【メッセージ】主の御名によって

2025年11月16日

(マタイ7:21-23, エレミヤ20:7-13)

私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天におられる私の父の御心を行う者が入るのである。(マタイ7:21)
 
◆アーメン
 
教会で誰かひとりが代表して祈ることがあります。食事やちょっとした会合の前後でも祈りますし、礼拝の中で「公祷」という形で代表者が祈ることもあります。説教の前後で牧師が祈ることもありますが、こうしたとき、よく「一言お祈り致します」と言いつつ、それが「一言」であった試しがない、というのが実情です。
 
誰かが祈るとき、他の人々は共に目を瞑り、手を組み合わせて、その祈りをじっと聞いています。大抵は俯いていますが、本来ユダヤの祈りでは、両手を天に向けて挙げ、見上げる形で祈っていたと思しき見解があります。私もそうだろうと思います。が、ともかくここは奥ゆかしい日本の地。俯いて祈るのが流儀となっているようです。
 
祈る者は、最後に、決まり文句を口にします。「主の御名によってお祈りします」というような言い方で、これで終わりだという合図を知らせます。そのフレーズを耳にすると、周囲の者たちは構えます。全員で呼吸を合わせるかのようにして、「アーメン」と唱和します。
 
「アーメン」とは、「確かにそうです」「まことに」というような気持ちを伝えることができる語で、聖書の訳でも、そのまま「アーメン」と表記している場合があります新約聖書はギリシア語で書かれていますが、旧約聖書のヘブライ語の語そのももを、ギリシア語表記で、つまり英語をカタカナで書くように、「アーメン」としているようです。
 
クリスチャンを冷やかす言葉に、「アーメン、ソーメン、冷やソーメン」というのが定番だった時代は、もはや過去のものでしょうか。昔の様子を描く描写として、映画で見ることも偶にあります。度々クリスチャンが、「アーメン」と唱えていることは、それなりに有名だったようです。
 
ヨハネ伝では特に、この「アーメン」の語を独特の使い方で、イエスが大切なことを言うときに、「よくよく言っておく」という訳で、20回ほど登場するのが目立ちます。それで、この「アーメン」という語にはとても関心が呼び起こされるのですが、今日はそのお祈りによく出てくる、別の方の言葉に着目致します。「主の御名によって」というフレーズです。
 
◆名は本質
 
「名は体を表す」という言葉があります。日本にはよく「言霊信仰」がある、と考えられていますが、こういう風土にいると、肌で感じることもあると思います。「名」は尊いものなのです。その「名」は、その存在者の本質を表す、と考えられているわけですが、それは必ずしも洋の東西を問わずあるようです。
 
聖書に次いで読まれている本、というふれこみの本はいくつかあるようですが、バニヤンの『天路歴程』もそうです。17世紀に書かれたものですが、350年を経てもなお、それほど古びることなく、鑑賞に堪える内容となっています。主人公は、正篇では「基督者」あるいは「クリスチャン」と呼ばれ、他の登場人物は「強情者」とか「信仰者」「饒舌者」「無知者」とか、正にそういう存在として割り当てられて登場し、そのような名で呼ばれています。
 
日本の昔話ですぐに思い出すのが、「大工と鬼六」です。鬼に橋を架けさせたところまではよかったが、鬼の名前を当てろと迫られ、大工が苦戦するお話です。「ゲド戦記」では「真の名」というものがその者の本当の姿を表すものだとして、物語の鍵になっていました。それを知られてしまうと、その人は相手からコントロールされてしまうというのです。
 
日本で特有なのかどうか知りませんが、地位ある人物を名前で呼ぶことは失礼とされ、ただ「社長」とか「監督」とか、役職や肩書きだけで呼ぶのが慣例になっています。要するにその組織にとっては役職こそ重要なのであって、個人がどうする、ということではない、という意味なのかしら、と私は勘ぐっています。庶民だと、これが「家」を尊ぶということになって現れるようになってゆきます。
 
