(マタイ7:24-29, 出エジプト33:18-23)
そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。(マタイ7:24)
◆聖霊の業
私たちには、神の霊の声が聞こえます。神の霊の力が臨みます。私たちは、「聞いて行う者」となるように、導かれます。そのことについては、また次のメッセージで触れます。
このような形で結ばれた、先週のメッセージを覚えておいでの方もいるでしょう。先週は、山上の説教にはそぐわないような、聖霊という神をお呼びしてお話をしました。でもそれは、聖霊に従って行動することへと目を向けるためでした。聖霊とは何か、を探ろうとしたわけではありません。イエスも、福音宣教を始めたような場面で、聖霊ということについては、何も語ろうとはしません。
但し、イエスの母マリアが受胎したのは、聖霊の業でした。また、洗礼者ヨハネは、自分の後にくる方が、聖霊で洗礼を授けることを預言していました。マタイ伝に於いて、イエス自身が聖霊について語ったのは、「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも来るべき世でも赦されることはない」(12:32)と言った場面に限られます。その後、復活のイエスが天に還るとき、「父と子と聖霊の名によって洗礼」を授けよと命じたときにのみ、「聖霊」という言葉が現れます。聖霊を強調するルカ伝とは違うところです。
もちろん他の福音書もそうですが、マタイ伝は、イエスの十字架と復活を私たちに強く描き出してくれます。その記事が、ただ昔話のように語られるわけではありません。読む者に、私たちに、自分のこととして迫り来るものとして伝えられなければならないのです。それを担うのは、聖霊としての神である、とも言えます。私たちにその言葉は向けられており、私たちは聞かなければなりません。私たちにその言葉が生きて伝わり響くことができるのは、聖霊なる神の業である、と考えられます。
山上の説教は、すべてそういう教えでした。今回、長きにわたり辿ってきた山上の説教についてのメッセージを、いよいよ結ぶときがきました。イエスの語る教えの最後の教えが、ひとつのたとえとして語られます。これを噛みしめて、イエスの説教をしっかりと聞きとりたいと願います。
◆行動
前回お話しした、この直前のところから、振り返ることにします。
21:「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天におられる私の父の御心を行う者が入るのである。
22:その日には、大勢の者が私に、『主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか』と言うであろう。
23:その時、私は彼らにこう宣告しよう。『あなたがたのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ。』」
これを受けて、「そこで」が入ります。「そこで」とは、私たちの感覚では「いま」と訳してもよいような言葉です。
24:「そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
先週は、預言者エレミヤを思い起こし、心の中に生じた、燃える火のような思いを強調しました。それは、もうじっとしてはいられなくなるものでした。口先だけで「主よ、主よ」と言ってそれで満足して終わり、というものではなく、どうしても何かしら行動に移さなければ気がすまないものが、そこにありました。弟子たちはこのイエスの言葉により、行動を促されたのです。その実りは、直ちに、というものではなかったにせよ、イエスの十字架と復活の後、聖霊の力を受けて、逞しく行動する弟子たちへと変えられてゆくことで実現しました。
大切なのは、とにかく行動すること――ではなくて、聖霊の示すことへの行動です。自分の腹、専ら自分の意志に適うことを行え、と言っているわけではありません。たとえ神のため、などと口では言っていても、自分本意で、自分のために闇雲に行動することを、イエスはよしとはしませんでした。
それを行えば、自分が不利になりかねない。いえ、確実に自分が損をする。そうした場面で行動することが、人間にはあります。イエスはそれを、聖霊の働きのうちに見ていたのだと思います。自分の外から降り注ぐ声を、私たちは聴くことがあります。そのために自分の内に、燃えるような思いが生まれ、それが自分を止めることのないように仕向け、行動に移す。「実践する」と言うこともできるでしょう。
自分が損をしても、それをせざるを得ない。その行動の内に、私たちは聖霊の働きを感じるのです。どうしても、それをしなければならない。旧約聖書の信仰者たちもまた、そのようにして神の御心に従う歩みを続けてきたのでした。それは「信仰」による歩みでした。ヘブライ書11章の、いわゆる「信仰者の列伝」は、そうした例を拾い上げたものでした。
◆聞くこと
信仰の生き方、神の意に沿う生き方をしたい、と思います。信仰者は、そう願います。しかし、そのためには、先ず「聞く」ことがなければ、意味がありません。外からの声を聞くのです。人間の思いからではなく、神の言葉を聞く。だから私たちは聖書を読みます。聖書が何を自分に言っているか、それを知ろうとします。知りたいと思います。
