私は神のものだった

2025年10月13日

教会ではよく、神学校を覚える礼拝を年に一度もつことがある。その日の席上献金をすべて、神学校のために用いる、というシステムにしていることもある。今日の説教者は、ゲストであった。神学校の教授である。
 
説教の内容に、さしあたり目を向けよう。開かれた箇所は、ルカ伝20章の、皇帝に税金を納めるとについて、律法学者たちと祭司長たちがイエスに罠を仕掛けた件である。彼らのスパイたちが、へつらいの姿勢で近づいて、皇帝に税金を納めることの是非をイエスに問うた。これはジレンマであって、イエスにはそれが彼らの「たくらみ」であることは当然分かっていた。なお「ジレンマ」とは、2つのどちらを選んでもまずいことになってしまう状態をいう。
 
周囲は固唾を呑んで見守る。さて、イエスはどう対応するのか。イエスは、収める税金となる硬貨を目の前に出させ、そこには誰の「肖像と銘」があるのかとスパイたちに問う。「皇帝のもの」だと彼らが答えると、イエスは切り返す。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこの答えに対抗できず、沈黙せざるをえなかったという。
 
実はこの前に、イエスは、祭司長たちや律法学者たちをやはりジレンマでやりこめている話がある。彼らがイエスに、その行動の「権威」はどこにあるのか、と問うたのに対して、イエスはまともには答えず、逆に彼らに問うた。2つのうちどちらか、と選択させたのである。すると彼らは、イエスの提示したどちらを選んでも自分たちが不利になることを計算し、分からないと答えた。これを聞いてイエスは、では自分も最初の問いに対しては答えないことにする、としたのだった。
 
このときには、イエスの一種の狡さが明らかにされている。イエスに与えられた問いを回避するために、イエスは権威筋に対してジレンマをもたらしたのだ。彼らの陥ったジレンマは、自らの出した問いである「権威」にまつわるものだった。ではイエスは、彼らの問いを本当に回避したのか。どうやらそうではないらしい。イエスはすぐさま、今度は民衆の方を向いて、主人がぶどう園の収穫を納めさせるために派遣した者を、農夫が袋叩きにし、最後に主人が送った息子を、今度は農夫たちが殺した、という譬え話を話した。律法学者たちと祭司長たちは、これを自分たちへの「あてつけ」だと理解した。そこで、彼らはイエスにスパイを送ったのである。
 
このときに、スパイたちの作戦は、今度はイエスにジレンマをかけることだった。皇帝への税金をイエスが納めないとすれば、ローマ帝国への反逆人となってしまう。納めるとすれば、イエスはもはやローマの犬になってしまい、ユダヤ人の救い主かという路線が落ちこぼれてしまうことになる。
 
イエスは、税金を納めるという形をとらなかった。皇帝の肖像と銘が刻んである硬貨ならば、それは皇帝のものだろう。「返す」ことに何の躊躇もいらないはずだ。但し、イエスは付け加える。「神のものは神に返しなさい。」これが、返答としてはまともな回答とはなっていない。
 
説教者は、「すべては神のもの」という根本的な原理に注目すべきだとした。この生き方を、イエスは求めているのだ。もはや税金とか皇帝とかいう次元のものが問題なのではない。
 
まことに、主こそ我らの神。/私たちはその牧場の民、御手の羊。/あなたがたは今日、主の声を聞きなさい。(詩編95:7)
 
説教者は、自ら愛する詩編を思い起こし、主の御手の羊である姿を、平安の究極の姿としているかのように語った。いわばそれが救いそのものなのであろう。
 
説教者は、旧約聖書の専門家である。この説教では、旧約聖書も開いている。ヨブ記の42章の初めの箇所である。
 
ヨブ記について、説教者はあらましと共に、このとりとめもない物語をどのように聞くとよいのか、ガイドをつけてくれた。不条理な不幸に襲われたヨブは、同情的な三人の友人の見舞いを受ける。が、ヨブは物語の設定としては「正しい人」である。友人たちはそれぞれに、一種の「因果応報論」を以てヨブに向かう。というのは、ヨブは自分が正しいと主張するからである。そこには、ヨブが、自分のことは自分で決めるのだ、という姿勢があったのではないか。説教者は手厳しい。ヨブは、神を穏やかな心で信じられなくなったのだと言い、友人たちとの対話を通しては癒やされないことも自覚していた。だが、そこからの出口についてヨブが知るためには、主自らが必要だった。神は、ついに直にヨブの前に現れた。正確には、「声」を通してヨブに呼びかけた。しかし、神もまともな議論をするつもりはない。この世界の創造の神秘を次々と繰り出して、ヨブが被造物に過ぎないことを教えた。ヨブは、叩きのめされた。
 
こうして、ヨブは降参の旗を揚げる。
 
私は知りました。/あなたはどのようなこともおできになり/あなたの企てを妨げることはできません。(ヨブ42:2)
 
私は耳であなたのことを聞いていました。/しかし今、私の目はあなたを見ました。
それゆえ、私は自分を退け/塵と灰の上で悔い改めます。(ヨブ42:5-6)
 
神のこの業には、不可解なところがある。ヨブの信頼もコロリと変貌するが、それもまた不可解。ただ、このとき神とヨブは、人格的な交わりを果たしたのは確かである。説教者は、神がそれを求めていたのではないかと告げる。
 
