【メッセージ】入門の覚悟
2025年11月2日

(マタイ7:7-14, エゼキエル46:1-3)
求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
叩きなさい。そうすれば、開かれる。
狭い門から入りなさい。(マタイ7:7,13)
◆入門
『キリスト教入門』というタイトルをもつ本が、さて、どのくらいあるでしょうか。よく利用しているアマゾンで検索すると、軽く10冊以上が出回っていました。「わかりやすい」とか「◯才からの」とかいう言葉がそれに付いたものも含めると、数はさらにどんどん増えてゆきます。
聖書や教会について、ちょっと興味をもつ人は、少なくありません。ひところ、雑誌がえらく熱心に、こぞって「キリスト教」というものを特集した時期がありました。国際社会を気にしなければならないとき、キリスト教について無知であることは拙い、というビジネスの世界の意識が反映されたのではないか、と思います。
「キリスト教入門」という本も、そうしたコンセプトで読まれることを期待している一面があるかもしれません。もっと気軽に、キリスト教について知ってほしい、という感じで。しかし、著作者は牧師や神学者、あるいはかなり濃い信仰者である場合が多く、本当は、幾らか求める気持ちが強い人を対象に、教会にくる心構えや予備知識を得てほしいような気もします。できればこの入門書で、信じるようなこともあらんことを、という期待をもっている場合もあるでしょう。
私たちはこの「入門」という言葉に、どのくらいの重みを感じているでしょうか。熟語のつくりからすれば、「門に入ること」を意味します。一旦、門に入ってしまうのですね。どうやらしばしば私たちは、「気軽なお試し」のような気分で、「なんとか入門」という本を開いてみるものですが、門に入るというのは、一大決心を必要とすることだとは言えないでしょうか。
芸人の場合、師匠のところに入門するというのは、基本的に引き返せない世界に足を踏み入れて、修行を始めるということを意味するように見えます。決して、「お試し」気分で「入門」できるのではないと思うのです。
京都にいるとき、美容室を利用することがありましたが、近くに格安のチェーン店ができて、一度様子を見てみたい、と思いました。雰囲気がよくなかったら、中に入らずにまた帰ってくればよい、というくらいの気持ちで、行ってみることにしました。ビルの何階かにあるそうで、小さなエレベータに乗りました。そしてエレベータの扉が開くと、そこはもう店内でした。「いらっしゃいませ」と店員さんたちが歓迎します。私はもはや戻れなくなりました。
◆都の門
古代のエルサレムという町は、城壁に囲まれた町でした。あの地方では、都市というものは、そのようにできていたそうです。野ざらしで安穏と暮らしてゆけるような時代ではありません。がっちりと、町を守っていなければ、敵に簡単に占領されてしまいます。命を守るためには、丈夫な外壁が必要でした。そこで食い止めておけば、防御の道が拓けます。人々は、お城の中に暮らしているという形をとっているのでした。
羊飼いや貧しい人々は、その外で暮らしていたのではないかと思います。危険極まりないことですが、敵にしても、そうした弱小者を相手にいたぶることを愉しんでいたようには思えません。やはり、城を攻略するというのが、戦争や侵略というものだったことでしょう。
黙示録には、天の都エルサレムが幻の内に描かれますが、現実に知る城壁都市をモデルに想像するしかなかったでしょう。ダビデ以降、神殿を築いたソロモンから先には、エルサレムはそうした要塞都市として造り上げられていったことでしょう。
それが、大国に侵略され、破壊されるという憂き目に遭います。優秀な頭脳や労働力は、捕囚の民として連れ去られて行きます。遺された人は、あるいは傷ついた都を思う人々が、その惨めなエルサレムの姿を悲しみます。
預言者エゼキエルもまた、そのようなエルサレムを幻の中に見ています。しかし、破壊された様子を見て嘆くばかりではありません。そこで、再び民族が主を礼拝する民として回復し、かつてのイスラエルが復興する姿を見ています。今日はその46章をも垣間見ることにしましょう。
1:「主なる神はこう言われる。内庭の東向きの門は、仕事をする六日間は、閉じておかなければならない。しかし安息日にはそれは開かれ、新月の日にも開かれなければならない。
2:指導者は外の門の廊を通って中に入り、門柱の傍らに立っていなければならない。祭司たちは焼き尽くすいけにえと会食のいけにえを献げなければならない。彼は門の敷居のところで礼拝し、出て行かなければならない。門は夕方まで閉じてはならない。
3:この地の民は、安息日と新月に、その門の入り口で、主の前に礼拝しなければならない。
城壁には、幾つかの門があります。大きな門もあれば、小さな門もあります。凱旋の兵士たちが通るべき広い通りがあったことでしょう。身分の低い者や物売りが潜る、小さな門もあったことでしょう。汚れた者専用のものもあったかもしれません。門番もいて、町を護る役割に担っていたことでしょう。