いま放映中のNHKの朝ドラ「ばけばけ」でも、明治になりながらも武家であることを誇る主人公一家が、「家のため」としきりに強調するように設定されていました。今でこそ和らいだかもしれませんが、「家の名を汚す」というのは、古来最大級の罪でした。「家」のために「名」を残すことが、生まれ落ちた者の務めであったのです。
 
しかし旧約聖書でも、亡くなった夫の兄弟と結婚するという「レビラト婚」が一般であり、それはその「家」に与えられた土地を守るために必要だった、と考えられており、律法や物語の中で幾度か見ることがあります。
 
「名」を重んじることは、神についても同様で、聖書にはしきりに「神の御名」という表現が現れます。「御名」というのは敬称としての訳語であり、端的に言えば「神の名」ということです。神の名もまた、神の核心に触れる大切なものと見なされました。神の力は、その名にあるものと考えられていました。
 
「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト10:7)というのは十戒の重要な掟でしたし、神はモーセだけにその名を伝え、「私は、アブラハム、イサク、そしてヤコブに全能の神として現れたが、主という私の名は彼らに知らせなかった」(6:3)とも言いました。このとき神はモーセに、「私はいる、という者である」(3:14)とその名を明かしたのですが、これはとても奇妙な名であるように見えました。
 
イエスもまた、「私の名によって願う」ことの意味を、特にヨハネ伝では繰り返し伝えていました。マタイ伝では、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(18:20)という慰めを与えました。「神の御名」については、いくら挙げてもきりがありません。
 
◆神の名
 
こうして私たちは、イエスの名によって祈るようになりました。「あなたがたが私の名によって願うなら、父は何でも与えてくださる」(ヨハネ16:23)という約束を握り絞めていることになります。また、イエスのことを「主」とも呼ぶようになりました。自分が「僕」あるいは「奴隷」である立場として、仕える「主人」を表す言葉です。
 
神を「主」と呼ぶとき、自分は神の前に奴隷であること、神が主人であるとということを表しています。聖書には「神」について、いわゆる「神」という訳語を使う場合と、別の原語では「主」と訳す場合があります。「主」というのは、最も良い訳であるかどうかは分かりませんが、なかなかよい案ではないかと思います。そこには「主人と奴隷」という対比による関係が成り立っているものと理解することができるからです。
 
ところがこれは気をつけなければならないことなのですが、時に、それとは正反対のような態度であるような場面を見ることがあります。自分が神より上に立ち、神を従えようとするのです。これは巧妙に仕掛けられた罠でもありますから、本当に気をつけなければなりません。だから私たちは、祈りのときにも、自分の思いや願いのために神をロボットのように操ろうとしていることがないかどうか、吟味する必要があると思われます。
 
では、「イエス」と呼び捨てにすることはどうでしょう。先日、説教の中で、神学校時代に、そういう言い方を戒められた、という話を耳にしました。「イエスさま」、それならよいのだそうです。でも私は、「さま」を付けないから尊敬していない、ということにはならないようにも思います。「主イエス」でも、イエスを「主」とするのですから構わないはずです。イエスが主人であり、自分は僕である。これはひとつの信仰告白でもあることになるでしょう。
 
先にも挙げましたが、「十戒」という律法の根本に於いては、主の御名をみだりに唱えることが禁じられています。マタイ伝のこの山上の説教でも、これに触れることがありました。特にマタイは、ユダヤの律法を非常に重んじますから、神の名を軽々しく口にすることを控えました。そのため「神」という語すら極力使わないようにし、それを「天」と言い換えているほどです。
 
神の本当の名、真の名を口にすることを憚って、聖書を記述するとき、子音に、本当の読み方を書かずに、いわば「主」というような読み方をユダヤの方式で書いたために、「エホバ」という誤った読み方がなされるようになった、というのが背景の事情ですが、煩瑣な説明はこれ以上は避けますね。ともかく、神の名をみだりに唱えないためのカモフラージュである、というのが近代の研究の結論です。「地球」に「ほし」と振って読んだり、「真剣」を「マジ」と読んだりするのと似ている、とすれば意味は伝わりやすいでしょうか。
 
