。戦争の最中に、両軍が共にクリスマスの歌を歌ったという逸話もある。クリスマスは平和であるべし。戦場にも、その賛美が響くようにと願うばかりである。そしてまた、私たちの間にある不和や争いの中にも、そういうクリスマスが貫かれてほしい。否、私たちが、その光を照らし、賛美を届けたい。
説教者は、マリアの賛歌の中の革命的な部分にも触れた後、「卑しい仕え女」、つまり恥たるべき女奴隷、という程度の表現について、「無に等しい者」という捉え方を示した。東洋の「無」とはまた異なる概念を背景にもつであうが、そうした「無」を見出した神の中に、「見えないものを見る」という構図を写しだした。確かに私たちの信仰たるものも、「見えないものを見る」という本質を有するものであろう。
この「無」であるマリアから、いま神は、救い主をもたらそうとしている。「無」が「有」が生まれるのだ。神が人間としてのかたちを伴って生まれるに際しては、人間の女の胎が、どうしても必要だったのである。こうしてイエスが誕生する。
この現象について、詩人は「低きに下って御覧になる方」(詩編113:6)という言い方をしているところがある。これは、旧約学者でもあった左近淑(きよし)牧師の愛した言葉であったという。旧約と新約との分離を好まず、それは確かにつながっていると考えてのことである。「主はすべての国を超えて高くいまし」(113:4)たのに、低きに下ったのだ。
ここからの説教者の、ダイナミックで畳みかける言葉が、非常に印象的であった。高きはずの主が低きに下る。このとき何が起こるか。キリストが飛び降りるのだ。飛び降りると、砕け散る。父なる神は御子を突き落として、十字架上に砕け散るようにしたのだ。
このようなことは、人間たる私たちの内で起こるようなことではない。私たちの外で起こった出来事である。この「内」と「外」との対比は、この説教者の語りの中の重要な構造の一つであった。マリアの口を通して預言されたことには、主は、「権力ある者をその座から引き降ろし/低い者を高く上げ」るのである。私たちが、どうして「権力ある者」として振舞ってよいものであろうか。どうして自己なるものを絶対的な位置に置いて、神を指図するようなことができるであろうか。だが、つい、いつの間にか、私たちはそのように振舞っている。自分のしていることが、分からないでいる。そのことに、気づかないでいる。
だが、クリスマスは外で起こった。私たちはそれを自分ならぬところから与えられた。正にプレゼントであった。私たちはそれにより、真に恐れから解き放たれることとなる。私たちの幸いは、ここにある。そしてその背景には、低いところで砕け散る、神の悲劇があった。説教者は、クリスマスは神にとり悲しみの日であった、とまで言う。だが、それは私たちにとり「恵み」にほかならなかっただろう。
マリアの歌には、雲のようにとりまく証人もまた、声を合わせていたことだろう。バックで共に歌う私たちもまた、その歌に声を合わせる。クリスマスまで、砕け散ったイエスの事実をしかと受け止めて、賛美の輪の中にいて共に歌いたいと願っている。そこで必ず、何かが起こるはずだからである。