エゼキエルが見た門は、聖いところへと通ずる門であったのでしょうか。安息日には、庶民はその門の「入り口」で礼拝をすることになるのだそうです。指導者が中に入りますが、庶民は門柱の傍らに立つことになります。門は、主に出会うための道でした。
安息日に開かれるその門は、どうかすると、教会をイメージさせるかもしれません。日曜日だけ、開いています。そんなことはない、と言いたくなる人もいるでしょうが、信仰生活が日曜日だけ、という信徒はいませんか。「日曜クリスチャン」という悪口がありますが、日曜日にだけクリスチャン面をする、ということで、他の曜日はこの世の中でまたいい顔をしているだけ、というような生活をしているわけです。
でも下手をすると、その日曜日にすら、真摯な礼拝を献げているのではないかもしれない、という自分たちの姿を考えたほうがよい場合もあるでしょう。私たちは、霊とまことを以て礼拝をするべく、呼ばれているのです。
◆受験生に対して
今日お開きした聖書の箇所には、有名な言葉が控えています。「狭い門から入りなさい」というものです。そこで、ここまで「門」について触れてきました。集合住宅では、一戸一戸に門があるわけではありませんが、一戸建てならば、大抵門があります。門扉を開けると、そこはその人の家。用がないのに「入門」してはいけません。不法侵入罪に問われます。
しかしこの「狭い門から入りなさい」に先立って、イエスは、これまた有名な言葉を発しています。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる」というものです。私たちは、一度そこに戻ってから、いずれ「入門」しようかと思います。
「求めなさい」という言葉。聖書の意味からすれば的を外しているかもしれませんが、私は、受験生にこの言葉を贈ることがありました。
前向きになるように。積極的になるように。弱気にならないために。「求めなさい」という強い気持ちで、勉強をしなさい。そういうメッセージとして、文を書くことがあったのです。信仰に関係のない意味で、そういう場所で言うべきものではないのかもしれません。それでも、聖書の言葉が自分のために向けられた、というような形で聞こえたらよいが、という、ささやかな祈りをこめて、発したのです。
その受験生についてですが、マスコミのニュースでの常套句として、「狭き門」という言葉が使われます。競争倍率が高いことを謂うのです。とんでもないことです。全然意味が違います。どうしてキリスト教界がこれに対して猛烈に抗議しないのか、私は不思議でなりません。
単なる言葉の問題だから、と軽く見るわけにはゆかないでしょう。違う意味で、聖書の救いの言葉が嘘のものとして広まってゆくのです。以前から私はそのことを幾度も告げていますが、誰も聖書の言葉を大切にはしていないかのようです。
浄土真宗は、その点きちんとしていました。最近、マスコミで「他力本願」という言葉を、「他人任せ」という意味で使うことはほぼ皆無になりました。以前は、その意味で広まっていたのです。しかし、浄土真宗サイドが、猛烈に抗議し続けた結果、ついにこうして、間違った意味で使われることがなくなってきたのです。さらに、「正しい意味」が付せられるとなると、宗教の根幹の言葉が、適切な意味で伝わってゆくことになりました。
「狭き門」も同様です。しかしそうなると、私が受験生に「求めよ」と話したことも、それと全く同じことになりますね。そう気づかされてからは、受験生に「求めよ」と言うのをやめました。
◆本気で求めること
ところで、「求めなさい」という言葉を受けていて、「得られないのは、求めないからです」という聖書の言葉が、ふと頭に浮かびました。どこで聞いたのだろう。調べると、ヤコブ書の4章でした。
あなたがたの中の戦いや争いは、どこから起こるのですか。あなたがたの体の中でうごめく欲望から起こるのではありませんか。あなたがたは、欲しがっても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、求めないからです。(ヤコブ4:1-2)
恐らく必要以上のものを求めようとして、誰かの財産や時間や権利などを、搾取している、そういう構図があろうかと思います。戦争も、そうして起こったというように、私たちは振り返ることができます。ヤコブの指摘する通りです。いま地球の存亡の危機が指摘されていてもなお、自国のみの経済成長しか関心がなく、また、そのような政治家にしか投票しないようになっている頭数の人間による民主主義が正義だとする先進諸国は、ヤコブの手紙を焚書しようとしているかのようです。
それと共に、私たちは本当に求めているのか、と問われるような気持ちも致します。それは、「得られない」からそう考える、というわけではありません。確かに「得られない」のです。世界の平和も、公明正大な政治も、得られません。それはヤコブ書に従えば、私たちが求めていないから、というこになります。