こうして説教者は、「神の荘厳さ」というものをここで強調する。ヨブにぶつけられたのは、「創造者たる神の荘厳さ」であった。それが、ヨブとの出会いを実現させたのだ。ヨブはいわば、神が自身を徹底的に支配しているということを痛感し、その中でこそ、神と出会うことができたのである。そして、説教者はこのことこそ、「神のものを神に返す」ことであるのだ、と伝えた。創造された私は、神のものなのだ。私は、神に立ち返るべくして、ここにあるのだ。
 
皇帝は、どこか出汁に使われたのかもしれない。もちろん、ひとは社会生活をするということもその人生に与えられた大切な課題である。しかしいまは、それを問題にしているのではない。ここでは専ら、神との関係をどう立てるか、あるいは維持するか、ということである。それはまず始まらなければならない。自分のことを自分で決めるようなまに突っ走るのは、人間の「正しさ」の暴走となる。自分の「罪」をどう知るか。自分が「罪人」であるというエポックがどうしても必要になる。
 
そのとき、創造の主が、自ら痛みを味わってひとを救うという計画の中に、そのひとを招き入れる。イエスの十字架を見上げ、そこに自分の救いがあることに気づく。これが第二のエポックである。さらに、その十字架に自分が死んでいることを体験する。このとき、十字架のイエスが復活したことに、自分もまた重ねられてゆくことを知るのである。
 
こうして私たちは、復活の望みを与え
られると同時に、全く造り変えられたことを知る。新しい人生が始まったのであり、それはもはや死にすら止められない、永遠の命を受けたということを喜ぶようになるであろう。
 
説教者は、「我が事として受け止める」という大切なポイントをも示した。このヨブ記は、確かにひとつの物語ではあるが、それが他人事としての物語に留まっている限り、ヨブと神との出会いは、私にとってもまた他人事でしかなかったであろう。「我が事」にそれがつながったとき、私と神との関係もまた始まるのであり、救いがもたらされ、そして復活の命に生かされることになるのである。
 
いまのこの私の語りは、半分説教者の語ったことだが、自由に私がそれに応えたことをたくさん含み、またその路線で綴っている。だからここにある誤解や誤った知識は、説教者のものではなく、私の領域のものである。
 
実は事情で、礼拝説教は、この辺りに関係するところまでしか聞くことができなかった。この後は、そう長い時間語られていたのではないと思うが、恐らくイエス・キリストへとより結びつけられていったのではないかと想像する。私は「神のもの」として、必ず「神に返る」ものでなければならない。本来「神のもの」として創造された私というものを、「神に返す」のでなくてはならない。但し、それは、私が自分で決めてできるような代物ではない。そこには、イエス・キリストの死と復活があり、「神のもの」としてのあり方から外れていた私は死に、「神に返す」ことを執り成したイエスの業によって、私は復活するのである。
 
なお、聞き慣れない説教者の場合、その話し方の特徴を感知するのには、少々時間がかかる。私の理解力が貧しいことが一番の原因ではあるが、感じたことは正直に申し上げることにする。
 
説教原稿というものは、もちろんあっても差し支えないのであるが、それがもしも書き言葉で書いてある場合は、壇上では、「聞いて分かりやすい」ように語るのが普通であると私は考える。言葉を言い換えたり、時に故意に繰り返したりして、聞く人の立場を考慮して語るものである。
 
読む説教というものもある。語ったものを本にするときには、語ったその通りに文字にすると、読みづらい。書き言葉で書かれてあってよいし、無用な繰り返しは避けるのも普通であろう。また、読む説教は、前の行を読み直す自由があるから、構文が複文になっていても、それほどダメージは大きくない。しかし、聞く説教であれば、そうはゆかない。10秒前に戻ることなどできず、時間は一方向的に流れて、言葉もそれに乗って過ぎ去ってゆく。複雑な複文は避け、できれば重文も抑えて、なるべく簡潔な構造の文を重ねて語ることが望ましい。
 
一文が長いと、聞きづらいのである。特に、譲歩節が入ってくると、辛いものがある。主張文の意味を、正確に伝えるために、反例や但し書きのようなことを述べたいときがある。しかし、もしも主張文の主語と述語の間に、「〜だけれども」や「〜ということは別にして」というような但し書きが挟まれると、聞くのがとても辛いのである。言われていることが肯定されているのか否定されているのか、日本語では最後まで聞かないと分からないために、長い一文の中で、どれが主文であり、どれか例外的な内容であるのか、ということは、聞いてゆく中では区別しづらいのである。
 
確かに説教原稿は、書き言葉としては優れた論文調であったかもしれない。だが、流れがあっちに行ったりこっちに行ったりと蛇行するように聞こえ、どこに主軸があるのか分かりづらい話し方であったことは否めない。大切なポイントを繰り返すというふうでもなく、しかも語るのが非常に速かった。ぽんぽんと出てくる文章が、長い文と複雑な構文で届き、しかも繰り返しで要点を伝えるという配慮がない中では、説教の筋道を「聞く」のは至難の業だった。もちろん、私の理解力が貧しいせいだ、ということは否定しないつもりではあるけれども。



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