【メッセージ】神の国と神の義

2025年10月19日

(マタイ6:24-34, 出エジプト19:3-6)

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。(マタイ6:33)
 
まず、お断りから。いま、マタイ伝の「山上の説教」を連続してお話ししています。本来ならば今回は、6:19-24を取り上げるはずでした。しかしここは、今年2025年2月9日に開いてお話ししています。そのうち6:24だけを重ねつつ、そこを入口とした形で、今日は6:24-34から、神の言葉を受け止めようと考えています。
 
◆ウルトラマン
 
「ひかりのくに」という出版社があります。こどもの本を中心に、よい働きをしています。これを漢字で「光の国」と書くと、また違うものが頭に浮かんできます。M78星雲にある、ウルトラの星です。ウルトラ戦士たちの故郷とされています。ものを食べることがなく、光そのものをエネルギー源としている、という設定になっているそうです。
 
初代ウルトラマンのテーマソングのサビは、こうなっていました。
 
  ♪光の国から ぼくらのために来たぞ 我等のウルトラマン
 
「光の国」とはまるで国家の名前のように聞こえますが、ウルトラの星そのものが「光の国」であるようです。むしろ、「光の国」の方が正式な名称ではないか、とも言われています。「国」は「星」の一部ではなくて、「星」そのものであるようなのです。
 
ウルトラマンのシリーズは、1966年7月からテレビ放送が始まりました。その前にも、「ウルトラQ」などの作品を出していた円谷プロが送り出した、比較的分かりやすいヒーローものは、たちまち子どもたちの話題になりました。
 
円谷プロの初代社長は、円谷英二。日本の特撮技術の第一人者ですが、カトリック信徒の一家であり、このウルトラシリーズにも、聖書の要素が多数含まれています。怪獣の名もそうですが、ウルトラの兄弟たちが、異次元人ヤプールに捕らえられ、ゴルゴダ(タではなかった)星で十字架に架けられる姿は衝撃的でした。
 
そういうわけで、あの歌の歌詞も、聖書を背景に解釈することはできようかと思います。
 
  ♪光の国から ぼくらのために来たぞ 我等のウルトラマン
 
ここでいう「光の国」が、「神は光である」ことと重ねると、「神の国」のイメージを含みもつことは確かだろうと思うのです。そして、そこから「ぼくらのために」来たウルトラマンは、イエス・キリストの姿を彷彿とさせるように思えてなりません。
 
ところで、ウルトラマンは、「ぼくらのために来た」のでありましたが、「我等のウルトラマン」と直ちに呼ばれています。英語だと同じなのでしょうが、日本語では「ぼくらの」と「我等の」とは同じようには捕らえられません。「ぼくら」が子どもたちであることは推測できますが、だとしたら「我等」は、何なのでしょう大人も含めた、すべての人間のため、なのでしょうか。
 
それとも、ウルトラマンをイエス・キリストになぞらえるならば、イエス・キリストはすべての人間の神であるのだが、主を信じるキリスト者が「ぼくら」であり、キリスト者の救いのために来たのだ、というニュアンスを隠しもっているのでしょうか。このような理解は、聞いたことがないのですが、私は、こう捉えてよいように思っています。
 
◆食べ物と命
 
33:まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。
 
「光の国」というものを頭に描いて戴いたのは、今日、「神の国」という言葉が出てくる、この言葉を私たちは聴くからです。「神は光である」ということを、聖書を読む私たちは知っています。だから「神の国」は「光の国」とも言い換えてよいように見たのです。
 
しかし、例によって、その言葉がいきなり現れたわけではなく、イエスがこれを言うに至る、前提ないし流れというものを確認する必要があると考えます。その発端は、こうした言葉でした。
 
24:「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
 
神と富とに同時に仕えることはできないはずだ。その重みを感じながら、私たちは、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな」という言葉を受けます。
 
「何を食べようか何を飲もうか」は、勘違いをすると、おかしな問いかけになります。贅沢な暮らしをしている私たちは、さあ今日は何のメニューにしようかな、と迷っているようにも聞こえます。もちろん、そうではありません。飲食に労苦していて、何もない、選べない、そういう情況の中にあるのです。
 
私たちは、「生きてゆく」という意味で「食ってゆく」という表現を使うことがあります。食べることは、正に生死に関わります。いま日本でも、この食に関して貧困と言えるような家庭が少なくない、と言われています。10年ほど前の統計では、子どもたちの6人に1人が、食事が満足に与えられていない、と言われたこともありました。そのため「こども食堂」という支援が始まり、教会関係でも、営んでいるところがあります。頭が下がります。しかし、衛生面やアレルギーなどの問題が常につきまとい、軽々しく「こども食堂」のようなことができない面があります。食は、人の命に関わることなのです。
 
