名を告げ知らせよう
2025年10月20日

亡くなった方々を覚える時。個人というよりも、教会全体で、先達の人生を思い、死と命について教えられるような礼拝を、それぞれの教会で年に一度か二度か、営むことだろうと思う。
この教会では、何百人という先輩方がいる。いまの牧師もここで決して短くはない歩みを共にしているが、それでも百人をゆうに超える方々を見送ってきたという。
キリエ・エレイソン「主よ、憐れんでください」。
クリステ・エレイソン「キリストよ、憐れんでください」
説教者はこの短い祈りのフレーズを挙げた。ただこれだけにメロディをのせた歌も多々ある。説教者は、これよりさらに短い祈りの可能性を挙げた。「主イエス」と御名を呼ぶだけでも、ひとつの祈り、深い祈りになるということだが、如何なる日常生活の中でも、「主イエスよ」と神の名を呼ぶことの中に、大切なものを見出そうとしていた。
礼拝が始まり説教が始まる前に、担当者が祈りを献げるということがある。きっちりと原稿を作ってきてそれを読み上げるのが常であるようだが、この教会の礼拝でしばしば、過ぎる一週間の中で、神を忘れて過ごしていた、というような告白をすることがある。私は個人的に、そうした祈りを礼拝の中で聞くことは珍しいと感じた。一種の悔い改めの告白のようなことではあるだろうが、「神を忘れる」という実感がよく分からなかったのだ。
それは、いつも自分が神の恵みを受けて喜んで清く正しく生活している、という意味ではない。常に神が共にいますという信仰の中に生きている、というような傲慢にも聞こえる姿勢でいるわけでもない。「まずかった」という失敗もある。そのとき、自我や感情が表に出て、しくじった、と思うわけだ。だが、その瞬間、神の視線を覚える。確かにそれも、一瞬、神を忘れていた、ということになるかもしれない。だが、「神を忘れて過ごしていた」という表現とは、なにか違うような気がしてならないのである。
神を忘れて生活していた、という言い方が、なにか馴染めない。神を忘れてしまう瞬間、ないしひとときがあった、というのだったら、確かにそうだと思えるのだが、日曜日が過ぎたら神など忘れて生活を6日間過ごしていた、というようにも聞こえるような表現は、それちは感覚が違うような気がしてならないのだ。
それはそうと、「主イエス」の御名を呼ぶ、それだけでもまた、必要な祈りであり、呼び続ければよいのだ、という点については異論はない。説教者は、祝福の場に於いても、戦いの場に於いても、主イエスを呼ぶということが必要だ、ということは強調できるものとした。だが、「主イエス」の名によって「戦争をする」ということについては、説教者は分からない、とするのだった。
現代のキリスト教国の中には、依然として、教会が戦争の勝利のために祈るということが当然のことだと理解されているところもある。かつて日本のキリスト教会も、戦争協力をしていたのは事実である。それほど国家の圧力が強かったのだという背景もあるから、協力をしたことを一方的に非難するつもりはない。だが、その事実を踏まえておくこと、そして自分たちなりに向き合うことは、必要ではないだろうか。欺瞞の中にぼかそうとしてはいけないのではないか、と考えている。
さて、本日開かれたメインは、ヘブライ書の2章である。朗読されたのは11節から15節までではあるが、もっと広い場面を視野に於いての説教となっていた。説教者自身が、このヘブライ書には思い入れがあるものらしい。古代の説教の一つではないか、と見られているが、この長いものが一つの説教であるかどうかは分からない、と私は思う。いうなれば、説教のカタログのような役割すら果たしていたのではないか、と想像してみることがあるのである。
ヘブライ書には、「イエス」という名がたくさん登場する。「御子」とか「主」とかいう飾りをつけることもなく、ひたすら「イエス」と呼び続けることがある。
ここで、説教の中で「イエス」と呼び捨てにすることについてのコメントのようなものがあった。そのように教育していた先人がいたことは存じているし、それを引き継いだ人も多いことだろう。また、そういうのとは別に、心底「様」をつけないのは許せない、と思う人もいることだろう。だが基本的に、それは自分の問題であるだろう。
聖書についてはかなり批判的に扱い、学説的には教義を信仰している様子など見せない人が、つい「イエスさま」と口走って語る場合があることを知っている。それは心のどこかに、神学者とは違うぬくもりが感じられるようで、そちらがもっと表に出ればよいのに、と思うことがあった。
私は「書き言葉」の場面では「イエス」としか書かない。読む文章では、その方がスムーズに流れるからである。だが実際に語るとなると、たぶん「イエスさま」と口にするだろうと思う。そして、たとえ「書き言葉」としての原稿が硬い調子の言葉によるものであっても、それを原稿として実際に語るとすれば、間違いなく「話し言葉」に替えることになる。原稿では、複文や重文を多用していても、話すときにはできるだけ単文とし、聞いて分かりやすい言葉にしながら自由に口にするのである。それどころか、聞く人々の顔を見ながら、臨機応変に、そこに吹く風に任せることだろう。
説教者は、「イエス」と端的に呼ぶことについて、イエスの誕生の場面を想起させた。クリスマスのときに有名な聖書箇所に於いては、ひとつのありふれた名前をもつ嬰児として示せばいい。信じた私たちが、イエスと向き合うときに、その信仰から呼ぶときに、飾りをつけようがつけまいが、その絆を大切にしてゆけばいい。
ところで今日のこのヘブライ書からは、引用された三つの言葉がクローズアップされていた。
12:「私は、きょうだいたちに/あなたの名を告げ知らせ/集会の中であなたを賛美しよう」と言い、
13:また、/「私は神に信頼する」と言い、さらにまた、/「見よ、私と/神が私に与えてくださった子たちがいます」と言われます。
