自分を見る場
2025年11月20日

ずいぶんいろいろと、自分は酷いことをしてきた。ところが、そこでいう「自分」というものは、過去の自分である。アイデンティティがどうとかいう議論をするつもりはないが、酷いことをしていた「自分」は、過去の自分である。いまの自分ではない。
それは、過去の自分の中に悪を認識した、ということである。現在の自分についてではない。つまり、突き放した過去の「自分」のことを批判したとしても、現在の自分についての悪を認識しているというわけではない。
こうして人は、過去の「自分」に責任を被せることはできる。現在の自分が未来を生きているとき、その未来の自分が、現在の自分を振り返ったときに、なんて悪いことをしていたのだ、という認識をもつことに、またきっとなることだろう。こうして順々に、過去の「自分」の中に悪を見出すことなら、できるかもしれない。しかし、当の現在の自分が、正にその悪なのだ、というふうに認識することは、なかなかできるものではない。
実際のところ、過去の「自分」に対してでさえ、それは悪だ、という認識がもてない人物もいる。私もそのようであったかもしれない。
現在の自分が悪いことをしている、という意識はもちにくい。しかし、もつことは当然ある。私の悪行は、具体的に述べると、実在の人に迷惑をかけるのでここで挙げることは遠慮するが、ただ個人だけの問題ならば、表に出すこともできるだろう。不正乗車や窃盗は、私だけの問題だ。そしてそれは、しているときに、これは悪いことだという認識がある。
自分が悪いことをしていると気づかないのは、誰か相手がいる場合が典型的だ。相手を傷つけているときには、それが分からないのである。それが、後にドラマや小説などで、自分の姿をまざまざと見せつけられるような体験をもつと、そこから自分の姿を教えられるのだ。自分を客観視することができたとき、自分が如何に酷い奴であるかが分かるのだ。
「聖書」というものがある。いかにも聖い教えに満ちているかのような印象を与える呼び名である。元々は「書かれたもの」と呼ばれる程度であったし、せいぜい「契約」というところだ。「聖い」というのも、意味としては適切だと思うが、それは神が聖いという意味であって、人間のことではない。
むしろ、聖書は人間の罪と悪が、とことん描かれている本である。「罪のカタログ」と言ってもよいくらいだと思う。人間が如何に罪にまみれているか、それが次々と登場する。すると、そこに自分を見出すということがあるのではないか。これは自分の姿だ、と、その罪深い人間に自分を重ねて見るのである。
聖書の世界に、過去の「自分」を見出す――それが、自分の罪に気づく、ということだ。聖書の物語に、自分が描かれている。否、聖書の物語の中に、自分がいる。自分が、その現場にいる。だからこそ、そこに登場する神に、イエスに、出会うことができるのだ。