【メッセージ】実を結ぶ教会へ

2025年11月9日

(マタイ7:15-20, 創世記49:22-27)

このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。(マタイ7:20)
 
◆実を結ぶ
 
「偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑わす」(マタイ24:11)、あるいは「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとする」(24:24)というように、マタイ伝で「偽預言者」とは、世の終わりのときに現れて、人々を惑わす者だと認識されています。
 
15:「偽預言者に注意しなさい。……
16:あなたがたは、その実で彼らを見分ける。
 
「実」によって彼らを見分けることができる、とするのですが、さて、その「実」とはどういうことなのでしょうか。一種の比喩とかメタファーとかいうものと見てよいでしょう。すでに洗礼者ヨハネが、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3:10)と、ファリサイ派やサドカイ派の人に向けて言っていましたが、ここでもイエスが、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と、全く同じことを告げています。編集者マタイのうっかりかもしれません。どちらに帰せばよいのでしょう。要するに、マタイが、ユダヤのエリートたちにぶつけていた、ということなのでしょうか。
 
それにしても、やはり「実を結ぶ」という言葉が気になります。もしかすると私たちが、勝手にそれぞれその意味をイメージしているだけなのかもしれません。できるだけ聖書の記述に沿って捉えたいとは思うのですが……。
 
パウロはそのガラテヤ書に於いて、「霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(5:22-23)であると告げています。詩編では、主の教えを愛する者が「時に適って実を結び、葉も枯れることがない」(1:1)と祝福されていました。旧約の時代から新約の時代まで、「実」というメタファーは、大切に扱われて引き継がれていた模様です。
 
そのような人になりたいものだと思います。しかし、悪い実は火にくべられる、という脅しが繰り返されることにはには、怯えてしまいます。いったい自分は、何の実を結んでいるのだろう、と省みると、情けないものに見えてくるからです。
 
預言者エレミヤは、バビロン捕囚に立ち合うこととなります。その脅威をユダの人々に警告しますが、真摯に聞いてもらえません。却って、敵は神の都には手を出せない、と神の名を以て語る預言者がいて、人々はそちらの言うことに耳を傾けました。エレミヤからすれば、それは偽預言者に他なりません。
 
「あなたがたに預言する預言者たちの言葉を/聞いてはならない。/彼らはあなたがたを空しいものにしようとしている。/彼らが語るのは自分の心の幻であって/主の口から出たものではない」(エレミヤ23:16)
 
この23章で、エレミヤは偽預言者たちとそれを指示する権力者たちを、徹底的に非難します。しかし、互いに幻を言い合っているだけでは、どちらもイーブンです。そこでエレミヤは、預言者ハナンヤとの対決に於いて、危機は去ると主張するハナンヤに対して、こう突きつけました。「平和を預言する預言者は、その言葉が成就したときに、本当に主が遣わされた預言者であったと分かる。」(28:9)
 
実はモーセも、神から直にそのようなことを言われたことがあります。
 
その預言者が主の名によって語っていても、その言葉が起こらず、実現しないならば、それは主が語られた言葉ではない。預言者が傲慢さのゆえに語ったもので、恐れることはない。(申命記18:22)
 
「預言者」は、現在では差し詰め「牧師」や「伝道者」に重なるでしょうか。神の言葉を取り次ぐからです。あなたの教会の指導者に対して、あなたはこのような眼差しを向けているでしょうか。安穏と信用していることが、信仰ではないのです。
 
◆結果主義
 
以前塾で教えていた生徒に、「結実」という名の子がいました。「ゆみ」と読みましたが、「ゆうみ」と読むこともできるかと思います。「実を結ぶ」という言葉で、その両親はクリスチャンかしら、と想像しましたが、事実は確認できませんでした。ステキな名前だと思いました。女の子が生まれたらその名を考えてみようかと思いました。結局、その機会は与えられませんでしたけれども。
 
「実を結ぶ」という言葉に注目しています。それはなんだか、結果が出ることを重視するような言葉に聞こえます。結果が出なかったら、実を結ばなかった、というでしょう。
 
17:すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
18:良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。
19:良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
 