これをどのように語ったかをここに再録することは控えるが、この後の説教で、3番目の点が強調されていたことは挙げてもよいかと思う。「見よ、私と/神が私に与えてくださった子たちがいます」というイエスの言葉である。これは、弟子たちのことを神に紹介しているようなシチュエーションのように感じられるが、この「子たち」は、イエスを長兄とするという捉え方からすれば、私たちのことを弟妹として示しているものと理解できるのだ。説教者は行こう、弟や妹という呼び方で、私たち自身を自覚する語り方を繰り返した。そうなると、1番目の「きょうだいたち」という言葉がここにリンクされてくる、と理解してもよいことになる。
つまりイエスは、私たちを弟妹だと呼び、そして私たちの名前を呼び続けているのである。私の弟妹たちがここにいる。神の前にこのように示してくださるというのは、なんと畏れ多い、そしてなんと有り難い、うれしいことだろう。罪に染まった私たちに無罪を勝ち取らせてくださるために、命を懸けて弁護したイエスである。
ところが悪魔というものは、そこに誹謗をもたらす。こいつは罪の塊ではないか。いくら弁護しようにも、どうしようもない奴ですぜ。回心もまともにできないし、赦されてもまた同じことを繰り返しているじゃありやせんか。悪魔は神に、私の罪を数え上げて、訴える。そしてそれは事実である。だから死刑しかないではないか。悪魔はひとを死へと誘う。
実際の裁判の席を前にして、どうせお前は有罪に決まっているではないか、とせせら笑う。そうやって、イエスが弁護できるだろうかと疑わせ、イエスとの信頼を断ち切ろうとする。弁護人が信用できなくなったら、裁判で勝ち目はない。悪魔は巧みに脅しをかけて、イエスと私とを切り離そうと努める。それが悪魔の仕事なのである。
また、「私は、きょうだいたちに/あなたの名を告げ知らせ/集会の中であなたを賛美しよう」という最初の引用は、詩編22:23からである。これははっきりしている。これはある意味で詩編の中でも一、二と言ってよいほど有名な冒頭の句をもつ詩の一部である。そう、十字架の上でイエスが「わが神、わが神/なぜ私をお見捨てになったのか」と叫んだ、あの言葉である。この詩は本来ダビデの詩であるのだから、ダビデのシチュエーションというものから理解する必要があるだろうけれども、キリスト教徒は決まってこれをイエスの十字架の言葉として受け止め、時に議論する。これはイエスの絶望そのものなのか、それともこの詩がやがて神への賛美へと移ってゆくことの前触れなのか。
前触れだとする捉え方は、いかにも信仰的であるが、それなりに長い詩である。持って回ったような技巧を、十字架上のイエスが聞かせるというようなことが、あり得るのであろうか。そういうふうにして、イエスは真の人間でもあったから、と考えるか、どうせただの人間に過ぎなかったから、と考えるか、いろいろな人間の思惑が交差する、正にクロスロードとなるのである。
だが、それほどに私たちの罪が絶大で深く、決定的に重いということを、当事者である私たちがとやかく言うのはどうなのだろうか。私の罪を赦すということは、「あなたの罪は赦された」という言葉だけで終わるような出来事ではなかったのではないか。しかも、この絶望の叫びと共に一度は消えた命の火は、三日後に輝く栄光の復活を成し遂げたのだった。正に死は終わりではないのであって、その復活のイエスが、この礼拝の真ん中に立っている。そのとき、悪魔の力は無となった。このイエスと「信」の紐で結ばれているならば、それが現実に起こるであろう。いつか主の日に完成することだろうが、いま現在に於いても、確かに神の支配が成立するということになるであろう。
ヘブライ書の記者は、「私は、きょうだいたちに/あなたの名を告げ知らせ/集会の中であなたを賛美しよう」を、冒頭の「わが神、わが神/なぜ私をお見捨てになったのか」のイエスの姿と結びつけることを狙ったのかもしれない。偶然その詩から引用した、というよりも、イエスの十字架の姿と、深いところで結びついた信仰の形として、取り上げたとも考えられるのである。
説教者は、ここに弟妹がいる、とイエスが神に知らせているイメージを、最後にまた思い描かせる。だから私は、この長兄に倣い、その名を呼び続けることができるのである。イエスは私たちを恥とはしない。そればかりか、自ら知を流して弁護することによって私たちを無罪とし、やがてよみがえりの命を与え、あるいはもしかするといますでに、よみがえりの命を与えているということなのかもしれない。
説教者は最後に、死後の出来事についてのひとつのイメージを、ある作家のファンタジーから紹介した。それはたいへん肯ける、と評していた。その内容はここに明らかにはしないが、亡くなった方を記念するひとときのためのメッセージとして、大いに慰めになるような、ひとつの想像であった、ということだけは申し添えていてよいことだろう。
ヘブライ書は「死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた人々を解放されるため」に、イエスが血と肉という形で来てくださったことを述べている。イエスの死が、悪魔の死の力を無きものにするのである。死の恐怖のために悪魔の奴隷となっていた人々は、解放されるのである。本当は、そちらの方向で説教を固めることもできただろうとは思う。だが、説教全体は、遺族の心に寄り添うような形で、流れていったように感じられた。説教者自身、肉親の死を看取ったことから、そうした思いが強かったのかもしれない。
今回の「死」は、どこか三人称の死、あるいはせいぜい二人称の死に留まっていたような気がする。もちろん、この機会はそれでよかった。そのうちにまた、一人称の死を正面から語ってくださることを期待している。