【メッセージ】裁かれないため

2025年10月26日

(マタイ7:1-6, 箴言29:26)

きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。(マタイ7:3)
 
◆あーちゃん
 
小学四年生の国語の教材としてその日登場したのが、辻仁成の『そこに僕はいた』という小説でした。僕の友だちの中に、あーちゃんという子がいた。片方の足が義足だった。大人の助言で、あーちゃんと遊ぶときに気を使うようになったが、あーちゃんができない遊びは誰もできなくなり、気が重くなっていた。あるとき石投げをして遊んでいたが、あーちゃんの投げた石が僕の目に当たり、危うく失明しそうになった。だが、あーちゃんは謝らない……。
 
教材は、だいたいこの辺りまでの短い場面でした。この後、僕の弟があーちゃんを責めようとしたが、僕はそうはさせなかったのです。片目の僕には、それまでとは違う景色が見え始めたというのでした。
 
あーちゃんを気遣って、走り回るような遊びはすべてできない。そのあーちゃんが投げた石で大けがをしたわけなのに、あーちゃんは謝りもしない。四年生の男子たちは、「ひどい奴だ」と言い始めました。次のシーンで、あーちゃんが坂を登れないでいたのですが、「そんな奴は助けなくていい」と口々に言うのでした。
 
私は内心、意外な気がしました。どこかふざけて言っているのだろう、という目で様子を見ていたのですが、どうやらそうではありませんでした。本気で、男の子たちは、あーちゃんが許せない、という一心であったのです。
 
女子は意見を言いません。そこまで悪く思ってはいないようにも見えました。が、心中は男子たちと同じようであったのかもしれません。謝らないのは酷い、と。
 
小学校では、謝るということが当然なすべきことだ、と教えられているのだと思います。小学生が、「きまり」のようなものをきっちりと教えられていることは、私も知っています。「きまり」を破ることは、とても悪いことだと考えるようになっています。大人のように、懐が深いわけではないのです。それを思い出すと、子どもたちの反応を抑えつけるのはよくない、と私は思いました。
 
でも、やはりそれで終わるのは寂しい。私が子どもたちに問うてみたことは、今日のメッセージの最後のところでご紹介しようかと思います。
 
◆裁くな
 
キリスト教世界に、密かに蔓延している感染症があると思っています。口からあることを言おうとしたときに、ブレーキがかかるのです。
 
1:「人を裁くな。裁かれないためである。
 
「裁くな」という掟は、実のところ、かなり重いものです。教会内で、誰かのことを少しでも悪く言おうものなら、「裁いちゃいけない」と横槍が入ることがあります。親切のつもりで言っているわけです。信仰の友が、イエスの教えに反することを堂々としていってもらいたくないわけです。言われたほうもそれが分かっていますから、注意されたことに対して、反論するつもりはありません。「そうですね」などと言って、持論を引っ込めることになります。
 
考えてみれば、「裁いちゃいけない」というその言葉自体が、ひとつの「裁き」にすらなっているのですが、そこを追及すると、人間関係が壊れてしまいそうです。世間ではあるかもしれないそうした応酬が起こらないだけ、教会というところは、まだ天国に近いかもしれません。
 
平気で人を騙す者や、心から軽蔑して悪口をぶつけるような者が、世間にはいます。明らかにいじめようとしてくる者も現実にいるでしょう。そして、職場で、あるいは学校で、私たちは人間関係に悩みます。確かに、経済的な理由や、災難などで絶望的になったり、苦労したりすることはあるでしょう。しかし、人間関係の悩みというのは、実際人の悩みのかなり大きな部分を占めているのではないか、と思われます。
 
もちろん、教会でも人間関係に悩んでいる、という声を聞かないわけではないのですが、それよりも、苦手な人がいる、というのはよくあることです。それでも、憎むほどのことはないでしょう。世間並みのねちねちとしたいじめを繰り返すことはないでしょう。比較的の問題かもしれませんが、そこに「信仰」というものが少しでもあるならば、「愛」をベースに物事を考えることができるでしょう。
 
だから、「裁くな」という聖書の言葉が、教会には響いているし、苟も信じているというのであれば、そのことが胸に刻まれていると言ってよいのではないかと思います。
 
◆正しい判断
 
それでも、つい、人の悪口を言ってしまいたくなる。そんなことは、クリスチャンであっても、あるのが当然だと言えます。「あの人はなんでああなんだろう」と、少し余裕をもった形で評することもあるでしょう。
 