ここでのイエスにしろ、聖書はしばしば、実を結ぶことを事態の結論として示すことがあります。私たちはそれを見て、結果がすべてであるような気持ちになります。「結実」とは正にそういうことだからです。成果主義を聖書は教えているのでしょうか。
 
確かに、キリスト者はひとつの結果を見つめています。裁きの日、終末の主の日に、結果が出るのだ、と考えるのが信仰です。イスラエルの信仰がそうでした。たとえいまの世の中での民族の情況が悲惨であっても、いつか神がイスラエルを救う、という必死な信仰が、この民族を支え導いてきました。
 
けれども、信仰する私たちキリスト者にとっては、結果を目的として掲げ、それを目指してすべてのことを手段とする、という生き方は、しっくりこないような気がします。結果さえよければ、という言い方を是とする論理とは違うように思います。
 
結果を求めるというよりも、私たちは、「結果が成る」という見方をしているのではないでしょうか。私たち人間が結果を目指してあくせく何かを営むというよりも、神がもたらすことでその「結果が成る」と理解していると思うのです。「結果を出す」のではなくて、「結果が成る」のであり、その「結果を待つ」と言う方が適切であろうように感じられてなりません。
 
だから、私たちに貢献できることは「過程」であって、その過程が結果を導くのであるように思われるのです。何か私自身がひとつの結果を出したとしても、それがすべての結論なのではありません。私のもたらす結果は、ひとつのスタートに過ぎません。私の行動は罪かもしれません。しかし、イエス・キリストは救いの業を実現します。それに委ねるならば、もう私の描く筋書き通りに運ぶというような未来は描けません。人間めいた筋書きは要らないのです。後は神が、その力によって現実をもたらすことでしょう。
 
人の目から見れば、未来は何も見えません。ぼやけているどころか、どちらへ向かって道が続くのすら分かりません。けれども、神からすれば、それはもう決まっています。すでに勝利している神は、私たちが「未来」と呼ぶ時の中でも、その言葉を実現するだけとなっています。
 
すでに勝利している。そういう意味合いでなら、いわゆる「予定説」は正しいのだと思います。人間のイメージする「予定」ではなく、神の勝利という「結果」は、確かにすでに定まっているのだ、と言えるからです。人がその結果に参与するためには、自らの罪に死に、復活のイエスに生きることが必要です。私たちは、復活のイエスにあってこそ生きるのです。生かされるのです。
 
◆ヨセフ
 
旧約聖書の創世記は、多くの魅力的な物語を掲載しています。やんちゃなヤコブの冒険もわくわくしますが、その子ヨセフの波瀾万丈の生涯は、大河ドラマになり得る魅力を有っています。生意気な弟ヨセフは、無邪気に兄たちが自分にかしづく夢を見たと語り、兄たちの反感を買います。機会を見てヨセフを殺そうと兄たちが謀りますが、命まで奪うのは忍びなく、結局商人に連れ去られてしまいます。
 
ヨセフはエジプトで奴隷となりますが、頭が良かったのか主人に信用されるようになります。ところが主人の妻の誘惑を断ったために牢に入れられますが、そこで見た夢がきっかけとなって、やがてエジプトの危機を救うことになります。飢饉のために食糧を蓄えておいたのです。「人間万事塞翁が馬」という言葉を思い起こします。
 
エジプトで王に次ぐ地位に就いたヨセフの許に、イスラエルの地から食糧を買いに来た兄たちは、目の前の宰相がヨセフだとは気づきません。ヨセフは自分の純粋な弟ベニヤミンを連れてくるよう命じ、会えると涙を抑えられず、その身を明かします。飢饉のイスラエルの地から父ヤコブを呼び寄せ、一家はエジプトで暮らすこととなりました。
 
やがて、ヤコブがこの世を去る時が来ます。ヤコブは、子どもたち一人ひとりに対して、祝福の預言を与えます。それがイスラエル十二部族の特質となってゆくのですが、このとき、ヨセフに対して、このようなことを告げています。
 