信徒は、とにかく神の名を安易に口にするとよくない、ということは薄々分かっていました。英語で「ちくしょう」とか「なんてこった」とかいう意味を言うときに、「ゴッド」や「ジーザス」の語を使うのは、どういう背景であるのか、私には理解しかねますけれども。
 
◆預言者
 
しかし聖書の中で、イエスの他に、神の名を盛んに口にする人たちがいます。ただ祈るときに「主よ」と呼びかけることは、祭司的な役割をするときにはよくありましたが、殊更に多く「主」の名を持ち出すのは、預言者です。「主は言われる」というようなフレーズを先ず出して、以下が神の告げた言葉であることを宣言するのです。これは神の言葉なのだ、と人々に権威を示すことができるわけです。
 
もちろん預言者は、みだりに唱えるためにそう言っているわけではありません。「預言者」が「予言」をする役割ではないとされて、「預言」という表記をとれるのは、漢字が使える国ならではのことなのかもしれませんが、こちらは、「言葉を預かる」という意味に受け取れますから、「神の言葉を預かる者」が「預言者」だということになります。
 
預言者の言葉は、必然的に「主の名」を告げることになるでしょう。しかしここに、主の名を告げたばかりに余計な苦難を強いられた預言者がいます。否、そもそも預言者というものは、苦難を背負うことになるはずだ、とお思いかもしれません。世間とは異なる価値観を掲げることになると、衝突もやむを得ないかもしれません。
 
けれども、それが幾度も幾度も繰り返されると、心底嫌になることもあるでしょう。偶々あるときに叫んだことが記録されている預言者の書もいくつもある中で、エレミヤという預言者の預言は、激動の時代に、あれやこれやの現実を背景に、沢山の預言を遺しました。
 
このエレミヤは、ユダの滅亡に関する歴史の中に生きていました。大国に襲われる風前の灯のユダ王国に於いて、70年を経れば捕囚から戻って来ることができる、という神の言葉を受けました。盛んに人々の思惑に反することを告げたので、何度も入牢したり迫害を受けたりしました。書いた警告の書を燃やされたこともありました。このような、エレミヤの生涯の出来事が、エレミヤ書にはふんだんに書かれています。エレミヤの言葉というよりも、まるでエレミヤの伝記のような預言書です。
 
このエレミヤの預言の中には、非常に重要な預言があります。エレミヤによってもたらされた、「新しい契約」とも呼ばれ得るものです。これほど、預言者個人の人生を絵描ききった預言書は他にありません。これはひとつの歴史書としての勝ちを有しています。
 
◆エレミヤ
 
さて、今日問題の箇所を改めてお読みします。エレミヤ20章でエレミヤは、主に楯突くのです。
 
7:主よ、あなたが惑わしたので/私は惑わされました。
 
主に騙されたのだ。なんとかしろよ。嘲られ、「モームリ」と叫んだのです。決してブラック企業での勤務に耐えられない、というようなものではありません。主の言葉を告げれば、この世の中で酷い目に遭うのです。そんなことであれば、命が幾つあっても足りない。やっていられない、というふうに、いわばキレました。主から、人々に告げるように託された使命に、もう耐えられないというのです。但し、単に無理だと言っているのではありませんでした。ここが、さすが預言者です。
 
9:私が、「もう主を思い起こさない/その名によって語らない」と思っても/主の言葉は私の心の中/骨の中に閉じ込められて/燃える火のようになります。/押さえつけるのに私は疲れ果てました。/私は耐えられません。
 
聞きましたか。エレミヤは、もうやっていられない、と神にぶつけたのです。もう預言者を止めます、とまくしたてたのです。「もう主を思い起こさない/その名によって語らない」とさえ決意します。でも、主はエレミヤの中に不思議な心をつくります。
 
エレミヤの中には、主の言葉がありました。心の中に、骨の中に閉じ込められたその言葉は、噴火をしたがっているマグマのように、エレミヤの霊の中で活動し始めます。神の言葉がいま、火のように燃えるのです。
 