確かにこれは「命のこと」です。そこにイエスは、「思い煩う」という罠が隠れていることを指摘します。「命は食べ物よりも大切」というからには、「食べ物」そのものを目的とするな、というふうにも聞こえます。「神と富」のうち、「富」の方に、その「食べること」が引き寄せられるような見え方をしているとなると、むしろ「神」に関係する「命」ということを、さらに大切なものとして見つめてはどうか、と問いかけているように聞こえるような気もします。
 
◆鳥と花
 
26:空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。
 
イエスは次に突然、美しい、自然への眼差しを私たちにもたせます。イエスは、身近なものをしばしば喩えに用いています。それが、きっと誰にでも伝わりやすかったのでしょう。となれば、私たちの心にも響かないはずがないのですが、これも文化が異なれば、そして時代が大きく変われば、なかなか通じない。喩えというものは分かりやすく使うものだが、文献の中での喩えは、全くの謎になってしまう。
 
イエスの目の先には、実際鳥が飛び立ったのかもしれません。人々もそれを見たでしょう。その「空の鳥」を、「天の父は養ってくださる」のです。しかし、人間は鳥よりも優れた者です。イエスは、そう言って、人々の自尊心をくすぐるように見つめます。
 
思い煩ったところで、寿命を延ばすことはできないではないか。イエスは、「思い煩う」ことから解放させようとします。「思い煩う」というギリシア語の言葉は、心が二つに分かれる、というような言葉をつないでできた語です。「分裂した心」、それが「思い煩い」だと考えられていたのです。
 
このイエスの話からすると、「神」と「富」とに心が分かれている、ということに違いありません。人々は、「神」のことを気にかけているはずです。だったら、「神」のことば気になりつつも、いつしか、あるいは根本的には、「富」を第一とてしまっていることになります。人々は、少しばかり小心者の信仰者である立場です。私たちのことです。端から神など信じていない人に、呼びかけているわけではないのです。
 
「なぜ衣服のことで思い煩うのか」とイエスは問いかけます。食べ物ほど命に関わらないかと思いきや、夜には衣服なしでは凍え死ぬかもしれないような気候がそこにあるかもしれないと思うと、これもまた命の問題です。衣服を軽く見てはならないと思います。
 
そしてここでもまた、自然を取り上げます。目の前に咲いていた花々に、人々の心を向けさせたのかもしれません。あの「野の花」もまた、神が着飾らせたのではないか。花はあくせくしないし、心配もしていない。人間もかくあってはどうか。神は人間に、必要な衣服は与えないはずがない、と信じてはどうか。
 
このときソロモンの名を出したのは、人々に疑問を起こさせる可能性がありました。ソロモンは金持ちでした。食べ物にも衣服にも、困らないどころか、人間が持ちうる限り贅沢を極めた人ではなかったでしょうか。ソロモンは、心が二つに分かれる可能性すらなかったのではないか、と疑うことができたと思われます。でも、イエスは答えを用意していました。「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」との断言です。ソロモンよりも花が上、そしてその花よりもあなたたち、小心者の信仰者の方が上なのだ、と励ますのです。
 
◆心を分割しないように
 
金などを求めてはならない。富を求めるのは、神への道に反している。そのように教える教会がいたら、現代では危険視されるかもしれません。たとえば穏やかに、「富を求めてもよいのです、富を願っても罪ではありません、ただ教会の礼拝には来なさい」というようなことを言ってくるのではないかと思います。
 
確かに、金の亡者になるということは、半世紀前には、ありがちでした。「エコノミック・アニマル」という言葉を聞いても、ピンとこない人がもう多くなったかもしれません。日本人は、金儲けのためならばなんでもする、獣にだってなる、と世界から揶揄されたことがあったのです。そんな中で、「愛」だ「正義」だ、などと真面目な顔で言えば、馬鹿にされるのが常でした。子どもならいざ知らず、大人がそんな夢みたいなことを言うな、現実を見ろ、というわけです。
 
イエスは、そういう世間に背を向けます。この世での財産や金など顧みるな。神だけを愛せ。私を信じる者は全員が修道僧になれ。そんなことを言いたいのか――というと、そんなことはないでしょう。
 
31:だから、あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。
 
諭されているのは、「思い煩うな」という一点です。悶々と悩み続ける必要はない、と言っているのです。飲食は命を支えます。着るものもそうです。しかし、そこに最終的な目的を置いて、それが与えられないから神がくださらないのか、などと思い悩むな、というのです。神をもつ者は思い煩う必要がないのです。神をもたない異邦人ならば、衣食住を生きるための第一の目的としているかもしれませんが、それたけならば、命というものがない、そう言うのです。
 
