人間の思考に神は不要であるのか

2025年10月09日

ひとは、「ことば」によって「考える」。考えることについては、ことばを使うことなしにはできないであろう。以下、「思考」や「思惟」という表現を使うことがあるが、いずれも「考えること」を意味するものとし、特別の差別は設けないものとする。日本語の流れの中で使い分けるだけであって、内容を殊更に区別するものではない、という意味である。
 
「神」ということを話に持ち出すと、自分の頭で考えろと言われる場合がある。自分で考えるのを止めるから、神などと言い出すのだ、という論理である。それは、「思惟」というものが、神とは分離されたものでしかない、というひとつの前提に基づく論であろう。
 
思惟と存在の対比がある。デカルトが際立たせたようにも見えるが、中世哲学の大きなテーマでもあった。ただ、中世ではそこに第三の「神」が掲げられていたのに対して、デカルトはむしろ思惟から神を立てるような方向性を強調した。なにもデカルト一人の業績ではない。教会の俗化やその支配の行き詰まりもあり、一種の文明開化であるルネサンスの風の中で、どこか自然にそのように向かった、と言っても構わないような情況だったことだろう。
 
その後、益々思惟は独立し、人間の思考こそが万物をコントロールするのだという捉え方が常識のようになってきた。私たちがいま、「考える」ことの配下に「神」を置くようになったのも、その路線であると言って構わないだろう。
 
かくして私たちは、「神」のことを持ち出されると、神など想定せずに自分の頭で考えるべきだ、という言い方が正統的なものとなった社会風土の中で暮らし、そしてそれぞれの人もまた、その正論を当然のものとして理解するようになった。
 
その「思考」は、「ことば」によるのだ、と最初に私たちは認識した。「ことば」によらない「思考」はありえない、と。
 
ヨハネ伝は、ただの言葉ではないにしろ、「ことば」が「神」であった、と証言している。キリスト教信徒は、この句を愛している。神のことばには「みことば」という表現まで持ち出して、聖書のことばを神と同一視するようにもなった。さらに、礼拝で語られる説教の「ことば」もまた、神の実現、神の存在を以て捉えるように見なしている。
 
そこに「ことば」がある以上、そして「ことば」によってこそ「思考」が可能であることを思うと、「思考」から「ことば」なる神を追い出す必然性はありますまい。ひとが勝手に、神なしで済ますことを真理とすることは、可能性のほんのひとつに過ぎない。その一可能性を金科玉条のように守る必要はないだろう。もっとそこから自由になってもよいのではないだろうか。
 
その自由の道は、実のところ「罪を知る」ことに関わっている。その辺りのことは、聖書に直に尋ねなければならないであろう。



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