確かに、イエスは「聞く」ことを大切にしているはずなのですが、ここでは「聞いても行わない者」の愚かさを暴きます。
26:私のこれらの言葉を聞いても行わない者は皆、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に似ている。
でも、よく気をつけて見れば、そこには、先ず「聞く」ことが前提されていることが分かります。「聞いている」ことを前提として、行うかどうかが問われているわけであって、決して「聞く」ことを蔑ろにしているわけでもないし、聞かずに行うようなことを推奨しているわけではないのです。「聞く」ということは、いわば当然のこととして踏まえていることになります。
もちろん「聞く」というのは、神の言葉を聞くことです。しかし、その「聞く」とはそもそもどういうことを謂うのでしょうか。
「片づけなさい、と言ったでしょ。言うことを聞きなさい」と親が子を叱る。いや、現に親が言うことを聞いていますね。でも、この「聞く」は、ただ音や声を聴覚的に聞いた、という意味ではありません。この子は実際に片づけてしまわなければ、親の要求には応えたことにはなりませんでした。その言葉に従って行動したのでなければ、「言うことを聞く」とは言わないわけです。
私たちは神の言葉を聞きます。でもそれは、「聞いて従う」ところまで含めての「聞く」であるはずです。ただ耳に聞いたのではなく、聞いてその言葉に従うことが必要です。
しかし、叱られているときにはびくびくして、ごめんなさい、などと返事をしておいたにしても、親がいなくなると、片づけることを忘れてしまって遊びに夢中になってしまった、ということがあるかもしれません。この子は、親の「言うことを聞いた」とは言えないでしょうが、しかし、耳で聞いていたことそのものは否定できません。本人は、確かに聞いていたのです。少なくとも、聞いているつもりだったのです。
でも、実のところ、聞けてはいませんでした。喉元過ぎれば熱さを忘れる、とでもいうように、その場限りの「ごめんなさい」の返事には、時間的効力はついにありませんでした。片付けを実行できなかったばかりでなく、言われたことが自分の中に留まらなかったことになります。
神の言葉を二人の人が同じように耳にしました。それは、結果的にその言葉に従って行動したか、行動しなかったか、そこに大きな違いがある。それはよく分かります。けれども、そもそも「聞く」という姿勢そのものがどうやら違うような気がします。二人は、「同じように」は聞いていなかったのです。そもそも聞き方が違うからこそ、行動するかしないか、が分かれてくるのかもしれません。
聞き方そのものの内に、行うことについての岐路がある。そんなふうに捉えてみようかと思うのです。
◆喧噪と静寂
第一コリント13章、いわゆる「愛の章」は、このような表現から始まります。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。(コリント一13:1)
この銅鑼やシンバルの音は、うるさいけれども、とりあえず聞こえる音です。しかし、それが「聞こえた」からといって、何か意味があるというものではないようにも思えます。本当の愛の歌は、ただ聞こえるだけのものではなく、心から聞いてそれを受け取るのだと思います。
私たちはいつからか、これでもか、というほどの音に囲まれて生活しています。店内は、音楽を流さなければサービス不足であるかのように、強迫観念に人々は襲われているようです。電車内のアナウンスも、一応言いましたという責任を果たすだけであるかのように、実に様々のことを喋り続けます。しかし客は誰ひとりそれを聞いておらず、スマホの中の世界に没入し、目の前で誰が困っていても気づこうとする姿勢もありません。
自ら音を出すことにも、無頓着になっています。いま挙げた電車の例ですが、密室の中で喋り続けることが、強制的に何分も何十分も同乗する他者にとっては苦痛であり、考えることも許さないような暴力であるということにすら気づきません。車両にいる者は、カボチャやナスと同じでしかないのです。耳の遠いお年寄りの喋る声が大きくなるのはまだご愛敬かもしれませんが、喋ることがストレス発散であるかのように、たいていは大人が延々と大きな声を出し続けています。それが多くの他人にストレスを与えるなどと想像する力が欠如しているのです。ホームで輪を作り、大声でふざけ合う大人にも、度々遭遇します。
見たくないものは、視線を向けなければ見なくて済みます。しかし音は、耳を塞がない限りは聞こえなくすることはできないのです。祈るときには、できるだけ静かな環境でありたいとは思わないでしょうか。集中して祈る人が、すべての音を心理的にシャットアウトしてしまうことはできるとは思いますが、常にそうあることは難しいものです。
ろう者あるいは難聴の人は、その音が全くないか、または非常に弱く響いてくることになります。聞こえ方には個人差が大きく、一概にどうとは言えないのですが、少なくとも音に頼る生活ができない、とは言えるだろうと思います。
そのろう者の感覚を、「海の底にいるみたいだ」と喩えて説明してくれる人がいます。音に乏しい故に、色彩や美術の方面で才能を発揮する人が多いように感じますが、ウルトラマリン系統の深いブルーを中心とした絵を描くろう者が、そのようなことを語っていました。直接海の底を体験したことはありませんが、映像などから察することで、確かにそういう想像はできようかと思います。
