難聴者に触れるアニメ二つ

2025年11月26日

偶々先週、アニメの中で二つの目を惹く「証し」があった。いや、信仰についてではない。聴覚障害に関することである。
 
時間的に後の方からご紹介する。「笑顔のたえない職場です。」というお話である。双見奈々という少女漫画家と、そのアシスタントや編集者との交わりを描く物語。
 
連載を増やさないかともちかけられたとき、奈々は、仕事が増えることを悩んでいた。やっぱり増えるのは大変になる、と。編集者が、では何かやってみたいネタはないのか、と奈々に訊く。すると奈々は、バレーボールの漫画を描きたい、と言う。
 
それから、「私、手話ができるんです」と打ち明ける。編集者は驚く。凄いや、と。すると奈々は、身内に耳の不自由な者がいて、読唇術で分かってくれるけれども、「ちゃんと向こうの言語でお話ししたくて」と、手話混じりに答えるのだった。
 
「読唇術」という言葉は普通使わない。「口話」のことだろうと思うが、向こうが読んでくれる情況を伝えるものだったのだろう。
 
相手の言語で話したい。この言葉が、とてもよかった。
 
もうひとつのアニメは、「ワンダンス」という高校生のダンス部の物語。湾田光莉(わんだ・ひかり)という女の子がタイトルとなっているが、夜ひとりで踊る練習をしているところを見た小谷花木(こたに・かぼく)という、吃音をもつ男子がダンスの世界に、生き甲斐を見出す物語である。このカボくんの方が主人公と見てよいだろうという展開ではある。カボくんは、吃音のために自分の考えを相手に即座に伝えることが苦手である。そこへ、ダンスという表現方法があることを知り、ダンス部にワンダと共に入部する。実は彼は音を聴く耳はたいへん優れており、それが彼のダンスの腕を上げてゆく。
 
ワンダは努力家だが、天才的な素質を披露して、高校入学後直ちに脚光を浴びる。だが先週、そのワンダとダンスの関わりについて過去を紹介するエピソードが放映された。
 
それは、中学を卒業して高校入学する前の春休みのことだった。コンビニでワンダはアルバイトを始めた。そのワンダが店のガラス扉に自分を映してダンスの動きをしていたのを、店長が不思議に思って尋ねる。この店長はダンス経験があり、マイケル・ジャクソンのDVDを貸すことで、ワンダは刺激を受け、益々ダンスが巧くなってゆく。
 
ワンダは、アルバイトの最終日、店長とどうしてダンスをするのか、といった話になったときに、父子家庭のその父が、実は難聴者であることを明かす。父は耳が聞こえづらい。でも、ダンスを見ることはできる。父に、「見る音楽」を提供することができるのではないか、と思うのだ。ワンダはそのように話す。ダンスなら、音を聴かせることになるんじゃないかと思う、と。
 
ストーリーの核心にあるダンスというものが、そこに基づいていた、ということが明かされて、店長ならず、私も胸が熱くなった。亦、このとき店長が、では手話を使うのか、と尋ねたのだが、ワンダは適切に、聞こえ難い人のすべてが手話を使うわけではなく、2割くらいだ(推定)と答えていたのもよかった。
 
吃音といい、難聴といい、音に関する労苦は、当事者でなければ分からないものであろう。先般、『難聴を生きる 音から隔てられて』という岩波新書(半世紀前に出版されたものに助けられた著者が現代版を編集した)を読んだが、一人ひとりその困難や辛い体験が異なることがよく分かった。この本は、難聴者の体験談が半分を占め、後半には、聴覚の仕組みから、難聴の実情と人工内耳やノートテイクなどその対策法や行政や社会の対応などが、詳しく説明されている。
 
聖書には、特に旧約聖書では、障害者に対するあからさまな差別がズキズキするほどに記されている新約聖書でも、当時の差別感は滲み出ているが、イエスは、そうした人々を癒やしたという記事に、救われる。『福音と世界』12月号は、その「差別」を特集に掲げていたが、その中でもこのような主題で書かれているものがあった。お手に取られる機会があれば、ぜひお読みくださるようにと願う。その雑誌には、被差別者自身にもまた、差別する心があるのだ、というような記述もあった。被差別者に対する安易な理解を示すことの恐ろしさが、まざまざと伝わってくる。教会は、にこにこしながら、自分たちは弱者の味方です、という顔を見せることがあるが、私は常々、それが一番悪いことだ、という痛みをもっている。
 
そうした中で、先週偶々重なったふたつのアニメの中で、視聴者も、それぞれに何かしら感動を与えられたような反応が感じられる。若い人たちにも、差別者がいないわけではないが、概ね、年配者よりは理解や共感が強いように漠然と私は感じている。小学四年生で、そうした福祉的な授業があることも、役割は小さくないだろうと期待している。
 
えてして、知らないためにひとは気味悪がり、差別の態度に出る。知は力なり、というが、知ることは、実は自分が如何に知らないか、を教えてくれるものである。そして、知ることで、いろいろなことの中に、いままで見えなかった意味を覚えることになる場合がある。自分の思い込みは、外からの光で思い知らされるものである。  
わんだ「ひかり」という名前や、別の視点をもつ「双見」という名前が、どこまで意図されたものか知らないが、私はそういうところにも、感慨を覚えるのであった。



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