そのように思うことは、罪なのでしょうか。人のことを悪く言ったり、思ったりすることは、すべて罪なのでしょうか。――でも、思います。しょせん私たちは、人のことを悪く思う性質があるのではないか、と。どうしても私たちは、自分が可愛いのです。自分が正しいのです。
 
判断する自分そのものが正しくないとすれば、その判断も正しくないことになります。私たちは、「自分」というものが判断をしているのだとすると、それが正しくなければ、その判断そのものも正しくないことになります。これは原理的な矛盾です。私たちは、自分が正しい、と考えているからこそ、ものが言えるのであり、ことを為すことができるのです。
 
では、自分が間違っていた、と気づくことがあるのは、どうしてでしょう。大丈夫です。間違っていたのは、過去の自分です。それはいまの自分ではありません。いま判断している自分は、間違ってはいないのです。過去の自分が間違っていた、と判断しているいまの自分の判断は、正しいのです。
 
但し、そのいまの自分の判断が、未来永劫正しい、ということが保証されていないことは、賢明な人は察しています。偶に、それを察することができないタイプの人に出会います。常に自分が正しい、という思考回路しかもてないタイプの人は、残念ながらいます。その逆に、自分は正しくないのではないか、といつも怯えて、自分の考えを口に出さないタイプの人もいます。この辺りのバランスで、その人の性格や態度というものが、様々なバリエーションを以て現れてくるのではないか、という気がします。
 
但し、おまえは判断するな、という立場に、社会的に置かれ続けるという場合があります。聖書の時代で言えば、「奴隷」がそうでした。戦争に負けた土地の者は、土地を奪われた上に、相手の奴隷という身分に落とされることがあります。もしかすると、生まれながらにして奴隷という地位に決められている人がいたかもしれません。歴史学者は、そうしたことを解明しているのかもしれませんが、私はあいにくよく知りません。想像の中で喋っていますから、それこそ「正しい」情報を聞いたぞ、と早合点しないでくだされば幸いです。
 
奴隷と聞くと、鎖で繋がれ鞭を打たれて、毎日死にそうになるくらいへとへとに重労働を強いられているような姿を想像するかもしれません。しかしローマ社会での奴隷の中には、適切な労働を担い、中には家計を任されて才覚を発揮する者もいた、という話を聞いています。逆に市民は私たちの感覚でいう「労働」をしなくて済むために、現代社会の「労働」を担当しているのが奴隷だった、と言えるのかもしれません。
 
ただ奴隷には、一定の「自由」というものがありません。社会参加の上で意見を述べることはできないでしょうし、勝手に旅に出たり、住まいを変えたりすることは無理だったと思われます。創世記で、エジプトに売られたヨセフが、ファラオの役人で親衛隊長のポティファルの家で働いていたことを思い起こします。つまり奴隷として仕えていたのでした。一時その妻の感情的な仕打ちで牢に入れられますが、ついにはエジプトで王の次の位にまで昇り詰めました。
 
現代社会に於いて、憲法に保障されている「自由権」を私たちは用います。でも、果たして私たちは「奴隷」のようではないか、一度深く考えてみるとよいと思います。家族を人質に取られて、会社に仕えることしか許されない毎日を過ごしている人もいます。歯車のひとつとして、死ぬ寸前にまで過労を強いられている人もいます。離職する理由もないままに、職務を否むこともできず、利用されるだけ利用されている人は、もっと沢山いるかもしれません。
 
◆偽善者
 
さて、元に戻りますが、私たちは自分の判断を正しい、という前提でしか、ものを考えることはできないし、ものを言うこともできません。しかしそれを開き直る形で、聖書すら、自分の判断で、聖書の価値や意味について、自分の理解こそ正しいのだ、というふうに思い始める場合があります。自分が聖書をどう理解するか、という意味ではなくて、自分が理解した通りに、聖書というものは書かれてあるのだ、と聖書を支配すらするわけです。
 
聖書をどのように自分が消化しようが、それは構わないと私も思うのですが、だから聖書の意味はこうなのだ、と決定する声を聞くと、疑問をもってしまいます。自分の解釈の通りに万人を従わせようと目論む意図が見えるからです。それでそのように問うと、そのお前の考えは「個人の感想」だろう、それが正しいはずがない、と自説を通すような人もいます。
 