ヨセフは実を結ぶ若木/泉のほとりで実を結ぶ若木。/枝は石垣を越えて伸びる。(創世記49:22)
 
ヤコブが特に愛したラケルの子がヨセフであり、そしてその弟ベニヤミンを、ラケルは命と引き換えに産みました。ベニヤミンをヨセフは愛しましたが、ヤコブの評価は、「かみ裂く狼」(49:27)でした。
 
◆ベニヤミン
 
博多駅の「いっぴん通り」に、「オオカミの口」という店が開店しました。スコーンが人気だというので、先月私は、妻に頼まれて買いに出かけました。どうしてオオカミなのだろう、と思って調べると、分かりました。スコーンが焼き上がったとき、側面に割れ目ができます。この割れ目が狼の口のように見えることから、イギリスでスコーンのことを「Wolf's Mouth」(狼の口)と呼ぶのだそうです。
 
ベニヤミン族はその後のイスラエルの中にありました。エルサレムの半分が位置しているという話です。それほど重要な土地であるために、狼に喩えられたベニヤミンについて、多くの解釈者は好意的に説明しています。でも、イスラエルの初代の王サウルはベニヤミン族でした。聖書記者は、決してサウル王を良くは描いていません。むしろ、サウルは完全に悪役であり、ダビデの引き立て役でしかありませんでした。
 
そして、聖書に登場する「狼」は、こぞってよいイメージでは描かれていません。イザヤ書11:6や65:25では、狼が小羊と共に過ごしたり、共に草を食べたりしていますが、それはこの世ではあり得ない平和の理想を表すためのレトリックです。また、マタイ10:16とルカ10:3はそれを引き継いでか、弟子たちを各地へ派遣するときに、「私があなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り込むようなものである」と忠告しています。
 
ヨハネ10:12では、「自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」というように、羊を食い殺す悪者として登場しました。また、パウロの口を通してではありますが、「私が去った後、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、私には分かっています」(使徒20:29)と、ミレトスでエフェソの教会の長老たちに別れを告げることがありました。
 
また、士師記19章から21章におけて、実に血生臭い事件が記録されています。物語は、あるレビ人が逃げた妾の女を連れ帰ろうと出かけたことに始まります。その父親に幾度も引き留められる中、やっと帰途に就きましたが、ベニヤミン族の土地のギブアで、男色の輩になぶりものにされようとしました。その難は逃れましたが、せっかく探し求めて連れ帰そうとした女が、代わりに殺されてしまいます。
 
レビ人は憤り、女の体を刻み分けて、イスラエル各部族に送り、ベニヤミン族の暴虐を訴えます。それに応じて、各地からベニヤミン族を滅ぼすために兵士が集まり、大きな戦いに発展してゆくのです。
 
結果、ベニヤミン族は壊滅的になりますが、イスラエル各部族は、イスラエルの部族が滅亡するのは忍びないと考え、女を宛がう手段を講じたため、なんとか部族は滅亡を免れた、というのでした。
 
この事件を踏まえて、創世記のヤコブの祝福があるのだとすれば、ベニヤミンが狼に喩えられたことも、私は納得ができます。ヨセフの愛した弟であっても、そしてエルサレムを構えた部族であっても、イスラエルの律法として許せない蛮行は、蔑ろにできなかったと思うのです。
 
◆偽善者
 
さて、私たちは「山上の説教」をここまで読んできましたが、その中でイエスは幾度か「偽善者」について鋭い指摘を重ねてきました。
 
施しをしているところを宣伝する偽善者がいました。敬虔な信仰者であるように祈る演技をする偽善者がいる、と言いました。断食をしているんだぞと注目させるために見苦しい顔を見せる偽善者がいることを指摘しました(すべて6章)。他人を裁くくせに自分の罪に気づこうともしない偽善者についての指摘は特に、私たちをドキリとさせました。
 
