【メッセージ】きっと来る

2025年11月30日

(ゼカリヤ9:8-17, ルカ1:26-38)

娘シオンよ、大いに喜べ。
娘エルサレムよ、喜び叫べ。v あなたの王があなたのところに来る。
彼は正しき者であって、勝利を得る者。
へりくだって、ろばに乗って来る
雌ろばの子、子ろばに乗って。(ゼカリヤ9:9)
 
◆メリークリスマス
 
メリークリスマス。何の違和感ももたずに、教会でもそのように祝うものです。私もそうでした。でもやがて、何か気持ちよくそう言えない気持ちになってきました。「メリー」とは何でしょう。クリスマス礼拝の午後には、よく「祝会」と称して、楽しい集いが開かれます。教会によりますが、大抵は、ゲラゲラ笑うような出し物があるものです。かなり羽目を外すような場になることもあるようです。24日夜のクリスマスイブ礼拝は、さすがにしっとりと行われるのですが、日曜日のクリスマス礼拝は、昼間でもあり、明るい雰囲気になることが多いものです。
 
それから、「クリスマス」という言葉。言葉自体は、「キリスト礼拝」という意味ですから、まだよいのですが、どうしても、商業や欲望の手垢のついたものになってしまったように思われてなりません。それでも、「イースター」という、別の神を祝う名前を使うよりは、まだましだとするべきなのでしょうが、どこかスッキリしません。
 
そう。これは聖書に基づく祝日ではないのです。そのため、エホバの証人は徹底的にこれを排除します。そして、キリスト教会の堕落だと非難するのです。聖書の記事からしても、あれが真冬だとは考えにくく、クリスマスの起こりは冬至の祭りだろうと考えられていることからも、気持ちのよいものではありません。
 
もちろん、千年以上もの歴史があり、信仰を積み重ねたことそのものに対して、安易に異議を唱えるつもりはありません。だから、プロテスタントとて、「聖書のみ」をガチガチの姿勢で原則にしている、とは言わなくてよいとも思います。「聖書のみ」をスローガンにしたのも、当時のカトリック教会に対抗するための思弁を含んでいたことでしょう。ひたすら聖書だけに頑なにこだわって、それを金科玉条の如く、抗えない原理としなくてもよいのでしょう。
 
いや、なんだか気分を殺ぐような発言をしてきました。子どもたちはクリスマスを楽しいと思ってほしいし、信仰に入って間もないころ、私もうれしくてたまりませんでした。そういう人の気持ちを押しつぶすようなことをここまで言ってきたことは、お詫びできるものならお詫びしたいものだと思います。
 
でも、ただの商業主義や、イエスを全く知らないクリスマス、せいぜいサンタクロースが登場するくらいならまだよいのですが、ひたすら年中行事やロマンチックな雰囲気作り、はては馬鹿騒ぎや欲望肯定の理由にされている現状があるとすれば、そこは悲しむべきことです。気にしなくてよい、というクリスチャンの指導者もいますが、やはり私は嫌に思います。自分が昔聖書を知らないときには、それと同じことをしていたにも拘らず。
 
「ほんとうのクリスマス」と、教会のポスターに何度入れられていることでしょう。かといって、「こちらが本家本物だぞ」と強がってみせるつもりもありません。世間の大多数、殆どが口にする「クリスマス」の方が本物である、と言われたら、確かにそうなってしまうのでしょう。「それは正しい言葉ではない」といくら老人が指摘してみたところで、99%の人が別の意味でその言葉を使っていたら、「言葉は生きもの」だと言われ、退けられてしまうに違いないのです。
 
◆アドベント
 
クリスマスの礼拝は、25日以前直近の日曜日。そこまでの約1か月間の主日礼拝は、クリスマスの準備をするという考えの下に営まれます。この期間を「アドベント」といいます。「待降節」という美しい日本語が、私は好きです。イエスが人の子として産まれるのを、いまかいまかと待ちながら過ごします。
 
「待つ」ということについては、また語り出せばしばらく時間を必要とします。この「待つ」ということについて、もっと時間をとって思いを巡らせたい気がします。時間短縮のための道具が開発され、その材料も十分私たちには与えられているのに、私たちはしばしば「時間がない」とぼやきます。そして、自分の時間を奪うような出来事に対して、すぐに苛々するのです。
 
