オルタナティブな論理
2025年10月21日

最近立て続けに、日本的な論理というものについて考えている本に出会った。偶然である。そういう展開が控えていようとは予想しない中で、次々に出会ったので、これは「時」であるのか、と考えるものだった。
日本人は、話すときに必ずしも主語と述語を調えた文を用意しない。むしろ相手の名前や「あなた」を何度も何度も繰り返すとなると、喧嘩でもしているような雰囲気になってしまう。できるだけ人の名も言わず、肩書きで称する、ということもそこに関係するかもしれないが、とにかく明晰に物事を伝える、ということに、日常的に気を払ってはいない。
そういう精神風土を「甘え」という概念を用いて説明した人もいた。もちろんそれは、悪い意味ではない。互いの腹をある程度理解しているという含みから、コミュニケーションが成立するような文化だというのである。
先日、NHKの「あさイチ」で、ゲストに同時通訳者の田中慶子氏が出演していた。英語そのものの上達は、二十歳を過ぎてからだ、という意外な告白があったが、ある日本人の責任者は、この通訳書にはもう全面的な信頼を寄せていた。自分が言葉に出して表現できない心の部分を、外国人に、たくさんの言葉を追加して伝えてくれるというのだ。
日本人のその男性は、ふだん、自分の考えのすべてを口に出して言うという言語生活をしていない。しかし、外国人にとっては、考えについて、すべてを聞かなければ交渉ができない。かといって、長々と説明をし尽くしてそれを伝えるような暇はない。短い表現で、言いたいことを的確に伝えるためには、その男性の口に出して日本語を、そのまま英語にしてもいけないのである。
最近私が読んでいた事柄は、要するにそういうことだった。英米文化が論理的である、というのは、言語化したものにより互いにコミュニケーションをするということである。それを比したこそ対話と呼ぶのである。口に出さずとも一定の共感を前提として言葉を交わす日本的な交わりは、あちらからすればコミュニケーションと呼べるものではないだろう。だが、何らかの共感が可能であり、共在感覚を了解しての対話というものが成り立つのが日本人の言葉の交わりなのであって、それはもはや対話と呼ぶよりは「共話」とでも呼ぶものだ、とする本もあった。
もちろん、対話というものが、一切の心の探り合いをしない、というものではない。それはよほど喧嘩でもしかけるときだけだろう。相手を思いやるということを、英語圏の人々がしないわけではない。ただ、考えていることを相手に伝えるには、できるだけきちんと言葉にして、文にして、明らかにしようという方向性がある、ということである。
ただたんに相手をやりこめて、マウントを取りたいというだけの粗末な精神が繰り出すものは、独り善がりの論理である。その場で言い勝ったとして鼻を高くするのは、凡そ論理というものではなく、本来共感の上で共話をするはずのフィールドで、突如それを無視して、文字通りのものを論理だと言って相手の思惑を破壊するだけのことである。
英語圏でしばしば、ディベートの訓練の学習があるというが、そういう姿勢を、共感で話をする場にもちこんだら、それは場が崩れるし、共感を裏切り、ひとり浮くことになるだろう。時に、法的にその行為をどうしようもないようなことがあると、その浮いた者を罰したり窘めたりすることも、安易にはできないことになる。言語によるつながりの場で、そういう悲しい者がいたら、周囲は呆れて何も言わなくなるだろうが、その風変わりな人は、空気が読めないままに、自分が勝った、と勘違いすることだろう。
そういう報道の場面を、幾度も見たことがないだろうか。最近も、それがあった。
最近読んだ本は、日本に於けるこの共感や共話のコミュニケーションを、肯定的に主張するものが多かった。否、はっきり言うと、それの方に価値を置いていることが伝わってきた。鋭い論理だけの関係ではない方がいい。自分と他者がいつもぴりぴりと対立している状態ではなく、互いに重なり合うことを前提として、その上で論理をすりあわせてゆくという関係が、これからの時代には、世界的にも必要なのではないか、という方向を見ているものに、私は偶然複数触れたのだ。
もちろんそれは、なあなあで済ませようとか、物事をうやむやにした方がよいとか、そういうことを言おうとしているのではない。また、日本のやり方を最高のものとして推奨とすることを目的としているわけでもない。ただ、常識として私たちが決めつけていることがすべてではないこと、だからもう一つの道が、オルタナティブな方向があるかもしれない、ということに気づいてみたらよいかもしれない、と思ったのである。
こうして気づかされ少しばかり検討してきた道は、如何にも日本的な付き合い方なのかもしれない。ではさて、聖書についてはどうだろう。西洋で展開した神学や教義などには、ヘレニズムというものが、決して抜き去ることができない柱として居座っている。だが聖書は西洋文化の産物ではない。むしろ東洋的とさえ言われるものである。西洋の解釈が正しいというきまりはどこにもない。
キリスト教会もまた、そうである。もしかすると、福音書のイエスの姿や教えは、つまりその「愛」というものは、どちらの方に探したらよいのか、もしかすると私たちは、これまでずっと勘違いと思い込みをしていたのかもしれない。そんな可能性はないだろうか。疑うことは、信じることと正反対である、とするのが常識なのかもしれないが、私は信じることに通ずる疑いというものはあってもいい、否当然あるはずだ、という捉え方をしてみたい。