救いの証し

2025年11月2日

一週間前の「あらまし」に、もう少し加えてみます。よろしかったら、お聞きください。
 
「愛は寛容であり、愛は情け深い。……」第一コリント書13章に出会ったとき、聖書はただの本ではなくなりました。私自身がその聖書の中の世界にいる、ということが分かり、自分は本当に駄目な人間だ、ということが分かりました。愛の唄をつくって酔い痴れている自分が、実は全く愛などない、ということを思い知らされたのです。頭をぶん殴られたようなショックを受けたのでした。
 
そこで聖書をちゃんと読もうと思い、旧約聖書を最初から読み始めたら、創世記の3章で、今度は自分の立っているところが崩れ去るのを覚えました。「あなたはどこにいるのか」と神がアダムに呼びかけたその声は、聖書の中に住むようになった私にとっては、正に自分に向けて呼びかけられたものです。というより、もはや私は、自分自身を問われ、哲学ぶってやろうとしてきたことが、全部潰され壊されてしまったのでした。
 
私はアダムのように、罪の中にいる。愛を錯視していたのも、完全に罪だ。この罪は、死に値します。そう。私は、死が恐ろしくて仕方がありませんでした。小学一年生か二年生くらいのときに、その戦慄に怯えたのです。そのため、哲学の中でも、存在と時間についての関心はとりわけ強かったのです。まるでハイデッガーのようですが、だからその著作も、言おうとしていることはピンときました。あいにく哲学の才能は貧相なものだったので、学問としてそれをまとめることはできませんでした。まずは究めようとしたカントについても、本は喜んで読むものの、論文はとても論文と呼べるものは書けませんでした。
 
この罪の中の自分は、どうすればいい。聖書は、そこからの救いを与えてくれます。イエスの十字架がそこにありました。赦されない罪はない。私の罪はこうして赦すのだよ、と十字架のイエスが私の顔を見ます。言葉をくださいます。罪の私の死は、イエスが引き受けてくださいました。
 
それは確かに死ぬべきものでした。しかしまた、イエスはそれで終わりとはしませんでした。復活がありました。「私を信じる者は死んでも生きる」との言葉に、私もまた立ち上がることが赦されたのです。
 
でも、それですべての救いが備えられた、というわけではありませんでした。私の中には、自分の生まれそのものの中に、疵をもっていたのです。愛がないだけなら、自分の心次第で自分を変えられるかもしれない。傲慢な哲学的姿勢であれば、考えを捨てればなんとかなるかもしれない。しかし、イエスさま、生まれながらにもつもの、それを否定したらもはや自分自身ですらなくなるかもしれないことについては、どのように救いを与えてくださるのでしょうか。
 
その問いかけは、真摯でした。十字架のイエスとの出会いはありましたが、自分の存在そのものについては、まだ完全に救いの解決を受けたとは思えなかったのです。しかし、ヨハネ伝9章は、「神の業がこの人に現れるためである」と、私の中の疵を完全に癒やしたのでした。
 
救いの言葉だ。聖書をそう信じてからは、聖書を読むのがすっかりうれしくなりました。私が神の前に隔ての壁のようにしていたものは、「わたしは道であり、真理であり、命である」というヨハネ伝14章の言葉で、見事に崩れ去り、新に建設されてゆくのでした。これがおまえの道だ。これこそ真理だ。そして、永遠の命だ。「神は愛です」という言葉は、自分が頑張るのだという考えすら消し去り、神がすべてのすべてとなることを明らかにしたのでした。
 
罪に死に、新たな生が与えられた――そこから、新たな道が始まったのです。その後も至らぬことの連続であり、自分は駄目なままに、ひたすら赦されるばかりの者でしかないわけですが、神はたくさんの愛を以て支えてくださるのでした。



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