それに対してエレミヤは、なんとかそれを抑えようとします。いいや、自分はもう預言なんかするものか。やっていられないのだ。神の言葉など――と自分に言い聞かせようとするのですが、それには多大なエネルギーを要します。そのエネルギーがなくなりました。「疲れ果てました」と諦めます。ギブアップです。もうやっていられません。
 
11:しかし主は、恐るべき勇士のように/私と共におられます。
 
疲れ果てたエレミヤを、神はそのままにはさせません。エレミヤは主が共にいることが分かっています。しかもそれは、優しい慰めの故に、というよりは、「恐るべき勇士のように」そこにいます。主は「万軍の主」なのです。戦う主です。地からによって勝利する約束を掲げた主なのです。エレミヤはそういう経験をして、ついに穏やかになります。平安を与えられます。
 
12:正しき人を試み/思いと心を見られる万軍の主よ。/私に見せてください/あなたが彼らに復讐されるのを。/私はあなたに向かって/私の訴えを打ち明けたのですから。
 
主の名を語るという営みに於いて、これほど正直で、逞しい信仰があるでしょうか。
 
◆聖霊
 
エレミヤのは、主の言葉が自分の中で燃え上がり、抑えつけることもできない、という逞しい信仰を見せてくれました。自分ではもう語ることをするものか、酷い目に会い続けてやっていられない、と自ら決意したところで、燃える思いはブレーキをかけることもできませんでした。
 
それに対して、マタイ伝の山上の説教に於いてイエスは、「主よ、主よ」と口にする者の中に、神の国とは正反対の輩がいることを占めそうとしていました。
 
神に向かって、「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない。「主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか」とアピールしても、イエスは認めようとはしません。自分でこれだけのことをしたのですよ、という点に、イエスは価値を置かないのです。
 
エレミヤは、口ではむしろ神に逆らいました。もうやっていられません、と挑戦をたたきつけました。もう預言することなってまっぴらだ、と文句たらたらでした。それでも、主の言葉が自分の内で火のように燃えている、と言うのです。
 
エレミヤ自身の熱意がそうさせているのではないことは明らかです。思うに、「聖霊」というのは、そういうものではないでしょうか。神は「聖霊」という形で、イエスの姿を地上で見失った人間たちに、神の力を注ぐことを約束します。旧約聖書の時代でも、「霊」は存在します。「霊に満たされた人」(民数記27:18)とヨシュアのことを呼びましたし、ベツァルエルなる技術職人に「神の霊」(出エジプト31:3)を神が満たした、とも言っていました。イザヤは、後にダビデに、あるいはイエスについて、「その上に主の霊がとどまる。/知恵と分別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れる霊」(イザヤ11:2)と預言しました。このようなことは、枚挙に暇がありません。
 
あなたにも、そのような経験があるのではないでしょうか。自分では否定したくても、止めることができない、何か熱い思いというものです。それは何故だか分かりません。ただ、自分の意志に反して、自分を突き動かして止まない何かを感じるのです。
 
「このくらい、ごまかしてもいいや」と思うとき、「やっぱりできない」と止めたことはありませんか。「見過ごしても構わないだろう」と思いながら、「やっぱり何かしてあげたい」と行動したことはありませんか。
 
ある夜、帰宅途中の乗換駅で、電車が来るまでに10分間ほどありました。ベンチにいた人の様子が変なので気になりましたが、横になり、眠り始めました。どうやら酔っているようです。具合が特に悪い様子はありませんが、このままここで眠り続けるのもどうか、という気がします。声をかけようか、とも思いましたが、間もなく電車が来ます。構ってあげる余裕はありませんでした。「まあ、放置しておいても害はないだろう」と思いましたが、やはり気になって、エスカレーターを降りて駅員にそのことを知らせに行きました。「酔っているのか、ホームに寝てしまった人がいます」と、とにかく伝えに行きました。「分かりました」と若い駅員は言ったのですが、その後私が乗り換え電車に乗ってしまうまで、駅員が来ることはありませんでした。そういうことは相手にしない規則があるのかもしれませんが、何かあってはいけない、と私なら職務で動いたことだろうと思いました。
 