電車のホームでは、今日もまた「○○行きの電車は、1分遅れて運行しています」というアナウンスが響きます。このような、わずかな遅れのために、それを取り戻さなければまた叱られる、という恐怖心から、2005年、JR西日本の電車を運転士が暴走させ、マンションに突っ込むという事故が起こりました。客を待たせてはいけない、という社会が、そしてその社会に住む一人としての私が、あの事故を起こしたのです。
 
しかし、この「待つ」ということについて、穴を掘るように目を向け心を砕くということを、今日はここでする予定はありません。今日は、クリスマスへ向けての、アドベント期間の最初の主日礼拝です。クリスマスについて、恵みを受けることに専念したいと思います。
 
近年、「アドベント・カレンダー」もよく知られようになりました。まだ京都にいる頃は、商品として手に入れるためには、四条河原町の輸入食料品店に行かなければなりませんでした。子どもたちそれぞれに、「アドベント・チョコ」の箱を毎年買っていました。1から25まで書かれた「窓」が、切り込み線が入った状態で並んでいます。12月に入ると、その日付けの数字の窓を開けることができ、中のチョコレートをおやつに食べることができるのです。毎日ひとつ、小さなチョコレートですが、日々「待つ」ことは、子どもにとってささやかな楽しみであったようです。
 
もちろん、チョコレートでなくてもよく、ヨーロッパでは、キャンデーやクッキーであったり、もしかすると絵やちょっとしたオモチャが入っていたのかもしれません。バレンタイン・デーにチョコレートというのは、日本の企業のアイディアだったようで、もちろん他のお菓子でも贈物でもよいわけですし、平賀源内の土用の丑の日のうなぎ作戦のように、人間、何が世間に気に入られるか分かりません。関西の節分の恵方巻のまるかぶりも、経済を活発にするのに役立っているのでしょうか。
 
ヨースタイン・ゴルデルの『アドヴェント・カレンダー』という本もありました。『ソフィーの世界』の作者だというと、思い当たる人がいるかもしれません。ノルウェーで哲学を教えていたこともある、児童文学作家です。特にソフィーの方は、最近各方面から注目されている話題作だと言えます。ちょっと覗いてみるのは如何でしょうか。
 
◆待っていたこと
 
さて、二千年前のユダヤの人々は、イスラエルの再興を待ち望んでいました。交通の要所にある土地の民族は、周辺の大国に常に脅かされています。バビロン捕囚で破壊されたエルサレムを、帰還した民がなんとか修復再建してゆきますが、今度はマケドニア帝国、さらにローマ帝国といった大国の支配を受け続けます。わずかな独立期間を経ながらも、イエスの時代には、イスラエルはいまやローマ帝国の属州扱いとなっていました。
 
見た目は整備された町ではありました。けれども、昔の栄光の王国という姿はありません。ローマ帝国は、緩い支配政策をとっていましたから、単純に虐待されるようなことはありませんでしたが、ユダヤ人は悔しい思いをしていたのでした。神殿参拝の自由はあります。でも、神に向かって祈る度に、こんなイスラエルでは駄目だ、との思いがこみ上げてくるのではなかったか、と思います。
 
過ぎた栄光。それは、ただの過去のものであるのでしょうか。しかし、イスラエルには、預言者の言葉が伝えられていました。イスラエルには、律法と歴史の書が誇るべき伝統としてありましたが、預言者たちの書もありました。いつかきっと、イスラエル王国は復活する。いまは厳しい情況だが、神はこの国と民を愛しているから、いつか幸福が訪れる。他の支配者たちは神に裁かれ、イスラエルは神に祝福されるのだ。
 
もちろん、イスラエルには、自分たちこの民族が神に背いたが故に、このような憂き目に遭っているのだ、という重要な理解がありました。戦いに負けた国は、それまでの神を棄てる、ということが常識だった中で、神はただお一人で、戦いに負けたのは自分たちの罪のせいだ、と発想すること自体が、稀有なことなのかもしれません。しかしだからこそ、その神はいつまでもイスラエルを捨て置かず、きっと再興してくださる、という希望を胸に、それを信仰することもできたのでしょう。
 
神は、敵を討ち破るでしょう。イスラエルは神の栄光を受け、苦難の中にある民は救われる。そう信じることが、イスラエルの信仰というものだったのでしょう。
 
いまは難儀な情況である。自分の力ではどうにもならない。でも将来よいことがある。私たちが希望を持つというのは、そう信じていることです。その「将来」は、大団円であり、「めでたしめでたし」です。その救われた先に、また苦難がある、というふうには考えません。そこに見られる希望の未来は、「終末」とも呼ばれます。
 
