命の祭り

2025年11月3日

ヘロデ王というのは、ヘロデ・アンティパスのことで、イエス誕生のときのヘロデ大王とは異なる。背景には、様々な事情があり、マルコ伝はそれを説明することを厭わない。洗礼者ヨハネは、ヘロデの素行について批判をした。それでヘロデはヨハネを捕らえ、牢に入れていたのだった。今日は、マルコ伝の連続講解説教が久しぶりにつながれた。マルコ6:14-29と、長い物語である。
 
但し、ヘロデその人は、ヨハネに対して憎しみを以て臨んでいたわけではなかった。マルコ伝は、その辺り饒舌である。いまここにそれを説明する暇はないが、説教者は、このエピソードにイエスが全く登場していない、という点に触れた。そして、これに続くマルコ伝の記述が、このヨハネの話と対比されているという点をも示唆するのだった。
 
そして、このエピソードは、過去の想起である。「イエスの名が知れ渡ったので」と、実は名前だけはイエスが登場している。それは、ヘロデがイエスのことを知り、以前自分が殺したあのヨハネが生き返ったのではないか、と恐れたのだ、というストーリーテラーらしい話し方の故である。
 
さて、近年は、その秋が短くなった。あるいは、消滅した、とまで言うような人もいる。猛暑が通常の秋の前半を支配し、その後一気に冬のような天候に入ってゆく、と感じられるからである。だが本来の秋は、「◯◯の秋」という形容がいろいろにつくほどに、何をするにも適した気候だと見られている。聖書の世界での「収穫祭」は、麦を基準にするために初夏の頃であるが、多くの作物は秋に取り入れられるため、収穫祭は秋に置かれることがよくある。英語では木の葉が落ちることから「fall」を秋の意味に使うが、日本語の「秋」もまた、本来は収穫を意味する漢字であったのを、収穫する季節を意味するように変化したと考えられている。
 
そういった「祭り」に、説教者は注目した。もちろんキリスト教にとって、降誕祭と復活祭という大きな「祭り」がある。収穫祭と関連する聖霊降臨祭を加えて、三大祝祭と称する「祭り」がある。だが、メッセージはそこに留まらない。私たちは、「礼拝という命の祭りを毎週繰り返す」というのである。イエス・キリストが、命を祝う。おまえに与えた命を祝福する、と告げる。私たちは紛れもなく、神の祝福を受けているのだ。
 
それは、この世の苦しみや罪から目を背け、あるいは閉ざしているところにはもたらされない祝福である。キリストが私たちの罪を真っ向から引き受けたように、私たちも、自分さえよければというふうな生き方から離れて、この世界と関わってゆく。
 
今日は、この世の実に醜い現実を正視しなければならない。ヘロデの宴会である。伝説により、この娘はサロメと呼ばれる。オスカー・ワイルドの戯曲と、その英訳版(元はフランス語)の、ビアズリーの挿絵は、とみに有名であるが、ヒャルト・シュトラウスのオペラも名高い。
 
その名前はともかくとして、その場の情景は、簡潔を特徴とするマルコ伝にしては、非常に詳しく、あるいは執拗に描かれている。先に触れたように、これは一時過去に遡った形の叙述である。「イエスは、十二人を呼び寄せ、二人ずつ遣わすことにされた」(6:7)ことと、「使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」(6:30)との間にこの事件が入れられていることから、その間に洗礼者ヨハネは殺されたのだろうか、と説教者は告げたが、必ずしもその時期かどうかは分からないだろう。とにかくヘロデは、イエスの評判が広まったときに、それがあの死んだヨハネが生き返ったのかと人々が噂するのを知って怯えたことが記されている。
 
説教者は、敬愛する加藤常昭先生の説教集を、マルコ伝講解説教の際には必ず読み、学んでいるらしい。今回も、加藤常昭説教全集のこの箇所に於いて指摘している点を、いくつか絡めながら説教を進めた。説教自体を同じように組み立てるわけではない。重要な引用や、ある問題の指摘の仕方に於いて、加藤先生の取り上げた視点を重ねるのである。
 
今回もいくつか思い当たる点があったが、この6章で、「この世のしたたかさとそれにもまさる神の言葉のしたたかさ」が扱われているということは、私たちも心に留めて、福音書を読みたいものである。だから、ここでヘロデを通じて、この世の残酷な姿が浮き彫りにされており、この世の考えとなすこととに、辛い思いを抱いて対処しなければならないのではあるが、それにもまさる神の恵みと力があるということを信仰の根柢に据えたいものだと思う。しかもその強さは、神を信じる私たちにも、与えられていると言えるはずなのだ。
 