だから、イエスの次の指摘は、私たちの心に突き刺さります。
 
3:きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。
4:きょうだいに向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に梁があるではないか。
5:偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができる。
 
なんと大胆な表現でしょう。今は「梁」という言葉も通じにくくなっていますが、「床や屋根の荷重を支える役割を果たす建物の横方向の骨組みのこと」(DAIKEN)です。家を支えるものですが、イスラエルの家の構造の中で、具体的にどういうものであったのか、私は知りません。木材は高級住宅材でしたでしょうから、木材で家を組むのは、庶民には難しかったでしょう。日本の家屋にあるものと同じように想像することはできないかもしれません。
 
しかしとにかく、自分の目にはそうした太い骨組みがあるのに分からない。自分に張り付いている悪はちっとも意識していないのに、他人の悪については、ちょっとしたことでも「あれは悪だ、罪だ」というように指摘したくなる。人の性と言えばそれまでのことですが、私はかつて、とことんそういう人間でした。いまは、イエスのこの言葉に刺激されて、「いや、自分も同じだ」と振り返るような習慣にしていますが、それでも他人のことに先ず気づくことは変わりません。
 
イエスはこれを「偽善者」だと言っています。少し前に、「偽善者」がずばずば指摘される箇所がありました。ここでもまた「偽善者」が登場しました。
 
でも当人は、自分が善だと思っているのです。確信犯です。それは、人の性として、取り去ることのできない側面があるのではないか、と先ほど考えました。だからこそ、「原罪」と呼ばれるほどに、人間に染みついた、剥がすことのできない悪があるということになるのだ、とも言えます。
 
◆裁判官
 
むしろ、問うてみます。他人を、どうして裁いてはいけないのか。他人の悪を指摘することは、一切だめなのでしょうか。人間同士、悪を認識し、それを指摘しなければ、善へと改善することもできないのではないでしょうか。
 
イエスの言う「裁き」とは、人間の悪を指摘することをすべて指すのではないはずです。適切な「批判」はしてよいし、第一イエス自身、律法学者やファリサイ派の人々について、けちょんけちょんに非難までしています。イエスだからよい、という理屈も、新約聖書の書簡で散々敵を非難している文章を弟子たちが書いているのを見ると、説得力がなくなります。
 
私たちが何もかも人や社会を批判してはならない、という教えは、聖書の中にはきっとないのです。いけないのは、「神の裁き」を人間が行うことです。「裁き」とは「判決を下す」という行為だととると、人間が自分の判断で、他人に対して、神のみが下すことのできる判決を言い渡すこと、それがいけないのです。
 
裁判の原告が、訴えることは、あってよいのです。但し、原告自身が裁判官となって判決を下すことはできません。だのに私たちはしばしば、自分が裁判官になり判決を下すような考え方をしたり、発言をしたりするのです。「あんな奴は地獄に堕ちる」とか「あいつは救われない」とか、神に成り代わって判断をするのです。いえ、そのとき実のところ、自分が神になっている、と言ったほうが適当であるでしょう。その人間に、永遠の運命を決めるような判断を私が下すこと、それは自分と神との関係を破壊してしまうのです。
 
具体例は挙げませんが、クリスチャンが何か訴訟を起こすのを見て、けしからんと考える別のクリスチャンがいる、と聞くことがあります。確かに、教会内での争いを一般の裁判にもちかけるというのは、聖書でもよろしくないと挙げられている例ですし、そういうのを聞くと悲しくなります。しかしそこに、「裁くな」とあるではないか、というような批評をすることについては、少しばかりブレーキをかけてよいのではないか、と考えます。
 
やもめの訴えがうるさかった、という話をイエスもしています。そのやもめをイエスが糾弾してはいません。それはイスラエルが神に訴える切実な行動である、というような切り口です。それは、訴えているだけであって、自ら判決を下そうとしているわけではありません。裁判官の判決を期待するのです。判決を待つのです。
 
キリスト者は、神が裁くという点に於いて、ブレることはしたくないのです。私が神の代わりに裁くのでないならば、思い切り、神に裁きを願いましょう。神よ、神の正しさを示してください、と祈り求めましょう。そして神が下した裁きがそこにあったならば、その神を称えましょう。
 