心のどこかで、「そんなことは実現するはずがない」という本音が居座っている中で、口先だけで、「どうかそうなりますように」とか「神は何でもおできになります」とかは唱えるものの、心の奥底で、「まさかね」という風が吹きまくっている。求めていないのです。本気で求めていない、不真面目な祈りからは、信仰が抜けています。
ではどうして、本気では求めない、などということがあるのでしょうか。ひとつには、実のところ切実さを感じていないからです。切羽詰まった命の瀬戸際であるならば、命乞いもするでしょう。しかし、そこまで危機感を懐いていないのであれば、助けてください、という言葉も真剣味に欠けます。神の助けを、切実に求めていないのです。欲しいものについても、それがなければ飢え死にするというところで祈るのとは違い、あってもなくてもなんとかなるが、できればあったらいい、というくらいのものを求めているのです。
切実な求めが始まるとき、しばしば、それはふだんは当たり前のように受けているということがあります。いつもある空気に対しては何もわざわざ求めるようなことをしませんが、空気が薄くなると、切実に求めます。いつもはなんとか暮らしていけたお金が得られていたら、日々の糧を今日も、とは切実に祈るものではありませんが、いざ職を失ったり借金を背負ったりすると、日々の糧を今日も、との祈りは切実になります。
地震や大雨で、電車が止まったとき、私たちは大変な苦労を強いられます。トラブルで電車が動かなくなった先日の東京では、バス停に長蛇の列ができました。街を歩く人々は、大名行列さながらにゆっくりとしか歩けません。慌てて階段を降りるのは殺人行為にもなりますから、誰もが感情を抑えて自制しています。
私も似たような経験がありますが、交通機関が当たり前に機能するということに対して感謝するようなこともなく、いざ止まれば不満たらたら、という自分に、嫌気がさしてきます。
◆能動的に積極的に
ずいぶんと不信仰なことを口にしたような気もします。メッセージに携わる者が、そんな不謹慎なことをあたりまえのように述べてよいのか、と。失礼なものの言い方をしたかもしれません。自分はそんなことはない、信仰がある、そんな罵声が飛んでくることも覚悟しています。
11:このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださる。
親が、子どもの求めに対してふざけた真似をするはずがないではないか。イエスは、だから「求めよ」というのであり、「求める者は受け」ると宣言したのです。が、どうしても気になります。「あなたがたは悪い者でありながら」とは、どういう言い回しなのでしょう。何の前置きや背景もなく、いきなり「悪い者」ですよ。これは少しトラウマになります。私はイエスに「悪い者」と呼ばれた。
待てよ。それは当たり前のことではないでしょうか。「善い者」は、神のほかにはありますまい。ならば人は、生まれ落ちてからすでに罪の中にあると言えます。イエスは、悪者呼ばわりしたのではなく、人間は神に比して当然そうなる立場だ、という「対比」を利かせて告げたと私は受け止めてみることにします。
12:だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。
人からしてもらいたいことを人にせよ。「黄金律」とも言われ、道徳律の中でも大原理に相当するものと考えられ得る命題です。東洋の私たちには、もしかすると「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」の方が馴染みが深いかもしれません。孔子の言葉を集めたという『論語』の言葉です。内容的には、同類のことを指していると世間では見なされていますが、さて、知恵者の言葉とイエスの言葉とが、同じレベルのものと言えるのかどうか。ならばどうして逆さまの点を指摘しているのか。
それを追究する道もあると思いますが、それをすると、どちらかの肩をもって威勢を張るようなふうに見えるかもしれません。私たちは、この比較はいまは諦めて、イエスの言葉を受け止めようと思います。
イエスは、「人にしなさい」と命じました。イエスは、「私に従いなさい」と命ずるし、「人にしなさい」と命じます。それは、弟子たちに向けて命じたのであるし、いまこうして福音書から聴く私たちへも向けられている言葉です。私たちは、そのイエスの言葉の意味を評価するような立場にいるのではありません。私たちに向けられている言葉を受けるのが、私たちの立場です。
何故そう向けられたのか。私たちが、していないからです。従っていないからです。私たちは、心では、何をしたらよいか、分からない訳ではありません。信仰とはどういうことか、こうして毎週説教を聴き、毎日聖書を読み、祈り、心得ているつもりかもしれません。けれども、そこへイエスは畳みかけるように告げるのです。「人にしなさい」と。
イエスの言葉によって、私は、積極性を欠いた自分の姿を鏡の中に見ることになります。それが、聖書の役割の大きな一つでもあるのです。だから、このときイエスは続けてこう言ったのです。「これこそ律法と預言者である」と。「律法と預言者」という表現が、「聖書」と私たちが呼ぶのと同じものを指していることは確かです。イエスは、「これこそ聖書だ」と言ったのです。「しなさい」と私に迫るのが、聖書そのものなのです。