あなたがたの信じる父なる神は、ご存じです。「あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである」のです。必要な富はあたえられることでしょう。生活のために富が欲しくて、心が揺れ動くことはあるかもしれません。それでも、心を二つに分割させてしまうことはやめたがよいのです。心は一つです。その一つの心が、神に根づいている中で、富を願うという構成にしたいのですが、これがなかなか難しい。
 
しかし、神はご存じです。衣食住の必要なことは、神は知っているのです。神は与えようという思いで一杯なのです。
 
◆神の国と神の義
 
33:まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。
 
そうして、このまとめが現れます。神の国と神の義。これが第一のものであり、先ずそこを求めるがよい、とするのです。文献調査からすると、初めは「国と彼の義」という形だったのではないか、と言われています。その後、分かりやすくするために「神の国と彼の義」と表現することにした可能性が高いとのことです。
 
「彼の義」とはもちろん「神の義」ということを示していますが、原典では「彼の義」です。どうも日本語で「彼の」と記すのは、神を示すのに適切でない、という判断からでしょう、「神の義」という言葉が訳語として通用しています。この点、日本語の訳の殆どはそうしています。新改訳第三版が「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい」としていましたが、続く新改訳2017では、「まず神の国と神の義を求めなさい」と求め、「だから」も省くようになりました。
 
「神の国と神の義をまず求めなさい」と始まる、有名な賛美の歌があります。1973年、フォークソング的賛美が始まった頃に生まれたそうですが、ギターひとつでどこででも歌えるのはよいことでした。歌詞はこれに続いて、「これらのものは与えられる ハレルハレルヤ」と歌うのですが、考えてみれば、これだけの歌詞では、意味しているところは分かりにくいものです。
 
私たちがいま見てきたようなところを辿った上で、この賛美に行き着くのであれば、分かりやすかったかもしれません。
 
この「神の国」ですが、「国」という言葉は、「支配」と読み換えて理解することが勧められる場合があります。必ずしも国土を意味するようなことはなく、「神の支配」のように読むと誤解が少ない場面が多いというのです。確かにそうです。ギリシア語の言葉を日本語に置き換えるという作業ならば、それで十分でしょう。でも、何か物足りない気がしなくもありません。もうひとつ、ピンとこないことがあるのです。スッキリしない気持ちが残るときがあるのです。
 
「神の義」、こちらはさらに具合の悪いものです。「義」は「正しさ」という語です。神の正しさを求めよ。確かに間違っていません。いろいろ聖書に通暁し、礼拝説教を長い間聞き、解説書も時に開くのであれば、「義」とはどういうことを言っているのか、多角的に把握できるようになることでしょう。でも、やはりなにかピンとこないのです。スッキリしないのです。
 
◆神の世界
 
「神の国」にまず目を向けましょう。「国」は単数形です。そのときこの言葉は私に、「他の国々がある中で、相対的に存在する一つの地域」をイメージさせます。「不思議の国のアリス」での「国」は、現実の国があるのに対して存在するファンタジーでした。「光の国」も、地球ではない宇宙の彼方にありました。「共産主義国」というような呼称も、他の制度の国家があるからこそ、「国」として呼ばれました。では、「神の国」には、ほかの国があっての「国」という意味があるのでしょうか。
 
いまの私たちの目には、そのように見えます。私たち人間にはいま、争っている国もあれば、協調関係にある国もあります。貿易国もあれば、国家として承認していない国もあります。「神の国」を信じている私たちにとっては、それはこの世の国とは違う、一つの国である、としか言いようがありません。
 
ただ、それはいずれ、神だけを称える唯一の国へともたらされるのだ、ということを信仰しているのが、キリスト者というものです。天の都エルサレムが降りてくるとか、地上の土地を受け継ぐとか、表現の問題でいろいろと神学的議論があるかもしれません。マタイが「天の国」と言っているから、空中だとか、空の上だとか、いろいろイメージしている人がいるかもしれません。
 
それでも、キリスト者であれば、「主の日」が来て、「神の国」が実現することを、信じていることでしょう。聖書を信じるならば、信じているとしか言えないでしょう。そしてそれは、いまキリスト者が見ている世界とは無縁の遠いところなのか、と問われれば、「神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。『ここにある』とか、『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ」(ルカ17:20-21)とイエスが言ったことを持ち出して考えることも必要になります。つまり、ある意味で、いますでにここにある、という見方もできる、ということです。
 
キリスト者にとっては、いまここに「神の支配」がある、というのが信仰です。私は神と出会った。私は神の声を聞いた。私は神との関係を結んでいる。私はいまなお神に逆らい、罪を犯すことがあるけれども、「神の支配」は確かにここに届いている。そんなふうに考えるのが、信仰であると言うべきなのかもしれません。
 
