「訊く」と「聴く」
2025年11月14日

『考えるマナー』という面白い文庫の中で、鷲田清一氏が記していたなにげない一言が心に留まっている。「訊く」ことから「聴く」ことへ移ろう、というのである。
文脈があるから、そこで鷲田氏が言おうとしたことにまつわる紹介の仕方もあるだろうが、それを通じてであっても、いまは私の中で沸き立てられた思いのほうに話を走らせてみようと思う。
かねがね、不思議に思っていた。「きく」という言葉は、自分の耳に音や声を入れることが標準の意味だと思われるのに、他人に尋ねることを「きく」というのだ。他人に何かを話してもらい、それを自分の耳で聞きとる、という流れがそこに隠されていて、だから他人の声を呼び起こす質問行為を「きく」と言うのだろう、と推測できる。
だが、漢字で普通「聞く」と書くから、「他人に聞く」と書くのが、どうにも馴染めない。「他人に話してもらい、それを聞く」というのが元来の意味合いだったのだろう。しかし私たちの社会では、ニュアンスとしては、「質問する」感覚で「きく」と言っているような気がする。そのとき、「聞く」という漢字がそぐわない気がしてならない。
そこで「訊問」からの連想なのか、問い質すという意味のような感覚で、「訊く」という漢字を宛てるようになったのだろうか。私も、その意味で「訊く」と書くことにしている。
鷲田氏はというと、心を痛める人の心を癒やすための道として、このことを提言していた。もちろん、それは病気という意味に限らない。私たちは子どもに問う。どうしてそんなことをしたの。それでよいと思ったの。この質問は、殆ど反語に近い。そんなことをしてよいわけがないから、安易に肯定する返答をすることができない場面である。
それでも、思い通りにならない子どもに対して、大人はすぐに問う。ああだこうだと「訊く」。しかし、必要なことは、その子が、言葉にならない声をなんとかして出そうとするのを待つことであり、その声を「聴く」ことであるのだ、いう。
「聴く」こと。それは、「聞く」よりもいっそう耳を傾けて「きく」ことである。「聞く」には、ただの聴覚がはたらいただけという意味での「聞こえる」のために使うニュアンスが隠れている。だが「聴こえる」という漢字の使い方は、普通しないものだ。聴診器だの傾聴だの、耳も心も傾けて相手の本当の思いを知ろうとする営みに於いて使いたい漢字が「聴」であるだろう。
神に問いたくなるときがある。あるいは、神に文句を言いたいときだ。しかし、それは神に「訊く」ことではあっても、「聴く」ことにはならない。こちらから発するのではなく、発されてくる声は何かを聴き取ろうとすることが必要である。祈りに於いても、こちらから神に願いをぶつけるばかりで、それをどうしてくれますか、と「訊く」ようなことが常態になっているかもしれない、と思うと恥ずかしい。神からの声を「聴く」ことこそが、神を知る道である。
もちろんこの「知る」は、知識の問題ではない。全人格で交わり、相手とひとつになるような経験を意味する。神と出会うには、神からの声を聴くことが第一なのである。聖書を開きながら、あるいは何かを体験しながら、聖書の言葉が自分を貫くことがある。聖書に刺されると、痛い。だが、その痛みが、神からの言葉で、あるいは吹いてくる風で、癒やされる。それが、「聴く」ということなのだ。
鷲田氏は言っていた。「聴く」ということ、それは「時間をあげること」である。こちらのペースに相手を合わせるのではなく、相手のペースを尊重することだ。神からの言葉も、待つことが大切だということが、ここからもよく分かるというものである。
ところで、デフリンピック東京大会がついに開催となった。すでに百年の歴史をもつ大会だが、日本で開催されるのは初めてである。通常のオリンピックにも、パラリンピックにも、受け容れられないようなろう者の立場から始めたイベントである。ろう者についての理解が進むことを願う。
私たちが「聞く」という言葉をなにげなく使うときにも、ろう者だったらそれをどう理解しているのか、心の中に思い描くことができるほどまでに。