そのような声は、詩編に溢れています。詩編には、時折まるで呪いであるかのように、敵をやっつけろ風な言葉が並ぶことがあります。敵を徹底的に粉砕してくれ、と神に願うような場面もあります。教会ではなかなか開きにくいほどに、厳しい言葉があるのは事実です。けれども、それはここで言うように、神に正義の実現を願うため、そして神の御名を崇めるためであるとするならば、むしろ信仰に基づく言葉であるはずです。だからこそ、詩編が神の言葉としての聖書に組まれているのではないでしょうか。
 
旧約聖書には、そういう考えが特に強く現れます。今日はひとつだけ、箴言の言葉を心に納めることにしました。
 
支配者の顔色をうかがう者は多いが/人の裁きは主から来る。(箴言29:26)
 
弁えておきたいのは、自分がその裁きによって、自分が神の裁きに遭い、罪ある側に選り分けられる可能性があることを常に忘れてはならない、ということです。そして、そうならないように、イエスが罪を背負い、赦しを与えたということへの信仰を確かなものとしていることです。神が裁判官なのです。
 
◆犬と豚
 
6:聖なるものを犬に与えてはならない。また、豚の前に真珠を投げてはならない。豚はそれを足で踏みつけ、犬は向き直って、あなたがたを引き裂くであろう。」
 
この言葉が加えられていることについても、注意を喚起しなければならないでしょう。ただ、ここにはどうしても、日本でも人口に膾炙するようになった諺が頭の中を占めることは否めません。そうです。「豚に真珠」です。価値の分からない者に大切なものを与えても何にもならないことを喩えています。
 
小学生の国語でこの言葉が出てくることがあるのですが、いつもささやかな愉しみとなります。「猫に小判」と同じ意味だ、と理解するのが問題の解答となるのですが、ポケモンを知る子には、すぐにニャースの顔が思い浮かぶでしょう。「猫に小判」は馴染みのある言葉です。これは聖書にあるんだよ、というくらいしか説明できませんが、それくらいは子どもたちにも認識してもらって差し支えはないでしょう。ついでに「目から鱗が落ちる」というのも、聖書なんだよ、とまでも言いたくてうずうずしてしまいます。
 
ここでの「犬」の方も、主旨は「豚に真珠」と変わるようには見えません。それにしても、いま自己認識の甘さや不可能性を指摘してきたイエスが、もしたちまち犬や豚を持ち出して、価値あるものを安易に与えるな、とするのは、少々難解です。
 
イスラエル主体の神の教えを、ローマの輩に無闇に教えようとするな、ということなのでしょうか。それにしても、犬というのは、新約聖書ではどうしてもフィリピ書の言葉を思い出させます。「あの犬どもに気をつけなさい」(3:2)という忠告は、「悪い働き手」のことを指すことが明らかです。「形だけ割礼を受けた者」のことでもあります。パウロが嫌った者の先頭に立つような人々です。
 
日本語でも、時代劇で「幕府の犬」などという表現が見られました。権力に尻尾を振って喜び、何でも従う輩です。権力にしがみつくコバンザメのような役割を果たします。パウロの言う「犬」も、何かに尻尾を振って喜び従う者のことでしょうが、このイエスの言葉がそれのことなのかどうか、それは分かりません。
 
偽善者よ、自分の目の中の梁を取れ。これは基本的に、イエスの弟子たちに向けての呪いではないと思われます。律法学者やファリサイ派の人々のことであるとするならば、「偽善者」と呼んでいることからもスムーズに理解できます。イエスは弟子たちに道徳を説いたのではなく、イエスの敵がどういうものの見方をしているか、を示したかったのだと思われます。
 
偉そうに道徳や宗教を説くエリートたちを見よ。自分のことも分からず、庶民の仕草に目を光らせて、罪を指摘してはほくそ笑んでいるではないか。あのようになってはならない。あれは「犬」である。「豚」である。イエスの福音の意味を、熱っぽく語り聞かせたとき、逆ギレすることはあっても、素直に分かるはずがないではないか。
 
イエスの言おうとしていることは、概ねそのようなことではないかと思われます。
 
ただ、このことは、いまの私たちクリスチャンにはもちかけられる可能性があることは、戒めとしなければならないでしょう。私たちが、犬や豚の役に回っていないか、そこは押さえておくべきなのです。つまり、「裁くな」は、弟子たちに向けてというよりも、律法学者やファリサイ派の人々に向けての言葉であったわけで、イエスの弟子たる者がそのようになってはならない、という点は、どちらかというと付随した指摘であったと思われるのです。
 