青土社の月刊誌『現代思想』は、毎回魅力的なテーマを掲げ、それに対して著名な論者たちに論じてもらったものを集めています。11月号の特集は「終末論」でした。正確に言うと「「終末論」を考える ―-破局と救済のポリティクス―」という主題でしたが、いろいろな角度から、終末論を論じているのでした。
 
悲観的な見解も当然あります。いま放送されている朝ドラ「ばけばけ」のテーマソングには、「日に日に世界が悪くなる/気のせいかそうじゃない」という、ちょっと衝撃的な歌詞もありますが、いま人類が掲げている重大な目標は、「持続可能な開発目標」という名前です。「SDGs」とお洒落に言うと気づきにくくなりますが、要するに、「このまま対策しないと破滅しますよ」という意識で考えている事柄です。
 
ユダヤ教・キリスト教という、聖書に基づく思想の世界では、世界が破滅はするのだが、神に従う民のためには、理想の国、神の国がある、という希望があるとされています。「終末」とは言いますが、そういう世界を、人間があくせくつくりだすのではなく、神がもたらす、という信じ方をしていることになります。神がもたらすのを、私たちは基本的に「待つ」だけなのです。
 
◆主は貧しい姿で
 
そういう終末を待つ預言者の言葉を、ひとつだけ開いてみることにします。ゼカリヤ書9章です。
 
8:私は私の家に宿営して、行き来する者を見張る。もはや虐げる者が彼らを踏みにじることはない。私が今、この目で見守っているからである。
9:娘シオンよ、大いに喜べ。/娘エルサレムよ、喜び叫べ。/あなたの王があなたのところに来る。/彼は正しき者であって、勝利を得る者。/へりくだって、ろばに乗って来る/雌ろばの子、子ろばに乗って。
 
ここは、むしろ復活祭へ向けて、十字架への道の始まりとして開かれる箇所です。イエスが、いよいよエルサレムに入城する姿が、このゼカリヤの預言にぴったりだ、とキリストの弟子たちは読み込みました。ゼカリヤはもちろん、キリストより前の時代の預言者です。紀元前6世紀、バビロン捕囚からの解放がなされ、幾らかの人々がエルサレムに戻って、神殿を再建しようか、という頃に、神からの言葉を人々に語りました。そこには幻も多く、この時代のことのみならず、やがてくる裁きによる終わりの日を描くこともしていました。
 
私はこれを、さらに自由に想像してみました。頭の中に浮かんだ風景を、皆さまにもお伝えしようと思います。
 
神は「私の家に宿営して、行き来する者を見張る」と言いました。神はこの世を見張っています。虐げる者が弱い者を踏みにじるようなことがないように、神殿から見つめています。この神殿を、いま「教会」と呼んでみることにします。神は、教会が踏みにじられることがないように、見張っているのであり、見守っています。
 
「娘シオンよ、大いに喜べ。/娘エルサレムよ、喜び叫べ」と神が励まします。「神殿」は「エルサレム」にあり、その丘を「シオン」と呼びます。ですからこれらも皆、「教会」へ向けてのメッセージだと受け止めてみます。教会よ、あなたの希望は叶えられる。喜ぶのだ。神が励まします。
 
「あなたの王があなたのところに来る」というのは、やはりキリストが再び来る、というふうに捉えましょう。もちろん、二千年前のユダヤに現れたそのお方でもよいのです。けれども、いま私たちがこの言葉を受けるとき、私たちは、これから出会うキリストのことを、頭に置くことになります。私たちの王が来られる、と言うのです。
 
そのお方は、かつてろばに乗ってエルサレムに入城しました。次に来るときには、雲に乗って来る、という話もありました。しかしいずれにしても、「正しき者であって、勝利を得る者」に違いありません。子ろばというのは、ヒーローが乗るには見窄らしい感じさえしました。けれども、それはイエスに相応しい形でした。
 
人々が想像しないような、へりくだった姿で、今度もまた来るというのでしょうか。
 
「靴屋のマルチン」と呼ばれる物語があります。信仰者トルストイが生んだ『愛あるところに神あり』という短編の俗称ですが、子どもたちにも伝わりやすいように、よく「靴屋のマルチン」のという題で読まれ足り、紙芝居が披露されたりします。
 