説教者が指摘したことは、ふだんあまり強調されないことかもしれないが、それは、このヘロデが、「ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」という背景に触れていることである。つまり、このヨハネの惨殺の場面で、ヘロデが首謀者であるというよりも、妻のヘロディアこそが企んだということである。むしろヘロデは、洗礼者ヨハネの語ることに対して、どこかで同情的な気持ちさえ有していたのである。
 
これはピラトとイエスの場合にも、類するかもしれない。ピラト自身は、イエスの中に死刑に値する罪を見出すことができなかったが、ユダヤ人たちのシュプレヒコールに押されて、十字架刑を許可してしまったのだ。意志が弱いと批判すればそれまでであろうが、ひとは社会的地位や組織の背景の中に立っている。それぞれの立つところに於いて、異なる正義と秩序の中にいる。私がピラトであったとき、ピラト以上のことができたかどうかは、極めて怪しいと考えている。
 
クセルクセス王がエステル記で演ずる姿にも、私は何か似たものを感じる。自分の指輪をハマンに委ねておいて、その指輪の文書には王の声も逆らえないが故に、またモルデカイにも指輪を委ねるなど、どうにも無責任にしか見えないのである。尤も、エステル記自体が、揶揄をベースに置いているのだとすれば、これは当然の演出であるのだけれども。
 
説教者は、ヘロデに対して同情的な見解をもっているようだった。ヘロデが「王」であるというのは私たちのイメージとは異なり、ローマ帝国の傀儡の領主であることを踏まえているわけだが、マルコ自身がここでのヘロデを頼りない権力者のように描いている印象を与えるように思われる。
 
その権力者というものが、私たちとは無縁の存在であるかのようにしか見ていないと、マルコの思いから外れることになりかねない。私たちは平社員で下っ端で、あるいは誰かに傅いているばかりであったとしても、自己中心という権力を以て、世界を支配しようと企んでいるのである。
 
だから、この社会と世界が自分の思い通りにならないことを恨む。他人が自分の言うことを聞かないことに怒る。さらにクリスチャンであったとしても、礼拝で神の厳しい言葉が自分に向けられているなどとは考えず、誰か他人を戒めているのだ、というようにばかり考える。神の言葉は礼拝の場で、自分の脇を通り過ぎてゆくのである。説教者は、神の言葉に当惑しているのではないか、と告げたが、私のようなレベルでは、当惑するほどに正面から受け止めていないような気がする。この傲慢な魂は、神の言葉を避けたり、受け流したりするばかりなのだ。そして人間の知恵による言い訳を考えて、神の言葉を躱したつもりでいる。あるいは、神を論破したつもりになりもする。
 
説教者の眼差しは、やがて6:30から後の、つまり次の講解説教の聖書箇所に向かう。そこには、五つのパンと二匹の魚が何千人という人の腹を満たす奇蹟が語られる。ヘロデの祝宴の場が、人間の弱さや残忍さを露呈させたものだとすれば、わずかなパンと魚の祝宴は、命の祝宴となるだろう。
 
教会は、この命の祝宴を続けるところである。聖餐というものが、共に主のからだを食するものであるならば、そこは見かけは地味ではあるが、確かに祝宴である。神の命が注がれ、パンと魚のように増え拡がるであろう、そういう祭りの場である。礼拝という形を主の日に繰り返しながら、この命の祝宴を、これまで続けてきたし、これからも許される時間の限り、続けるであろう。
 
そして、礼拝からと限る必要はないが、共に主の言葉を聞き、受け、そして自身が変えられるという経験を積み重ねてゆくことによって、その祭りが、変わらない福音を実現し、そこからまた伝えられてゆくであろう。
 
ヘロデを通じて、ヨハネは殺された。神の到来を告げる言葉を、ヘロデたち権力者が殺した。私たちもそのような権力者に、いつでもなり得る者である。イエスを十字架につけろと叫び呷った群衆が、神のことばであるイエスを死に追いやった。イエスはその罪を赦すための祈りを献げ、肉の命は絶えたが、復活のイエスとして、弟子たちと共に食事をした。それはささやかな宴会であった。イエスは、いつか神の国で、盛大な祝宴を開くための準備を、いましていることだろう。教会に於いて私たちは共に励まし、祈り合い、信仰をもち続けることができるようにと神を見上げながら、今日もまた、祝宴を喜ぶのである。ヨハネの死に、悲しみを覚えながら。自分が関わったイエスの死に、戦慄を覚えながら。



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