皆さまだったら、もっと重大なこと、そして勇気の要ることをしたことがある方もきっといらっしゃることでしょう。私は、それをさせたのはきっと聖霊だと思います。神が、あなたに干渉したのだ、と思います。
 
◆聞いて行う者
 
いまのように、自分の意志に反して、見過ごすことができないで、しかも大抵の場合、自分の損になるようなことをした、というようなとき、クリスチャンのあなたは、「主よ、主よ」と称えたでしょうか。「御名によって」これこれのことをします、と決意表明をしたのでしょうか。いえ。たぶん、そんなこととは直接関係がなかったのではないかと思うのです。
 
ようやく、山上の説教の文脈に飛び込むことにします。マタイ伝では、「神」の名を呼ぶことに、十戒的な観点からか、少々躊躇いを覚える様子が見て取れます。そこで、「神の国」と言えばよいところを、「天の国」と呼びます。天の国には、「天におられる私の父の御心を行う者が入るのである」とイエスは告げました。「行う」という言葉には、特にプロテスタントの信徒は敏感になります。「行い」ではなくて「信仰」というスローガンを、聖書の基礎に構えるからです。パウロのそういう言葉を、ルターは強調しました。そのため、「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」(ヤコブ2:24)などと書いているヤコブの書の悪口を言った、とも言われています。
 
けれども、イエスは確かにここで「行う者」を肯定しています。しかも、「悪霊を追い出し」、「奇跡をたくさん行った」とまで言った大勢の者に対して、「あなたがたのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ」とまで宣告しています。彼らは、十分「行った」のではないでしょうか。
 
サマリアの町に、魔術を使って、自分は偉いと思い込んでいたシモンという人がいました(使徒8章)。イエスの弟子のフィリポがその町に来て、シモンも洗礼を受けたのですが、フィリポの為すしるしと奇跡に驚きの目を見張りました。「シモンは、使徒たちが手を置くと霊が与えられたのを見、金を差し出して」(使徒8:18)、その力を金で買おうとします。これに対してペトロは、「この金は、お前と共に滅びるがよい。神の賜物が金で手に入ると思っているからだ」(20)と叱責しました。
 
そうです。何かをした、何かをしてやろう、という自慢めいた気持ちは、この程度のものなのです。思えばイエスは、ただ「行った」、行動した、ということだけを言っているのではありませんでした。「父の御心を行う者」こそが、天の国に相応しいのでした。父なる神と子なる神としてのキリスト、そして聖霊なる神については、キリスト教では「三位一体」という用語で示すように、同じ神を指すものとしています。「父の御心」は、「聖霊」の働きに相応しいように思われます。「父の御心を行う者」は、従って、「聖霊が告げることを行う者」と同じように理解することができようかと思います。
 
エレミヤ書は、明らかにそれが「聖霊」によるものだとは書いていませんでした。しかし、私たちは、そういうところに「聖霊」が働いている、と見なす新約の信仰の中にいます。大切なのは、聖霊の示すことへの行動なのであって、自分の腹、専ら自分の意志に適うことを行うことを、イエスはよしとはしなかったことになるのでしょう。たとえ自分に不利になろうとも、自分の外から降り注ぐ声を聴き、そのことで自分の内に燃えるような思いが自分を止めることができないように仕向け、行動する。そこに聖霊の働きを私たちは感じました。
 
その火を抑えつけることはできません。エレミヤならば、神から受けた言葉を、世に語らないわけにはゆきませんでした。どんなに迫害を受けようとも、脅迫を受けようとも、神からの言葉を語るという使命を、抑えこんでしまうことはできませんでした。私たちが、自分の思いから「御名によって」祈り、また何かをしたとしても、それは偽りです。偽善行為です。結局のところ、自分のしたいようにすることを正当化するくらいのことであり、そのとき神を自分の支配下に置いて、神を利用しているだけ、ということにさえなるのです。
 
私たちには、神の霊の声が聞こえます。神の霊の力が襲います。私たちは、「聞いて行う者」(7:24)となるように、導かれるのです。そのことについてはまた、次のメッセージで触れることに致します。



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