◆信仰の基盤
旧約聖書の時代、町を離れた荒れ野の情景が、よく描かれます。そういうシーンを描く映画に流れるようなBGMもないし、もし独りでそこにいたら、殆ど音のない世界に置かれているようなことにもなるでしょう。預言者は、人と交わらず孤独でいたこともあったでしょうから、そうした音のない時間の中で、神の声を天から聞いたのだろうと思います。
預言者エリヤは、ダビデの時代と、北イスラエル王国滅亡の間の時代に、おもに北イスラエル王国で預言者として活動をしていました。印象的な場面があります。
異教の預言者たちを一掃する大活躍を修めたエリヤは、その異教の中心者イゼベル王妃に命を狙われます。エリヤは荒れ野に逃れ、もう人生が嫌になります。そのとき「静かなる細き声」を聞くのです。私がとても好きな場面なのですが、いまここでそれを詳述することは控えます。「列王記上第19章」を、よろしかったら後でお開きください。
要は、大切な声は、決して大声で宣伝がましく、また自らが正義であると自慢するようにして聞こえてはこないだろう、と言いたいのです。大切な声は、実は簡単には聞こえてこないのです。いえ、それは大切なことが言われていない、という意味ではありません。聞こえないのは、声がないからではなくて、聞こうとしていないからです。電車内のアナウンスは十分必要な音量であるのに――尤も、本当にアナウンスしなければならないのかどうか疑問に思いますが――、聞こうとしないために、誰も聞いていないのです。
24:「そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
イエスが山上の説教で最後に示したのは、「聞いて行う」ということでした。このとき、家を建てるという比喩を用いました。そのたとえには、岩の上と砂の上との綺麗な対比がありました。とても分かりやすい、そして誰の心にも様子が見えてくるような対比です。
24:「そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
25:雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
26:私のこれらの言葉を聞いても行わない者は皆、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に似ている。
27:雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
岩の上に家を建てる――このとき、旧約聖書を知る人には、もしかするとあのモーセの箇所が脳裏を過るかもしれません。約束の地へ導け、とモーセは主に命じられ、エジプトを出るには出ました。しかし、途上に様々な異民族がおり、危険が待ち構えています。また、イスラエルの民も必ずしも従順ではなく、モーセでは治めきれない場合があります。不安に駆られたモーセが、主にその不安をぶつけます。すると主は、安心しろと言います。出エジプト記33章です。
18:モーセが、「どうかあなたの栄光を私にお示しください」と言うと、
19:主は言われた。「私は良いものすべてをあなたの前に通らせ、あなたの前で主の名によって宣言する。私は恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」
20:さらに言われた。「あなたは私の顔を見ることはできない。人は私を見て、なお生きていることはできないからである。」
21:主は言われた。「私の傍らに一つの場所がある。あなたはその岩の上に立ちなさい。
22:私の栄光が通るとき、あなたを岩の裂け目に入れて、私が通り過ぎるまで、私の手であなたの上を覆う。
23:私が手を離すと、あなたは私の後ろを見るが、私の顔を目にすることはない。」
「あなたはその岩の上に立ちなさい」と主は言いました。揺るぎない土台がそこにあります。新共同訳ではここが「岩のそばに」となっていました。どちらの意味にも取れるとは思いますが、英語の「on」のように接触感がありますから、どうであっても、モーセはこの岩と接し、共にあるのです。パウロはコリント一10:4で、その岩がキリストであった、と述べています。そう、「聞いて行う」者は、キリストの上に立つからこそ、倒れないし、流されないでいられるのです。
◆視覚と聴覚
モーセに対して神は、「あなたは私の後ろを見るが、私の顔を目にすることはない」と言っていました。神を見ることはない、というこの言い方が、イスラエルの伝統の中に、神を見た者は死ぬ、というように信じられてゆきました。神に出会って神を見たら、その人は死ぬということを恐れている様子が、幾度も見られます。天使なら見てもよいようにも受け取ることができますが、その辺りも微妙な揺れ動きがあるようです。
では、イエスを見た者はどうなるでしょう。もちろん、どうにもなりません。ただ、聖書の特性として、風貌を描かない、ということがあります。イエスの外見についても、聖書は何も語らないのです。人を描くにしても、手が萎えていたとか、ザアカイについて背が低かったとかいうのはありますが、殆どの人物について、顔かたちは全く分かりません。視覚的な情報が提供されないのです。
