見えない神が現れる

2025年11月17日

キリスト教が、「愛」という言葉の意味を変えた。日本語での「愛」は元来「偏愛」や「執着」をも表すもので、人間のこだわりの情念を指すものだった。そこから転じて「愛」という訳語が、聖書の神の愛のために用いるようになってから、教会で語る「愛」こそが、その本当の姿として知られるようになった。
 
英語で歌われる歌の中にある「LOVE」は、もちろん人間の愛を歌うときが多いのだが、聖書の愛に基づくものも少なくない。そのときには、「愛」という言葉を出すことがなくても、しみじみと愛を伝えるものもある。サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」は、いまやひとつのゴスペルとして歌われるようになった。
 
ヨハネの手紙の第一は、特にそうした「愛」に満ちている。真っ向から、愛を伝える。だが、あまりにストレート過ぎて、説教するのは案外難しいように思われる。いったい愛のどこをどう伝えればよいのか。
 
今日の説教者が注目させたのは、「見る」ということであったと思う。第一ヨハネ4章の中、7-21節と幅広く取り上げられたが、ここで並べてみるのは、次の三つの節である。
 
12:いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちの内にとどまり、神の愛が私たちの内に全うされているのです。
 
14:私たちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。
 
20:「神を愛している」と言いながら、自分のきょうだいを憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える自分のきょうだいを愛さない者は、目に見えない神を愛することができないからです。
 
神を見た者はいない。だが、互いに愛し合うところ、神の愛がある。そして、御子イエスが来たことを私たちは目撃し、その証人となった。それは、現に見える教会の仲間を互いに愛することによって、見えない神を愛するということができる、ということを意味している。
 
それは、申命記6:5の「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」という戒めを守るとはどういうことであるか、を知らせている。いったい、神を愛するというのはどういうことなのか。それについて、可能な形で、具体的に示したのが、このヨハネの懸命な主張なのである。
 
さて、いまのは私の感じたことだが、礼拝説教に於ける説教者の観点については、幾つか押さえておきたい。
 
第一ヨハネともうひとつ開かれた聖書箇所は、ホセア書であった。「私の心は激しく揺さぶられ/憐れみで胸が熱くなる」(11:8)という、衝撃的な箇所が開かれていた。神の心が揺さぶられたというのも驚きだが、憐れみというものが胸を熱くするというのは、どれほどのものか、とはらはらする。憐れみで心がじんとするとか、切なくなるとかいうのなら分かるが、胸が情熱的に熱くなるのだ。それでも愛したい神の心がそこにあり、それは痛みでいま震えているのだ。説教者はそのような言い方をした。
 
そうして、逆に私たちの立場からすれば、自分が愛されるはずがない、と神に背を向けたときにも、どんなに神が切実に情熱を傾けてくるものか、を伝えようとしていた。本当に痛み、傷つくのは、私たちではなくて、神の方なのだ。「私は神であって、人ではない。/あなたのただ中にあって聖なる者。/怒りをもって臨むことはない」とは、どこまでも、怒りによって滅ぼすなどという私たちが勝手に神について懐くケチなイメージを廃棄する言葉である。
 
それから説教者は、どうしても「教会」を舞台に考える段階をつくろうとする。神の愛はひとつの河であり、その水は私たちの心を通ってゆく。そして、そこからさらに世の人々に流れてゆくであろう、というのだ。それは、私たち一人ひとりであると共に、教会というものがそういうものだ、という視野がそこに広がっている。その河は、新しく命を与える河である。
 
神の愛が流れている場として、確かに「教会」というものがある。説教者は、そのとき神の愛は「見える」のだという。教会に現れる愛は、見えるものであるのだという。それは、たとえば「洗礼」というものが、聖霊の見えないはたらきを見えるものにしたのだ、と言うこととパラレルであるかもしれない。神の愛の現れ、神の恵みの現れ、そうしたふうになぞらえることもできる。「聖餐」もそうかもしれない。
 
こうして、説教者は告げる。教会は、「神の愛の光が射し込む窓」であるのだ、と。ひとは、安心して教会をも住まいとすることができる。特別なときの避難所ではなく、いつもそこにいて、元来そこに属する、我が家という意味での住まいである。そして、毎日そこに安らぎのために帰ることができる。
 
13:神は私たちにご自分の霊を分け与えてくださいました。これによって、私たちが神の内にとどまり、神が私たちの内にとどまってくださることが分かります。
 
私たちが神の内にとどまるのだ、と語っているのだが、この「とどまる」というのが、この住まいとして毎日帰ってくるという図式を示していると言えるだろう。そこが居場所である。そこと常につながり続けることができるのである。そこは愛の家である。愛は、当たり前のように、常に受けることができる。今日は愛があるかな、とびくびくしながら家に帰宅するのは不幸な例である。何も気兼ねせず、頼まなくても自分の居場所があり、心を許して安心できるのが我が家であるとするならば、それは神にある交わりの型であるだろうし、教会もそうあるべきだ、ということに誰も異存はあるまい。
 
11:愛する人たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。
 
神は見えない。だが、見えない神を愛するということはできる。すると、それで終わりではなくて、それがそのまま、ひとを愛することへとつながってゆくことになるだろう。一方的に隣人を愛する、というのも麗しいだろう。しかし、教会はそれぞれのメンバーが、そういう信仰をもつところである。教会では、互いに愛し合うことがあたりまえにできるのである。
 
こうして、説教者は「教会」の美しい信仰共同体の姿を、半ば幻のように描くのだったが、だからこそ、と言うべきだろうか、今日も神は見えない形で現れるのだ、と強く述べた。それは、この教会という場に於いて、いまここで起こっている事実である。私たちはそれを証しする。これが信仰だ、これが教会だ。この愛の河に身を委ねていることでさえ、信仰の確かな証しだと言えるのだ。
 
説教者の説教後の祈りの中で、「教会を窓としてください」という願いがあった。いま現在のそこにある教会が、本当に神の愛の光が射し込む窓であるのかどうか、それは分からない。というより、現実にはそんな綺麗事で語れないものがあることだろう。だが、先ほど私は説教者の言葉として、理解困難な言葉を何気なく挙げた。「今日も神は見えない形で現れる」ということだ。見えないものが現れるはずがないではないか。理屈で考えるとそうである。だが、逆説的なこの表現には、私たちは立ち止まり、咀嚼して、想像と信仰とを交えつつ、味わわなくてはならない。
 
互いに愛し合うなら、愛の行為の中に、愛の交わりの中に、見えない神が見えてくる。それは神でしかない、と、霊ある人は知ることができる。教会は、理想的な神の国のそれでなくとも、この地上に於いて、その見えない神を感じさせる場としては、最も理想に近いものであるはずなのだ。
 
そういう「教会」は、どうしたら現実化するだろうか。それは、神と出会った者が、神から言葉を受け、神を礼拝するためにその言葉を語ることによって、である。人間の思想を述べたいために神の言葉を利用するなど以ての外だ。神を知らない者が、聖書を調べて尤もらしく語るのが説教ではない。聖書講演会は要らない。というより、そういうものを礼拝だとして表に出しているのは、偽物であり、詐欺であり、罪深いことである。
 
説教する者は、神の愛の光が射し込む窓の役割を果たす、と言ってもいいだろう。説教者が最後に祈った、「教会を窓としてください」という祈りは、自分をその窓にしてください、神のいのちの言葉を語る者として下さい、という祈りでもあったに違いない。



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