いまイエスは「偽善者」という言葉は使っていません。用意したのは「偽預言者」です。それは偽善者よりも質が悪いようにも見えます。なにしろ「強欲な狼」ですから、表向き「羊の衣を着て」いても、内側は違うのです。私たちの言葉で言うと「羊の皮を被った狼」だというわけです。こうなると、先の「偽善者」たちはまだ可愛いものです。無邪気に自分たちだけで幼稚な間違いをしているようにも見えますから。しかしこの「偽預言者」は、キリストの弟子たちをも食い尽くし滅ぼそうとさえするのです。
 
毎日のように、詐欺メールが舞い込んできます。慣れてくると実に他愛もないメールですが、ちょっとドキリとすることがないわけではありません。メールを千通送ってもほぼ無料ですが、うち一つでも引っかかれば大きな利益があると考えるのでしょう。全く以て「強欲な狼」です。
 
小中学生たちに作文を書かせると、社会的なテーマの場合、時折「闇バイト」という言葉が登場しました。自分は引っかからないぞという姿勢が見えてきますが、社会経験のない若者のうちの一定の割合の者が、簡単に釣られてしまう怖さがそこにあるわけです。いえ、大人もまた、様々な詐欺に、日々引っかかっていますから、誰もが用心しなければなりません。
 
16:あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
 
さて、キリスト者として私たちは、本当に彼らを見分けることが、できるのでしょうか。「ぶどう」や「いちじく」は、イスラエルをも表す象徴だとみられています。キリスト者は、「神のイスラエル」(ガラテヤ6:16)である、とパウロは言いましたが、新しいイスラエルは私たちだ、という気概を、私たちはもつことがあります。私たちもまた、私たちの実で見分けられようとしているに違いありません。
 
私たちが偽預言者を見分けるぞ、と意気込むより先に、イエス・キリストを伝える私たちが、世の中の人々から、偽預言者ではないか、と疑いの眼差しを向けられている、というのが本当のところではないか、という気がします。キリスト者は、聖書の真実を語っているでしょうか。神の真実を証しできるのでしょうか。そこに偽りを交えていたら、確実に「偽預言者」となってしまいます。知りもしない神の救いを、さも知っているかのように語ること、それを日本語では「騙る」と言います。人を騙すのです。そのようなことを、していないでしょうか。
 
あるいはまた、自分たちだけが真理を知っている、自分たちこそ真理を握る存在だ、という尊大な姿勢をもっていないか、それも試されます。他山の石とすべきですが、「霊感商法」をする団体がありました。教祖のところに、巻き上げた財産や土地がもたらされます。日本人は劣るから、そこから金を奪うことは正義なのだ、という教義をもってさえいたのです。
 
あれはキリスト教とは違う。そんなふうに高を括っている場合でしょうか。同じ「宗教」です。そして「宗教は怖い」と見られているのです。外から見れば、あれと私たちとは同類なのです。
 
ただの「偽善者」どころではありません。マタイ伝のイエスが突きつけたように、これは「偽預言者」と呼ぶべき事柄です。エレミヤは、実現しない預言のことを挙げて、偽預言者を見破るべしと口にしましたが、確かに、「神の言葉」ならばそれは必ず実現するものです。偽預言者は、神の言葉を語ることができないのです。それは、私たちにとっても同じ試金石であるのです。
 
◆教会の説教の中に
 
教会全体の問題として、これを捉えてみましょう。あなたが教会に求めるものは何ですか。神への礼拝を共にする、ということのように考えているならば、幸いです。永遠の命を求めていますか。それならば幸いです。しかし、永遠の命を知らない者が「説教」なんかをしてはいないでしょぅか。その「説教」から、永遠の命が流れてくるのでしょうか。それはもはや教会ではなく、ただの「仲良し倶楽部」に過ぎないようにしか思えないのですが、如何でしょうか。命のない偽の言葉を神の言葉だと錯覚していたとしたら、なんとも不幸なことです。
 
自分が体験したこともない、聖書の「形だけの説教」を繰り返していれば、霊を受け救いを知る人からすれば、なんの感動も得られないでしょう。聖書講演会を聞くことは、礼拝とは全く違うのです。具合の悪いことに、それに慣らされてゆくと、せっかく救いを知るあなたも、だんだんと錆び付いてゆきます。嘘を信じるようになります。
 