ですから、「神の支配」と言っておけば、より正確なのでしょうか。それでも、「王の支配」はその王国の内でのことに限られるのであって、日本の支配権は、日本の領土内か日本大使館の中に制限される、というイメージがもたれるようにも思われます。いったい、神の支配というのは、その程度のものなのでしょうか。神の支配は、すべてのすべてに及ぶものではないのでしょうか。神が、すべてのすべてになられる、ということが、主の日にもたらされる世界ではないのでしょうか。
 
そうです。日本語にも、その「すべて」をイメージさせる語が、ないわけではないのです。私は思い切って、「神の世界」といま呼んでみようと思います。「世界」だと、全体すべてをイメージさせることも可能だと理解します。それでも近年では、「パラレルワールド」だとか「異世界」だとか言って、別の世界を安易に持ち出す空想話がたくさん出てきています。また「宇宙空間」を持ち出すと、地球という「世界」もまた相対的なひとつの星に過ぎない、と言いたくなる人もいることでしょう。しかし、「国」よりももっと普遍的なレベルで思い描かせる言葉として、いま「世界」を持ち出すことで、イエスの言葉を少しでもその指し示す意味を受け止めたいと考えたのです。
 
キリスト者は、「神の世界」を掲げています。神がすべてのすべてであり、存在するすべての支配者であることを、それは示します。やがて、神がすべてのすべてとなり、王の王となるようになる。その「時」を待つキリスト者は、「神の世界」を待つ、というふうに表現してみてもよいのではないか、と考えるのです。
 
◆教会の旅
 
「神の世界」は、いつなのかはいま私たちには知られていませんが、いつか神が人間の争いや混乱に決着をつける「時」がくることにより、実現します。それがキリスト教の信仰です。しかし、くっきりとではなくても、おぼろげながらでも、「神の世界」の姿を知りたい、とは思います。それは、「教会」を通して見えるものにしたい――それは、教会の歴史の悲願でした。教会は「神の国の大使館」というふうに呼ばれることもありました。
 
もちろん、現実の教会に対して、多大な期待をすることはできません。それでも、世間よりは幾らか、期待してもよいところでありたいと願います。教会に来ている人ならば、その辺りの誰それを信用するよりは、幾らかでも、信用してよいことが多いのではないか、と考えられたいものです。
 
教会には、理想を押しつけないようにしたいし、されたいものです。教会なんてどうせ、と侮ることのないように、侮られることのないようにありたいものです。きっと、ほんのわずか、教会には、「神の世界」の欠片でもあればよいですね。ただ、教会にちょっと不満があったからといって、教会というものがまるで意味がない、というふうに思われたくはないものです。ここにある教会は、夢の国ではないのですから。
 
出エジプト記で、あの「十戒」が渡されるに先立って、モーセにこのような言葉が投げかけられた場面があります。
 
今もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたがたはあらゆる民にまさって私の宝となる。全地は私のものだからである。そしてあなたがたは、私にとって祭司の王国、聖なる国民となる。(出エジプト19:5-6)
 
私たちは、「祭司の王国」になる、と言い渡されています。信頼されています。あるいは、約束されています。励まされることではありませんか。
 
他方、「神の義」という言葉の分かりにくさについてですが、この「義」を、「救い」と読み換えてはどうか、と考える人もいます。少々限定的な意味合いになるかもしれませんが、人間の側から見れば、「神の義」は、確かに「神による人の救い」を示すことになることでありましょう。
 
人の「救い」ではあるにしても、それは神がもたらす救いです。神の論理が、人の論理や思い計らいを超えて、実現されるに至るのです。イエス・キリストの十字架での惨殺という、人間には思いもよらない道を通して、神は救いをもたらしてくださいました。それが神の論理でした。神の正しさでした。
 
この道を進む上で、衣食住が必要であるなら、与えられる、とイエスは言いました。実際には、かなり不自由している人はいます。しかしイエスの道を選ぶ信仰を生きるとき、生きる時間をもっと必要としている者には、衣食住は備えられることを、イエスは告げています。生きる時間に限りがあるならば、その命は神の世界に引き入れられてゆくのでしょう。
 
少なくとも、煩わされて、心を分割してしまう必然性はない、と捉えましょう。人が支配する論理ならば、絶望しかないかもしれません。そこに神が、などと言われても、心が分裂してしまうかもしれません。けれども、足元に踏みしめているのは、人の道ではありません。人の支配による道ではないし、人の正しさによって運ばれる道でもありません。神が、人を支配します。神が、神だけが、人を罪なしと宣言できます。私たちは、「神の世界」を待ちながら、「神が与える救い」を喜びつつ、いましばらく、この地上を旅してゆく者でありましょう。ここは、見えるにしろ、見えないにしろ、確かな「教会」であるのです。



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