白人は白人のイエスの姿を絵に描きました。アフリカでは色の黒いイエスもあるといいます。思えばイエスは中東の生まれですから、イスラエルやアラブの人を思い浮かべるのが比較的妥当な線だとは思うのですが、それでも背格好すら何も知らされていないのです。
だからこそまた、神を偶像化してはならない、という戒めがあるのかもしれません。
イエスの姿を、私たちは見ることがありません。顔すら知りません。顔を知らないけれども、私たちはイエスと向き合うことができます。その声を聞くことができます。目を閉じても、耳を塞いでも、神の言葉は霊に於いて伝わってくることができるのです。
マタイは、情況を説明はしないで、ひたすら山の高いところからの言葉をここまで並べてきました。私たちはそのイエスの言葉を聞き続けてきました。それは戒めでもありましたが、それ以上に、恵みの言葉でした。
◆聞いて行う
こうして、マタイ伝に於ける、イエスの「山上の説教」は幕を閉じます。イエスがこの順番でこの通りに一気に全部語った――そのように考えている人は、たぶんいないでしょう。その後もいろいろな場所で、いろいろな人に出会いながら、イエスは癒やしの業を施したり、教えを宣べたりします。
エピソードとしてその背景が詳しく分かっているものは、そのようにしてまとまった記事になります。しかし、イエスの教えたことだ、ということははっきりしていても、語ったシチュエーションや語った相手などが判明しない教えもたくさんあっただろうと思います。マタイ伝の「山上の説教」は、そういうイエスの断片的な教えを編集した、と理解するのが自然であろうと思われます。
これは、イエスの短い説教のリストとなっています。「幸い」とは何かをまず伝えました。律法を、新しい解釈で完成へと導く道を紹介しました。敵を愛せ、という愛の極みの律法がありました。そこをピークのように訴えると、そこからは、人間に潜む偽善というものを巧みに暴きました。特に、富に対する警告は厳しい戒めとなって提示されました。そして、キリストのでしたが求めるべきは、神の国であることをはっきり伝えました。神の国を求めよ。そのためには、口先だけで十分であるはずがありません。イエスの教えを聞いて、それを行うことが必要になるというのです。
一つひとつの教えが、私たちの心を刺します。真剣にそれと向き合うように促されています。でも、こうして流れだけを見てくると、何かひとつの筋があるように思われてきます。そうした順に流れをつくったのは、マタイ伝の編集者です。その優れた手腕が、そこに現れています。
それでは、その編集者が、教えのカタログのフィナーレを、どうしてこのような形で飾ったのか、それを問うことに意味があると考えてはどうでしょうか。多くの小説家は、小説の最後をどのように描くか、イメージを決めて綴っているのではないかと思います。「終わり」、それは西欧語ではしばしば「目的」という語と同じです。決まった目的へ向けて、物語を綴ってゆくのではないでしょうか。
マタイ伝の「山上の説教」も、この最後の「聞いて行え」という教えによって、一連の教えを締め括ることを考えて書かれていたはずです。
聞いて行う人は、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」に擬えられました。「雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲っても」、土台が岩であれば、倒れることはありませんでした。「聞いても行わない者」は、「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」に擬えられました。「雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家に打ちつけると」、倒れてしまったというのです。
福音書の設定からすると、ここまでの教えを、群衆に教えたのでしょうか。近くに寄って来たのは、「弟子たち」(5:1)でした。「そこで、イエスは口を開き、彼らに教えられた」(5:2)のです。弟子たちだけ、とするのは寂しいのですが、弟子たちにより近く語った、とは言えるでしょう。
「弟子たち」とは誰か。やはり、キリストを信じている者たちです。信じている者に、より重い責任が課せられます。フランス語のまま有名になった、「ノブレス・オブリージュ」の、信徒バージョンのように受け取りましょうか。
さあ、その教えを、教会のメンバーに、こうして伝えましたよ。さあ、あなたは、これらの言葉を聞きましたか。聞いて行うようにしましたか。キリスト者が、これを問われていることは、まず第一に考えなければならないのです。
ここまでの教えを福音書から聞いたあなたがたは、これがもはや律法の説明をしているだけのものとは考えなくなっていることでしょう。イエスは「律法学者のようにではなく、権威ある者のようにお教えになった」のです。神の「権威」を以て、これらの言葉が告げられました。神ご自身が、お語りになった言葉です。それがあなたがたにいま届きました。
こうやって迫ってくるのが、聖書の言葉です。その言葉のうちに、イエスが立ち現れてきます。さあ、あなたはどうするのか。山上の説教を、改めて一筋の教えとして聞くことが必要です。ただ聞いただけで、ただ読んだだけで、満足してはなりません。聞いて行うこと、本当にイエスの教えに生きること、そうしてイエスに従うこと、そこへと、私たちは確かに駆り立てられているのです。