あなたがイエス・キリストの救いを経験しているのならば、うすうす感づいているはずです。こうしたことに気づいてほしくて、こうして面白くもないことをいまお話ししています。あなたが聖書を信じているのならば幸いです。もし、にこにこする人間の方を却って信じているのならば、それは不幸なことです。聖書が人づきあいの道具に過ぎず、礼拝はそのためのお勤めに過ぎないと信じているのならば、私はそのような人には何も言うことはありません。
 
実際、自分の救いの経験や、救いとは何かということについて、一度も説教をしない者がいます。偶々語っていないのではありません。語れないのです。語るものをもたないのです。そういうことが、分からないのです。語らなくても職業としてやってゆける場をつくっているのは、残念ながら純朴な信徒です。どうか、その語れない説教者に気づいて戴きたい。その説教者が救いを知らないことに、気づいて戴きたい。そういう者が語る説教に浸ってゆくと、あなたが危険です。
 
20:このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。
 
このイエスの言葉を、受け容れようではありませんか。
 
◆福音の教会
 
しかし、そこを離れて、神の真実を語るメッセージを毎週騙る説教は、聞いて実に愉しいものです。聞いていて、わくわくします。そしてまた、我が胸を突き刺されるような思いを味わい、神の恵みがその傷口から溢れてきます。
 
ただ私は、「おまえは実を結んでいるのか」と神に問われれば、ドキドキします。すごすごと身を隠すしかないようにも思えます。イエスの言葉が真実ならば、この木偶の坊は、切り倒されて火に投げ込まれてしまいます。なんと恐ろしいことでしょう。
 
しかし、救いのメッセージは、そこに慰めを与えます。私は慰められます。慰められるということは、私が傷ついている、ということです。それは、誰かに不条理に傷つけられた被害者である、という意味ではありません。自分が傷物だということを、思い知らされるということです。自らの罪、神からの背反について、否応なく突きつけられるのです。それを自覚するのです。私はもう、何の価値もない、というレベルのところから、逃れられなくなるのです。
 
ローマ書7章で、パウロが我が身のどうしようもなさについて吠えたことを、不可解だと言う人がいますが、私はそうは思いません。キリスト者は、いつでも嘆くのです。己が罪に敏感であるために、自分が実を結ばない存在であることが分かるのです。ポーズではありません。街角で威張って祈るような演技ではありません。心底イエスを救い主として見上げるのです。十字架に涙するのです。
 
すると、イエスが一粒の麦であったことを知ります。痛感します。死んで豊かに実を結ぶというその言葉の真実を、肌で感じます。そして自分もまた、そうでありたいと願う気持ちが強くなります。そして、不思議な喜びに包まれてくるのです。
 
これが福音です。これを受けた者は、もう「強欲な狼」になどなりません。なることができません。それとは対極の生き方を求めます。羊の皮を着た狼から守られますように。見分けることができますように。そういう者とは違う、まことの羊飼いであるイエス・キリストを知るのです。
 
福音を語る教会には、このイエス・キリストを指し示す説教があります。神の言葉が語られ、礼拝の場に、温かな風が吹いてきます。不思議なことですが、たとえリモートで参加していても、神の風が吹いてくるのです。神にはできないことはありません。確かな救いの説教は、その風をもたらします。聖書の世界の言葉では、「風」は「霊」と同じ言葉です。また、「息」も同じ語です。神の息が吹き込まれて、ひとは生きる者となりましたが、私たちは福音の説教から、神の息を受けて、命を与えられます。私たちは、それによって生きるのです。
 
説教が息を吹きかけます。そういう教会は、確かに存在します。人を生かす福音の説教を聞きとって、真実の神の在す教会を、命懸けで探す羊でありたいと願います。ただ迷うばかりが羊の特権ではありません。従うという積極的な信仰をもつ羊のことを思います。良い羊飼いを、見分ける羊でありたいと願います。



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