すりあわせ

2025年11月8日

最近――去年の夏――、私の耳に、「すりあわせ」という言葉が、急に聞こえてくるのだった。私の中では、それまで使ったことがなかったと言っていい言葉だ。意味は、調べなくても分かる。だが、自分としては使う機会がなかったと言える。
 
その言葉が幾度も使われたのは、さるアニメである。「義妹生活」という。
 
高校二年生の浅村悠太と、同じ二年生の綾瀬沙季との間で、この「すりあわせ」という言葉を互いに使うのである。悠太の両親は離婚し、父親と暮らしている。その父親が再婚した相手が、沙希の母親であった。誕生日が一週間遅い沙希は、悠太にとって「義妹」という扱いになる。
 
ここのところ、年頃の男女が同じ屋根の下で暮らすというパターンのアニメが実に多い。昔はそういうのにえらくドキドキしたものだが、最近はかなり普通になってきている。というか、本当に多い。そこで、甘い恋の予感がする訳だが、本作は冒頭で、そうしたものではないのだ、と悠太が呟くところから始まっていた。
 
人から距離を置く点では互いに似たところがあり、それぞれに問題を抱えている。だが日々の生活を共にする中で、ぎこちない接触から2人の同居の生活が展開する。そして、ちょっとした出来事を通じてだが、互いの心がふれあい始める。この辺り、心理描写になかなかよいものがあり、私はそういう「こころ」が描かれる物語が大好きだ。超能力も天才的な才能もいらないから、ただリアルに心がふれあうもの、思いやるものに惹かれる、ということだ。
 
なにせ十七年間ほど、全く違う生活をしてきている。それがいきなり同じひとつの家族となる、というのは極めて大変な精神的労力が必要となる。そもそも普通の結婚生活というのもそうなのだ。しかしこの2人の場合、愛し合って共に暮らすというのではなく、いわば偶然に生活を共にしなければならないように強いられたのだ。
 
互いに節度ある関係を築こうとするためには、互いに理解し合わなければならない。そのためには、言葉を尽くして話し合わなければならない。どちらかが専制的に支配するような関係をつくるわけにはゆかない。互いを知り、互いに譲るところをもち、どこかで妥協しながら、やりくりしてゆくしかないわけである。
 
そこで、2人は話し合う。どう「すりあわせ」をしてゆこうか、と。そして、その言葉が物語の中で、度々キーポイントで使われるので、すっかり耳に残ってしまった。
 
この「すりあわせ」という言葉、私が意識することがなかったのも当然であった。調べてみたら、使われる領域が、ビジネスの場面が基本なのである。そうでなければ、機械部品の加工のときに使うというのだから、後者は私には全く縁がないと言える。前者も、バリバリのビジネスパーソンとして商談などをするわけではない私には、やはり使う機会がなかったのも仕方がないのだと思う。
 
あるメディアの説明を引用すると、「主にビジネス用語として「交渉事でそれぞれの情報を調整して妥協点を見出していく」という意味で用いられる表現である。対立する見解があって「一方を選んで他方を捨てる」というわけにはいかない場合に、双方の見解に細かい変更を加えて、互いに納得できる落とし所を模索する、ということである。」(Weblio辞書)
 
ある領域で常用されている意味が、別の場面で別の意味合いをもって使われる。そうした言葉の宿命というものは、ある意味で当たり前のことであろう。だが、「狭き門」という聖書の言葉が、全く違う意味で人口に膾炙するというのは、なんとかならないものか、と常々思う。
 
だが、そんな意固地な私だからこそ、誰かと対話するためには、「すりあわせ」が必要なのかもしれない。互いに言いたいことは言う、だが自分が正しいとして相手を負かそうとしたり、見下したりしようとはしない、そうした「すりあわせ」の営みは、独り善がりの「論破」などよりは、よほど健全なのである。



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