愛に生きる
2025年10月27日

ヨハネ文書に輝くフレーズであるが、「互いに愛し合いなさい」を中心に掲げ、もうそれだけが心に残り、心を支配するようであってほしい、という願いと祈りが、説教者から溢れているのを感じたひとときだった。
中心に置かれたのは、ヨハネの手紙一の3章。さしあたり11節から18節までが開かれていたが、その直前には、「悪魔から出た者」(8)が警戒されていた。「罪を犯す者」(6,8)がそれであり、「悪魔の子ども」(10)である。しかし、「御子の内にとどまる人」(6)は「義を行う者」(7)であり、「神から生まれた人」(9)あるいは「神から出た者」(10)なのだから、「神の子ども」(10)だということになる。
これらの対照的な二つの運命は、どのように分かれているのだろうか。生まれる前から決定されていた、というように言ってしまうと、その解釈によっては絶望的な思いに苛まれることがあるかもしれない。そこに「信仰」が加わり、信じることによりこの世を生き生きと生きてゆこう、という生き方につながるなら、それもよいであろう。
他方、私たちの生き方としては、先の二つのどちらの道を選ぶか、という点が問題となる。説教者はその分かれ道を、「分岐点」と呼び、今日の説教のひとつの鍵になる言葉として提示した。そして、その分岐点に掲げられる神の言葉が、「互いに愛し合うこと」だというのである。
説教者のメッセージは、今日はこの「愛」に終始していた。同じ軸の周りを行ったり来たりして、揺れ動く波紋のように、上下する波が拡がりながらも、その場その場の水は決して移動していないように、「愛」の心地よい揺れの中で、ひとつのマジック空間を愉しんでいたような気がした。
愛は、感情だろうか。決断だろうか。そうした問いに始まり、一つには「神の命に生きる決断」だ、というテーゼが安定した位置を占めるに至った。これは「神のいのち」と説教者は語ったはずなのだが、文字にすると非常に面白い効果がある、と私は思った。「神の命に生きる決断」と書かれる。
「命」という漢字は、「口」と「令」とから成る。元々口から出された令、つまり「命令」の系統が原意である。白川静氏からすれば、「口」は顔の口ではなくて、神の儀式に使う器をも表しているというから、神的な儀式の中で、神の言葉を聞いてそれを受けるような様子を示すものだ、と理解されている。その後、神からの言葉によって人のいのちが定まるという考え方に基づいて、「いのち」の意味で使われるようになったのではないか、と推測されている。
「神の命令に生きる決断」は、神の言葉、神の戒めに従って生きるという決断、という意味であり、それは同時に「神からの命を受けた生き方をするのだという決断」だということにもなる。それが、「神の命に生きる決断」という書き言葉に重なる二つの意味であるかのように、私には見えて仕方がなかった。
説教者は、創世記4章のカインがアベルをも殺す場面を取り上げもした。そこに「妬み」のあることを指摘したが、この箇所の解釈の世界は、実に広く、深い。人間の罪の本質がいろいろ含まれているように見ることもできるし、ひとが自分の罪を意識するときに、このカインの言動のどこかにグサリと突き刺さるものを覚えるかもしれない、と考えられる。
カインどころではない。私たちは、「一日に何度も人を殺している」と言った牧師がいる、という話が出されたが、私などは、「何度も」どころではない。一挙手一投足、毎瞬時にやっているくらいの気持ちを懐くことさえ珍しくない。極端に言えば、いまこうして電気エネルギーを消費してこの文字を打っており、寒さに耐える衣服を着ていること、そのこと自体が、世界の誰かの労働を搾取し、地球の資源を浪費しているわけである。誰かを殺しているというつながりも、必然的にあるに違いないのだ。
マタイ伝の山上の説教では、兄弟に腹を立てることの内に、人を殺す罪を見る眼差しを教えてくれるが、逆にまた、自分の罪を知るということが、イエス・キリストの前に出ると赦しを受けることとなるということも、その経験者は分かっている。このとき、死から命へ移っている、一種のパラドックスのようなものが成立しているのであり、説教者もその導きを確信していることがよく伝わってきた。