◆宗教改革
 
10月31日は、宗教改革記念日です。翌1日の万聖節の前夜にルターが活動を示した、という逸話に基づいてのことですから、日付は確かでしょう。ルターはローマ教皇に楯突いたわけですが、一方では教皇の人間性を非難しているというのではなく、そういう地位や組織を問題にしているように見えます。しかし、ルターが親しい者を集めてリラックスして語った言葉を集めたという『卓上語録』には、教皇という存在に対して、手厳しい判断を下しているところもあります。
 
「教皇はアンチ・キリストであるから、仮面を被った、受肉したサタンであると思う。」(212)
 
そして、「教会法」や「教皇制度」については、容赦なく攻撃します。教皇派と呼ばれる取り巻きについても激しい非難を浴びせ、修道士とその制度についても強い態度を示します。「修道院では七つの大罪が大手を振って歩いている。」(252)とまで言うのです。
 
最初の、「あーちゃん」の話を覚えておいででしょうか。あーちゃんが投げた石で大けがをした当事者ではないのに、あーちゃんが謝りもしないという場面を見て、四年生の子どもたちが、一斉にあーちゃんはけしからん、と非難囂々だった、という報告でした。義足というものは理解している。それでも、謝りもしないというのは、最低だ。子どもたちは、その一点から少しも外に立つことができませんでした。
 
そのとき私は、次のようなことを話してみました。但し、ここでは少しばかり大人向けの言い方にしています。
 
――このあーちゃん、自分のために仲間たちが、遊びたい遊びを遠慮させられていることに、気づかないはずがありません。そして、先生に言われたせいもあり、何かと自分を気遣い、世話もしてくれているのを知っています。けれども、それはあーちゃんに心底思いやりを以て、というのではないことにも、当然気づいていました。そういう毎日です。心からではない助けを日々向けられて、「自分でできるよ」と言いたくなるような気持ちになったのではないでしょうか。その態度は、せっかく助けてやろうとしているのに、と、周りの子どもたちを面白くさせなかったことでしょう。あーちゃんが、足が不自由でないのなら、石くらいよけろよ、と思ったとしても、それを責めることができるのかどうか。ふだん自分が負っている負い目からして、いま自分が謝るというのは筋が違う、と考えた心理は、私たちにもあるような気がしてなりません。
 
私は子どもたちに対しては、こんなに詳しく話してはいません。ただ、次のことだけは告げました。私たちも、もしかすると明日、あーちゃんのように義足をつけなければならないようになるかもしれません。そうならないという保証はどこにもありません。あなたがこのあーちゃんだったら、どんな思いをするか、少しだけ考えてみませんか。先生の考えを押しつけはしません。ただ、あなたが義足で、友だちが遊びを我慢していて不満をもっているのが分かっているときに、「ごめんね」とまず謝るような毎日を過ごすかどうか、想像してほしいと思うのです。
 
もちろん、「こう考えろ」と強要するような言い方はしません。ただ、もしも自分が、という視点を指摘されると、それを想像する子が現れ始めました。どう考えるか、結論は出なくても構いません。もしも自分がそうだったら、と考える視点に立ってみると、それまでのように一方的にあーちゃんを非難する声だけは、なくなりました。
 
他人の目のおが屑と、自分の目の中の梁、という喩えとは違っていると思います。でも、自分が当事者でない、という立ち位置での非難から、自分が当事者だったら、という見方を経験することで、何かに気づくきっかけができたように見えました。
 
「裁くな」との教えは、裁くのは神だけだ、ということを前提していると申しました。だから人間が裁くことで、人間が神になるようであってはならないのだ、と。世の終わりにはキリストの裁きがある、というふうにも信じられていました。イエス・キリストは、裁き主でもあるのです。
 
その裁く側のイエスは、もうしばらくすると、人間により裁かれます。ユダヤ人たちが訴え、ローマの役人が死刑判決を下し、群衆に言葉の暴力を浴びせられ、最も残酷な刑だと見なされた十字架に赴くのです。イエスは、人間によって裁かれたのです。裁かれて、散々に痛めつけられ、侮辱され、壮絶な死を味わうのです。
 
その「人間」の中に、あなたもいます。もちろん、私はその先頭の辺りにいます。そして、言葉という石を、投げるだけ投げて、イエスを十字架へ追いやったのです。そして、そのときには、謝ってもいなかったのです。
 
私の生き方は、そのイエスに出会って、改革されました。改革されたが故に、いま生かされています。裁かれないでいるのです。



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