そうして、イエスの言葉は「狭い門」へと流れます。城壁都市エルサレムに、同様の狭い門があったことが、ユダヤの人々にはピンときたことでしょう。ああ、あの門か。「しなさい」と改めて迫るイエスによって、それは簡単なことではない、と忠告を受けたと自覚する人は幸いです。その狭い門は、天へ通じます。狭い門こそが、天への扉です。そしてそれは、見出す者が少ないのです。
◆門に入る
信仰があるから、自分は天国に行ける。その信頼そのものが悪いわけではありません。素朴な信仰を、私は決して否定しません。むしろ子どものように、素直に素朴に、そう信じるという人を尊敬するし、羨ましくも思います。ただ他方で、先ほどの不信仰の探りにドキリとするような人がいることも確かなことだと思っています。いえ、ドキリとした人は、きっとまだよいのです。さらなる問題は、ドキリともしないタイプの人がいることです。
そこに救いがある。それを教えられた。確かに、イエス・キリストを信じることで、歩むべき信仰の道が示された。それが分かった。そのように見出したとしても、その門に、実のところ入らない人がいるのです。入ったつもりで、決して狭い門からは入らない人がいるのです。
門を見つけながら、その門には入らないで、ただ眺めているだけ。「しなさい」との言葉の部分だけは聞こえないふりをして、真剣に求めもせず、探しもせず、叩きもしない人です。ここの動詞のニュアンスは、一度きりの行為ではなく、それを幾度も繰り返すことを意味するのだ、とよく言われます。イエスは、「求め続けなさい」「探し続けなさい」「叩き続けなさい」と命じたのである、と。
ちらりと門を外から見て、ここに狭い門がある、と観察することには、何の価値もありません。入門しなければならないのです。軽い気持ちでお試し気分ですることが「入門」ではない、と予め申しておきました。二度と後戻りできない覚悟の上で、門を潜ることが必要になります。すると神は、そこで与えるでしょうし、見つけさせてくださるでしょうし、門の中へ招き入れてくださることでしょう。
8:誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。
見出しにくいその門は、確かに狭いのだろうと思います。幅の問題であるというよりも、そもそも見出せないのではないかと思います。だから、私たちは探します。自分の思い込みで、これが門だ、と決めつけるのではなく、イエスの心は、神の願いはどこにあるのだろう、と探し続ける必要があるのです。そして、そこに門があったならば、どうか自分をそこに入れてください、と切なる求めを以て、扉を叩き続けなければならないのです。
その門は、誰もが訪ねる門ではないことは、もうこれで十分過ぎるほど明らかであることでしょう。
◆キリストという門
私たちは、イエスが自ら、「私は門である」(ヨハネ10:9)と告げたことを知っています。その門は羊たちが通るための門であり、「私を通って入る者は救われ、また出入りして牧草を見つける」(ヨハネ10:9)と説明しました。イエスもまた、世の中からすれば、見出しにくい門であるに違いありません。
イエス・キリストは、死刑囚として処刑されました。端的に言えばそうです。耶蘇など信じたら、ああなる。島原天草一揆について見聞きした人に、圧倒的な影響を与えました。磔という刑は、見せしめの刑でもありました。人々に、権力に逆らうことへの恐怖を見せつけるのです。だからこそローマ帝国も、国家反逆罪には十字架という残酷な見せしめ刑を処したのです。
「磔」と称すると残酷で目も気持ちも背けたくなりますが、いまの世の中では「十字架」と呼ぶと、魅力的なアクセサリーになります。殊に日本での感覚は、そうでしょう。キリスト者もまた、ネックレスやネクタイピンに、十字架を装うことで証しを立てると言いながら、どこか誇らしげにそれを飾っているようなことがないでしょうか。
しかし、十字架は恐ろしい死刑台です。十字架の前に、私たちは慄かなければなりません。恐怖で震え上がるような残酷な仕打ちであり、信徒が愛し奉るイエス・キリストが惨死しした処刑台こそが、十字架というものです。身の毛もよだつその血生臭い死刑台、そこにこそ、「狭い門」が立ち現れてきます。
私たちが羊としてその門を潜るとされている、イエスという羊の門は、血にまみれています。私たちの罪が流すはずであった血に染まっています。キリスト者とは、そのイエスという門に入り、イエスに従う覚悟をもつ者たちのことです。私たちは、その門を求めているでしょうか。探しているでしょうか。叩いているでしょうか。そうして、その狭い門を見出して、その門を潜っているのでしょうか。
「求めなさい」と「狭い門から入りなさい」という、よく知られた言葉の間に挟まれた、イエスの言葉を、最後に心して聴き、受け止めましょう。イエスはこう言いました。「天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださる」と。