不幸が続き信仰から離れた靴屋のマルチンは、聖書を読むように勧められ、よい生活を始めるようになりました。ある日、マルチンは不思議な声を聞きます。「明日、わたしが行くよ」との声に、翌日店の前の道をよく見張っていたのですが、訪れた老人や貧しい親子などがその声の主だとは思えませんでした。ただ、マルチンはそれらの人を親切に扱いました。
 
いったい誰があの声の人だったのだろう。訝しく思うマルチンに、再びあの声が聞こえました。――その後の展開は、どうぞ本編でお楽しみください。クリスマスにも、ぴったりのお話です。
 
◆平和
 
さて、先のゼカリヤ書には、問題の子ろばが登場しました。でもその陰で見過ごしがちなのですが、「娘シオン」「娘エルサレム」と神が呼びかけ、「喜び叫べ」と言っていることを忘れないようにしましょう。これも「教会」を暗示しているように感じ取ることができませんか。もちろん、このへりくだって、子ろばに乗る「あなたの王」、それはイエス・キリストであると私たちは信じて止みません。
 
普通、クリスマスに向けての礼拝でこのゼカリヤ書が開かれるときには、この「子ろば」に乗るということで、それはイエスだ、と指摘して終わることが多いものです。でも、今日はもう少しその後の展開に気を払っておくことにします。神は「エフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ」と言います。もう戦いは必要ありません。「この方は諸国民に平和を告げる」のだと言い、事実上の平和宣言となります。
 
世界史の中で、教会がどれほど争いを起こし、人を殺してきたことでしょう。胸を痛めます。神の敵だ、と決めつけることで、知らない民族や文明を悪魔呼ばわりし、南米の文明を滅ぼしたことから、目を逸らすわけにはゆきません。それでいて今頃になって、「多様性」などという正義を主張し、さも自分たちがずっと寛大さを貫いてきたかのような顔さえすることがあるのです。
 
けれども、「その支配は海から海へ/大河から地の果てにまで至る」という言葉には、希望をもちたいと思います。教会が悔い改めて、主に立ち帰るならば、主の福音は教会の口を通して、地の果てにまで拡がってゆくのです。「支配」というのは「神の国」というときの「国」ということに重なりますから、神の国は世界に拡がってゆく宣言だと読んでもよいと思うのです。
 
11:あなたについては/あなたと結んだ契約の血のゆえに/私はあなたの捕らわれ人を/水のない穴から解き放つ。
 
ここには驚くべき救いの約束を見ることができます。「契約の血」という言葉に、キリスト教徒は、イエスの十字架の救いを見なくて、何を思えばよいのでしょう。これは新しい契約となりました。「捕らわれ人」がたとえバビロンなどの捕囚からの帰還を指して書かれていたとしても、私たちのいまここに於ける世界でも、囚われている人がいくらでもいる、と教会は見ています。一人ひとり「自由」を謳歌しているようで、実のところ自由などないと気づいている人は、実際少なくありません。信仰の心から言葉にしますが、「救われるべき人」が、世の中には沢山たくさんいるのです。
 
ゼカリヤ書は、その後救いの美しさを具体的に表現します。いま一つひとつ読み上げる必要はないと考えます。しかしいま驚いたように、イエスのエルサレム入城に当てはめられた「子ろば」の直後に、「契約の血」について触れる預言があったのでした。そして、神がもたらす「平和」が告げられます。
 
クリスマス。それは、平和をもたらすお祭りだったはずです。
 
「いと高き所には栄光、神にあれ/地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:14)
 
イエスの誕生のときの、この天使の歌を、私たちは存分に歌ってきたはずです。たとえ戦争のときにも、クリスマスの日には敵味方が共にクリスマスを祝った、というような美談も伝わっています。第一次大戦中の「クリスマス休戦」はとみに有名です。私たちが思い描くような形であったのかどうかは別として、せめてクリスマスのときには互いに銃を向けたくない思いがあったのかもしれません。
 