この奇蹟のためには、イエスの十字架があった。イエスの犠牲のために、それが可能になった。愛の究極の形である、と説教者は告げた。そこで、愛は、感情ではなく「犠牲」であるのだ、という言い方さえなされるようになった。生き方としては、「与える生き方」が尊いのである。そして、愛はただの口先だけの事柄ではなくて、「行動」であることも明白となる。
愛には、「感情」が無縁である、と言うのも言いすぎかもしれない。ただ、それよりも、「決断」が、「犠牲」が、そして「行動」が、先行している。
説教者はそういうふうに様々な言葉を用いて、愛の生み出した波紋を、遠くにまで拡がるようにした。そのどれかの言葉が、聴く者の心の揺れに合う波長をもたらすことになるであろう。
他方、愛は「意志」である、と言っていた人もいた。感情であったならば、「愛せ」という命令をつくることはできない。命じられて感情が生まれることは、普通ない。しかし、「意志」ならば命じられてそう意志する、ということはあり得るであろう。但し、「意志」という言葉は、いま私たちがイメージするような意味合いで、ギリシア語の概念の中に用いられることはなかったと考えられている。プラトンは、ソクラテスを主人公として、人間の心の内にあるものを余すところなく分析したのだが、人間の心の中にあるものを「意志」という言葉で説明することは、ついになかった。それに近いものは「気概」という訳語で訳されており、勇気や決断力をリードするものであった。私たちの思う「意志」は、近代的思考枠の中で生まれ育ったものであって、古代の世界にいまの私たちと同じ理解を求めるべきではない。聖書には「意志」と訳された言葉も多々あるが、少なくともいま私たちが「意志の自由」のように捉えて用いる概念と同じだ、とは言い難い。(この辺り、問題を単純化している面があるため、眉に唾をつけてお聞き戴けたら幸いである。)
だから、「愛は意志である」という言い方は、私は控えたいと思う。歴史と経験を重ね近代の延長上にいる私たちにとり把握するその意味は、聖書が知らせようとした「愛」の姿とぴったり重なることはないし、誤解させ牽強附会を招くことになりかねないと考えるからである。
この「愛」に生きる道をとるか、それとも「憎しみ」から辿る道をとるか。
約束のカナンの地を目の前にして、モーセは主から預かった言葉を、イスラエルの民に向けて告げる。
見よ、私は今日、あなたの前に命と幸い、死と災いを置く。……私は今日、天と地をあなたがたに対する証人として呼び出し、命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい。そうすれば、あなたもあなたの子孫も生きる。(申命記30:15,19)
説教者は私たちを招く。モーセが話したその岐路へ、私たちは連れて行かれる。いまその分岐点がここにある。どちらを選ぶか、選択が問われている。
同様に、ヨシュアがシェケムに民を集めて問うた記事も思い起こす。
もし、主に仕えることがあなたがたの気に入らないのなら、ユーフラテス川の向こうにいた先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを今日、選ぶがよい。しかし、私と私の家は主に仕える。(ヨシュア24:15)
こちらは、異教の神々か、イスラエルの主か、あなたがたが仕えようと思うものを選べ、と民に選ばせている。
だが、よく見ると、印象が変わってくる。ヨシュアは「選ぶがよい」と自由をも与えているかのようだが、「しかし、私と私の家は主に仕える」とヨシュアが宣言しているのだ。また、モーセは「あなたは命を選びなさい」と結局命じている。
そう。イエスは命じるのだ。福音書のイエスの言葉をたくさん振り返るがいい。イエスは命じているばかりなのだ。いったい何度、弟子たちに命じたことであろうか。「私に従いなさい」と。