歴史を学ぶ意義

2025年11月30日

社会科の専任の方が病欠となり、急遽社会科の授業に入ることとなった。しかもこの時期、中3生である。責任重大だが、好い機会だ。自分にしかできないことをしよう。
 
授業でこなすテキストの頁は決まっている。古代から平安京に入るまでの総まとめである。
 
中3生は、さすがにこれまでも模試も幾つも受けているし、講習や授業で、これを覚えろ、ということは言われ続けている。そして一問一答の訓練を、それなりに続けている。成績が特別良いというわけではなくても、それなりに用語は知っている。
 
だが、入試問題は、クイズ大会ではない。歴史全体を視野に置きながら、時代の関係やそれが起こった理由などを考えさせるように、建前の上では作られている。特に近年は、やたら背景事情を詳しく盛った文章豊かな設問が用意されるようになったから、尚更である。
 
そこで、「歴史の流れ」を意識させることに私は専念した。墾田永年私財法が荘園に、荘園が武士の起こりに、それがまた教育と学びにより、支配階級へとなってゆく、そうしたつながりを意識させてゆくのである。
 
また、同じ日の中2生の社会科では、同じく歴史だが、明治維新を話すこととなっていた。そこで、薩長土肥の台頭に触れることとなった。ではなぜ薩長土肥が藩閥政治の中心となったか。生徒に問うた。
 
生徒たちは良い子である。知識があったとか、幕府を倒すのに貢献したとかいう。もちろん、それは正しい。子どもたちは、ある意味で純真なのだ。だが、何故倒幕に貢献できたのか、そこだ。
 
答えは、「金」である。経済の立て直しに成功したのだ。経済の強さが、発言や行動の強さになる。結局現代の国際社会でも、そういうことではないか。
 
地理の分野でも、何々地方で何々が名産となるのは何故か。気候がいい、だけでよいか。都市部に近い。悪くない。しかし究極の答えは、要するにそれが儲かるからだ。わざわざ苦労して作物を育てるからには、それでひとは生活をしなければならず、それが地域経済をも潤してゆく。幾ら綺麗事を言っても、私たちは「食うため」に働かねばならぬ。
 
歴史も地理も、元を極めれば、金の問題である。だが学校教育は、そんなことを教えない。何故これこれが盛んなのか。儲かるから――入試に、そんな答えはさすがに書けない。しかし、世の中を知るということは、大人の社会は何で動くかというと、残念ながら、金に尽きる。
 
米問題も、保育園でも大学や病院でも、金で成り立つかどうかの問題であって、理念や道徳で社会が動いているわけではない。
 
教育の現場では、時折その道徳が重んじられるような逸話が紹介される。自分の田畑の利益を捨てて人々を津波から守ったことが、美談として教えられる。それはもちろん間違っていない。むしろ私はそれを強調してほしいし、それでこそ動く大人たちであってほしいと願っている。だが、そうした美談は、金とは無関係に、思想統制で国を戦争に一気にまとめあげていくのになんと役立ったことだろう。
 
政治的手腕があるのに、色恋沙汰があれば「けしからん、辞めろ」との怒号が渦巻く。時折こうした道徳が正義の道具にすらされるのだが、そのときに、経済はうまくいっている、と弁護するなら、今度はそちらに攻撃の矢が向かう。本音が経済であっても、ときに理念が取り仕切るのだ。
 
戦争は、凡ゆる経済や利益を捨てて、国家という目的のために犠牲を強いる場面である。私たちはそれを、歴史を学ぶ中で、弁えてゆかねばならない。旧約聖書がいまなお読まれて然るべきであるのは、歴史の中にあった、人間のそうした闇のカタログでもあるからだ。



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