但し、敵が日本軍であった場合は、「互いに」とはなりませんでした。1945年4月1日のイースターの日に、アメリカ軍は沖縄本島に上陸したのです。
 
◆天使のメッセージ
 
クリスマスとは、さしあたりイエスの誕生を祝うものと理解します。しかし、それには先立つ物語がありました。少女マリアの許に、天使ガブリエルが突如訪れます。マリアにしてみれば、青天の霹靂です。ヨセフと婚約状態、つまり実質夫婦の契約を交わしていたときに、神の子を産むと告知されたのです。すでに、親類エリサベトに於いて、何か異常なことが起こっていました。でもそれを聞いたところで、マリアにとっては、自分とは関係のない出来事としてしか捉えていなかったのではないかと思います。それが、いまやとんでもない当事者となったのです。
 
ここを教会で共に読むときには、たいてい、マリヤの天使への返答に光が当てられます。また、エリサベトの前では、いわゆる「マリアの賛歌」と呼ばれる長い詩に注目されます。そして、この異常事態の急襲に対して、マリアが如何に強い信仰をもっていたか、が称えられます。でもいまここでは、天使を通じてもたらされたニュースだけを負って並べてみることにします。ルカ伝の2章です。
 
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(28)
 
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。(30)
 
この後、天使は詳しい説明を、だが一方的にまくしたてるように、マリアに向けます。
 
「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(31-33)
 
マリアがこれを否定するので、天使はダメ出しをします。
 
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類エリサベトも、老年ながら男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」(35-37)
 
如何ですか。少々新鮮な気持ちがしませんでしたか。いつも、マリアの方に関心が向かうのです。いま、天使サイドからの言葉を並べました。実は、これこそが、私たちが聞かねばならない言葉ではないかと思います。神が人間へ向けたメッセージだからです。もちろん私は男の子を産みはしません。けれども、象徴的にですが、クリスマスは、イエスが私の心の中に産まれる、という出来事を意味することがあります。それが、クリスマスの重たい、そして一番大切なメッセージだとは言えないでしょうか。神が、この貧しい心の中に、生まれて宿ってくださるのです。
 
◆神の言葉の実現
 
最後に、もう少しだけゼカリヤ書を追いかけてみましょう。
 
「望みを抱く捕らわれ人よ、砦に帰れ」との呼びかけがありました。人は、この世で罪に囚われています。「私は二倍のものをあなたに返す」との主の言葉に希望を抱きます。「今日もまた」、主は私に告げるのです。「帰れ」と。
 
続いて主は、エフライムやシオンという名で、イスラエルの南北全体を視野に入れて呼びかけます。どんなに神がイスラエルを気にかけ、愛しているかを伝えます。そして、神の側につく者として、「私はあなたを勇士の剣のようにする」とまで、神の敵と戦う力を与えると宣言するのです。
 
その闘いには、主が加担します。いえ、主の力こそが、大勝利を収めるのです。イスラエルも戦います。私たちも戦うのです。大丈夫でしょうか。ええ、大丈夫です。「万軍の主は彼らを守られる」というからです。
 
「その日」、神は救いを成し遂げます。民の輝きがそこにあります。宝石のように地上にきらめくのです。「それはなんとすばらしく/なんと美しい」勝利でありましょう。
 
このようにして描かれているのは、ゼカリヤからすれば将来の様子です。そして私たちにとっても、将来の姿だと見てよいだろうと思います。さらに言えば、これはいっそのこと、「終末」の姿です。預言者が「その日」あるいは「主の日」と呼ぶのは、世界の終わりが来て、イスラエルが救われるときのことをいいます。それを別名で「終末」と呼び交わすのです。実際「終わりの日」と呼ばれることもあります。
 
クリスマスは、そのような意味での「終わりの日」ではないでしょう。けれども、思いを馳せてみるに、クリスマスという祝祭は、主がこの世に来た、神が人となった、ということです。神の言葉は、実現という要素を含んでいるものです。人の言葉は本当にそうなるかどうか分かりませんが、「神にできないことは何一つない」と天使が告げたように、神の言葉は、同時に存在・実在の側面を有しています。
 
イエスの誕生は、救いの約束です。「イエス」という名そのものが、「主は救う」という意味を含んでいたのです。イエスの誕生を祝うクリスマス、それもまた、救いの達成という意味でも、ひとつの終末の出来事として受け止めてよいのではないでしょうか。あなたの救いは、いまイエスが心の中に来てくださったら、この終末の出来事の実現のための、一つの証しになるでしょう。
 
私は信じます。あなたの王は、きっと来る、と。あなたの中に、イエスはきっと来てくださる、と。



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